より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

未だに続くめちゃくちゃな漢字教育

 西日本新聞(4月5日、ウェブ版)の「0点は厳しすぎ?小1『とめ、はね、はらい』で✖ 文科省の見解は」という記事で、「習字のような「とめ、はね、はらい」ができていないと、漢字ドリルは全てやり直し。テストは0点ー。」にする教員がいて、保護者から「厳しすぎる」という悩みが届いたと紹介している。
 これに対し脳科学者の茂木健一郎氏は、YouTubeに動画を公開し、そんな指導は虐待であり、犯罪行為だと批判した。真っ当な批判である。

 私は記事を読んで、未だにそんな指導をしている教員がいることに、あきれ、どこまで不勉強なんだ、と怒りを覚えた。
 というのは、平成28年(2016年)2月29日に文化審議会国語分科会から「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が出され、「文字の形に関しては、文字がその文字特有の字体を表しているかどうか、その文字に特有の骨組みが読み取れるかどうかを漢字の正誤の判断基準としています。つまり、別の文字と見分けられなかったり、紛れてしまったりすることがなく、その文字であると判別でき、その文字としての働きをするのであれば、誤りとはしない、という考え方です。ですから、漢字の細部のとめ、はね、はらいなどが、字体の違いに影響し、文字の判別に関わってこないのであれば、その有無によって正誤を分けることはしません」(Q21)という見解が示されていて、その問題はすでに決着がついているからである。字体(文字の骨組み)に影響しない場合には、とめ、はね、はらいなど気にしなくていい。そんなことでバツにしたら、教員は自分の間違った考えを、子どもたちに押し付けていることになる。

 もう一つ記事で気になった個所がある。それは「福岡県の小学校教員は「とめ、はね、はらい」を基準に減点することは「誤り」だと投稿した。根拠とするのは学習指導要領解説の国語編だ。字体は骨組みであるため、実際に書かれた場合は無数の形状があり、「正しい字体であることを前提とした上で、柔軟に評価することが望ましい」と書かれている。だが文部科学省教育課程課の見解は異なる。「国語ではなく、社会や理科など他教科で書いた字は『とめ、はね、はらい』ができていないからといって、減点はしないという柔軟な評価を意味する」と説明する」という箇所である。本当に文科省教育課程課の職員がこんなでたらめなことを言ったのであろうか。信じられないことである。文科省教育課程課に問い合わせて、質すべきである。もし本当にこう答えたとすれば、文科省文化審議会国語分科会)が出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の内容を、文科省自身が否定することになる。ありえないことである。文科省教育課程課の職員は役人であって、教員でもなければ、漢字の専門家でもないので、漢字について良く知っているとは限らない。しかしこんな重要なことについて、漢字について良く知らない職員が不用意にでたらめな答えをしたとしたら、それはそれで大問題である。文化庁には「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の作成にかかわった、漢字に精通した職員もいる。そういう職員に責任を持って解答させるべきである。文科省教育課程課の職員の不勉強さも許し難い。自身の回答が、教育にどういう影響を与えるか、肝に銘じて仕事をしてほしい。

 どうして、とめ、はね、はらいなど漢字の細部にこだわる指導がなくならないのだろうか。どうしたら、そんな誤った漢字指導を改めることができるのだろうか。このブログや私の「漢字の採点基準」というホームページで説明してきたが、ここで改めて書いてみたい。

 とめ、はね、はらいなど漢字の細部にこだわった、でたらめな漢字指導をしている教員が拠り所としているのは、学習指導要領解説・国語編の第4章 指導計画の作成と内容の取扱いの次の記述であろう。

 (エ)漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること。

 その(エ)について、また次のように解説している。

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 でたらめな漢字指導をしている教員が、自身の指導が誤ってはいないと主張する根拠は、上の記述の内「学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準と」し、「文字を書く能力を学習や生活に役立てるために、文字を正しく整えて書くことができるよう、指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」という記述であると考えられる。(実際はこの記述を根拠とするより、根拠など考えることなく、正しいと思い込んで、何の疑いもなくそうしているのが実態かもしれない。)
 だが学年別漢字配当表に示す字形はあくまで標準であって、絶対的に正しく、これしかないというような字形ではない。漢字の字形には、1たす1が2というような、絶対的に正しい字形は存在しない。なぜなら学年別漢字配当表に示す字形と各種漢字辞典に表示されている字形とが同じではないように、同じ字体を表す字形は無数に存在するからである。絶対的に正しい字形など存在しないから、「標準」と言っているのである。だから学年別漢字配当表に示されている字形を、絶対的に正しい字形として、細部までその通りに書かなければバツとする指導は正しくない。
 また「指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」としても、「正しい字体であることを前提とした上で、柔軟に評価することが望ましい」とあるのだから、とめ、はね、はらいなどが字体の違いに影響せず、文字の判別に関わってこないのであれば、細部において、子どもが書いた字形が標準の字形と異なっていてもバツにしてはならない。あくまでもバツにしていいのは、とめ、はね、はらいが字体に影響して、別の字体になる場合である。どうしてもとめ、はね、はらいに注意させたいと思うのなら、子どもたちに返却するときに、ここはこう書いた方がいいよ、と赤ペンで書いて教えてやればいいのである。
 西日本新聞の記事には「とめ、はね、はらい」が不完全な字に丸を付けた担任に「小学生は基本が重要。習っていないのと、知って省くのでは意味が違う」などと訴え、指導を変えさせたという保護者もいたことが書いてあるが、こういう保護者は漢字の「基本」がどういうことか分かっていないのだから、教員が分かりやすく保護者に教えてやらなければならない。そんな漢字について知識もない保護者に、説明ができる知識を、教員が持っていないことが問題である。私は「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が出されるとき、その冊子を全小学校教員に配付するという話を聞いた気がするのだが、間違っていたのか配付はされなかった。今からでも遅くはないから、文科省は全小学校教員に配付し、説明会、勉強会を開き、指針の趣旨を周知し、数十年も続く馬鹿げた問題に終止符を打つべきである。できれば小学校の教員だけでなく、中学校と高校の国語科の教員にも配付してほしいが、配付が予算的にできないのなら、1000円くらいで強制的に買わせてもいいと思う。
 その際であるが、「指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」という、この誤解(曲解)を生みやすい表現の元になっている、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の「なお、学校教育では、漢字の読み書きの指導と書写の指導とが一体となって行われる場合がある。特に、小学校段階では、日常生活や学習活動に生かすことのできる書写の能力を育成するため、文字を一点一画、丁寧に書く指導も行われており、指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もあることを十分に踏まえる必要がある」(「常用漢字表の字体・字形に関する指針」第1章 常用漢字表『(付)字体についての解説』の考え方・3 漢字の字体・字形に関して、社会で起きている問題・(2)学校教育における漢字指導に関する意見聴取の内容)という記述は訂正するべきである。書写ではとめ、はね、はらいを教えることも必要だろうし、きれいな字を書けることは望ましいことであるが、「きれい」と「正しい」は全く別の問題である。「きれい」と「正しい」を混同してはならない。このことについては、このブログの「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について」(2020年11月6日)に詳しく書いたのでお読みいただきたい。

 どうしてとめ、はね、はらいが気になってしょうがない教員がなくならないのだろう。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」には、次のような記述がある。

 

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 ここには、「学習者の発達の段階に応じた教育上の配慮等から、一方の書き方を指導する場合にも、本来は、どちらも適切な書き方であるということ、また、はねの有無は、それが漢字の字体に影響しない場合には、正誤の判断基準にならないということをしっかりと踏まえておくことが望ましい」と、明確な判断が示されている。それでもとめ、はねが気になってしょうがない 、という教員の気持ちは分からないでもない。なぜなら、とめ、はねが字体の違いに影響を与え、とめ、はねで別の字になる漢字があるからである。その漢字がどの漢字なのか分からないから(どの漢字か明確に示されていないから)、とりあえず全ての漢字のとめ、はねを標準の字形として示された字とおりに教えなければならないと考えるのである。だから、必ずはねなければならないのは、この漢字であると明示する必要がある。これをしなければ、とめ、はねにこだわる教員がなくなることはない。常用漢字で必ずはねなければならない漢字は、「宇」「芋」「越」の3字だけである。(このことは私のホームページ「漢字の採点基準」に書いてあるのでご覧いただきたい。)とめ、はねにこだわる教員を批判することは容易であり批判したくもなるが、必ずはねなければならない漢字が3字であることを明示すれば、そういう教員もとめ、はねにこだわらなくなるに違いない。

 とめ、はね、はらいなどに明確な基準がないことは、次のことからも分かる。
 台湾は日本と同じく、漢字を使用している。台湾の使用している漢字はいわゆる旧字体であるが、日本と同じ字体の漢字もある。日本の小学校、中学校にあたる台湾の国民小学、国民中学で使われている常用国字標準字体と、学習指導要領の学年別漢字配当表に示されている漢字の字形を比較してみたのが、次の表である。

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 このように、とめ、はね、はらいが違っている漢字が多数ある。ここに示したのはその一部である。(ダウンロードして打ち出し、それをスキャンして拡大したので、例示した字がきれいでなくて申し訳ない。)同じ字であるのに、台湾と日本では字形が違っていることから分かるように、とめ、はね、はらいは、おおかたは文字のデザインの違いにすぎないのである。

 漢字は意思を伝達する道具である。誰もがその書かれた漢字を見て、その字だと分かるなら、細部にこだわる必要はない。細部にこだわる、間違った漢字指導が、早急になくなることを期待したい。

北国街道・米山三里を歩く

 先月24日と31日に、北国街道の米山三里と呼ばれる道を歩いてきた。米山(標高993m)の山脚が海岸までのびて、断崖となり峠となった難所である。
 なぜ米山三里を歩こうと考えたかというと、私は数年前から芭蕉奥の細道の旅で歩いた新潟県内の道を訪ねているが、米山三里は地図で調べても道がよく分からず、車では通れない道もありそうなので、現地を歩いてみるしかないと思ったからである。
 芭蕉は元禄2年7月5日(新暦1689年8月19日)に、この米山三里を歩いている。その日、芭蕉出雲崎を発ち柏崎の天屋弥惣兵衛に宿泊する予定であったが、面白くないことがあって天屋に泊るのを止めて先に進み、鉢崎の「たわらや」に宿泊した。米山三里は柏崎から鉢崎の間で、鯨波青海川笠島・上輪あたりの道を指すようである

 「曾良旅日記」には5日のことが、次のように書かれている。

五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎、天や弥惣兵衛ヘ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎、宿たわらや六郎兵衛。

 まず青海川あたりの地図をご覧いただきたい。

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 次に示す地図の赤の点線が、私の歩いた道である。➀~⑨の地図中の番号は、写真を撮った場所である。

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 私はホテルSEAPORTから出発した。(写真の左上の番号は地図中の番号と一致していて、その場所で写真を撮ったことを表している。)

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 8号線をほんの数十メートル歩くと、右側に青海川に下る道がある。次の写真はその入り口の様子である。海からの風が強いことが、樹形に現れている。

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  その道を少し下ると、道路の右側に青海川駅に下りていく崖路がある。次の写真はその入り口である。

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 この道は地図には表示されていない。現在は遊歩道になっているが、この崖路が旧北国街道・六割坂のようである。

 同じ場所から、JR青海川駅方面を撮ったのが次の写真。

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 上の写真の中央右に橋が見えるが、同じ場所からその橋をズームして撮ったものが次の写真である。

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 この崖路はその橋のところに下りていく。下りて橋の反対側から撮ったのが次の写真である。

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 ご覧の通り、この橋は壊れていて通行禁止で、橋を歩くことはできなかった。(崖の上に建っている建物は、ホテルSEAPORT。)

 次の写真はJR青海川駅

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 駅の左側の崖を上っていく道がある。この道も地図には表示されていないが、北国街道である。

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 崖路を上りきった所に茶屋があり、「米山三里 北国街道」の標識が立っていた。

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 この茶屋のところを右に折れ、少し歩くと明治天皇青海川行在所の碑が立っている。

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 道を先に進むと、8号線に突き当たる。しばらく8号線を歩いていく。笠島方面、田塚鼻が見えてくる。

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 次に示すのは笠島付近の地図である。

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 笠島地区を拡大したのが次の地図である。地図中の赤い点線、番号が示すことは前と同じ。

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 8号線を進んでいくと、右側に笠島方面に行く道がある。その道を少し下ると、笠島漁港に行く道とJR笠島駅に行く道に分かれる。

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 左の笠島駅に行く道を進む。しばらく崖の中腹の道を進んでいく。20軒か30軒くらいの集落もある。右手には美しい海の景色が広がっている。芭蕉は小雨が降る中を、腹立たしさと悔しい気持ちを抱いて歩き、この美しい景色に目を止めることはなかっただろう。
 JR笠島駅に行く道を下っていくと、お地蔵様が道の傍らに安置されていた。

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 このお地蔵様を少し下った所に、「米山三里 北国街道」の標識が立っていた。

 さらに少し下り、左に曲がる道を進んでいくとJR笠島駅である。

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 笠島駅から数軒先に「キッチン倶楽部もく」というお店があった。金・土・日の営業のようである。水曜日なので開店はしていなかった。

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 道をさらに進んでいくと、右側に網のある上り道になる。

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 その道は左に曲がり勾配は急になる。道を上りきり、三叉路になった所に多聞寺という真言宗のお寺があった。

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 三叉路を右折して、上輪方面に進んでいく。右手には田塚鼻が海に突き出ている。24日の日は田塚鼻を少し過ぎたところで引き返した。

 

 次の⑦の写真は出発点・ホテルSEAPORTに引き返す時に撮ったものである。

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 海からの強い風を防ぐもののようである。私が歩いた日は、暖かい春の陽射しが降り注ぐ、風のない日だったが、のどかで美しい光景なのでシャッターを切った。
 こういう見晴らしのいい、きれいな海の見える場所で育った人は、どういう性格になるのだろう。私の生まれ育った十日町は、見えるのは山ばかりである。いつも目にしている景色が、人の性格に影響を与えることはないのだろうか。ふとそんなことを考えた。
 出発点への帰りには、時間が短縮できるので、8号線の米山大橋を歩くつもりであった。しかし米山大橋の袂まで行ってみると、橋には歩道がないことが分かった。歩くのは危険なので、また青海川に下り、そして上ってホテルSEAPORTに戻った。

 次に示すのは上輪付近の地図である。

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 拡大したものが次である。

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 31日は田塚鼻を過ぎたとことから歩き出した。歩いていると道路の右側に「牛が首 北国街道」の標識が立っていた。矢印は私が歩いてきた、田塚鼻の方向を指している。

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 「牛が首」は、岬全体を田塚鼻と言い、田塚鼻の一部を指す地名ようである。牛が首は層内褶曲(上下の平行な泥岩層に挟まれている層が、曲がっていたり、途切れていたりする地層)で有名。
 この標識が立っていた場所は、「六宜閣」という名のある割烹だったらしい。今は店を閉じ、荒廃していた。

 次の写真は上輪集落に下っていく道路から、上輪集落を見下ろして撮ったものである。

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 この辺りは亀割坂と呼ばれる難所っだったようだ。地図に黒い線で示されている道は跡形もなかったが、その道も亀割坂の一部と考えられる。

 坂道を下っていくと、ぐるりと曲がって海の方に下って行く道と、真直ぐ山の方に向かって行く道とに分かれる。
 海の方に下っていく道に「上輪海水浴場 北国街道」の標識が立っていた。

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 山の方に向かう道には、上輪山 妙泉寺の方向を示す寺標が立っている。

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 妙泉寺は芭蕉が鉢崎で泊った「たわらや」の菩提寺なので、足を伸ばし訪ねることにした。次の写真が妙泉寺である。

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 妙泉寺から引き返し、上輪海水浴場の方に下っていくと、信越本線の高架下トンネルがある。

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 そのトンネルの向こう側に上輪の集落がある。道を下っていくと道は左に曲がり、払川に短い橋が架かるっている。その橋のそばに大きな岩があった。

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 呼び名のありそうな岩である。何時からここにあるのだろう。ずっと昔からここにあるのだろうか。尋ねてみたいものである。

 さらに進んでいくと、道はジグザグの上り道になる。

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 この道は米山トンネル入り口の手前で8号線にぶつかる。

 道順ではないが、帰宅するときに胞姫(よなひめ)神社に立ち寄った。上輪地区にある有名な神社なのでここで紹介する。胞姫神社は8号線の上輪大橋と胞姫橋の中間(橋と橋の間は2、30mしかない)にあり、駐車できるところもある。

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 私がお参りした31日には、参道の脇にも社殿の山側にも、たくさんのタラの木があって、食べごろの芽が出ていた。山菜好きの私は思わず手を出したくなったが、もちろん採ることはしなかった。神社の関係者の皆さんが食べるのだろうか。

 

 次の示すのは上輪、鉢崎(米山)付近の地図である。

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 拡大したものが次である。

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 上輪から上ってきた道は8号線にぶつかるが、少し先に進むと聖ケ鼻に通じる道の入り口が右側にある。

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 しかし、この道は入り口からほぼ廃道の状況である。平成19年(2007年)7月16日に起こった新潟県中越沖地震で、大規模の土砂崩れが発生し、以後復旧されていない。草や小さな木が生えていたが、行ける所まで行き写真を撮った。

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 奥に見えるのが聖ケ鼻である。私は中越沖地震が起こったその時、ちょうど南魚沼市の坂戸山(634m)を登っていた。歩いていたので揺れにほとんど気づかなかったが、山から下りてきた人が「大きな地震があったぞ」、と声をかけていったことを記憶している。
 今はこの道が通れないので、8号線の米山トンネルを通るしかない。米山トンネルを抜けると、右に入る道がある。その道を上り、聖ケ鼻に行く。聖ケ鼻にはきれいに整備された、広いスペースがあり、展望も素晴らしい。

 次の写真は前の写真とは逆に聖ケ鼻から上輪に向かって、土砂崩れの場所を撮ったものである。

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 聖ケ鼻には間宮林蔵樺太を踏査した、松田伝十郎の顕彰碑が立っている。

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 松田伝十郎は鉢崎の出身である。

 次の写真は聖ケ鼻から鉢崎(米山)の集落を撮ったものである。

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 鉢崎へとジグザグの細い道を下っていく。実はこの道は通行止めになっていた。危険ではなさそうに見えたので歩いてみると、ちょっと崩れているところはあったが難なく集落に下りることができた。

 道の下りきったあたりに鉢崎関所跡がある。

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 さらに数十メートル先の道の左側に、「たわらや」跡があった。

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 鉢崎(米山)は明治30年頃の鉄道の開通以来さびれる一方で、さらに大正9年1920年)の大火が追い打ちをかけた。「たわらや」は庄屋で代々宿屋を営んでいた。後裔は西村良作という人で、良作氏は昭和25年頃に70歳くらいで亡くなり、その息子の茂氏は独身で通し、昭和32年6月25日に55歳で亡くなり、「たわらや」は廃絶した。

 次の写真は、「たわらや」跡から写した鉢崎の様子である。

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 寂れてはいるが、とてもすっきりとした清潔さを感じる集落である。

 さらに道を先に進み、JR米山駅まで行って、私の北国街道・米山三里の散策は終了した。

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 24日、31日の2日間の散策で、歩いたのは約3万歩だった。

 雪の残る十日町から柏崎にやって来て、陽光を浴びながら右手に広がる海を眺め、早春の道を歩くのは、この上なく心地よかった。生き返ったような開放感を覚えた。特に笠島と聖ケ鼻からの眺めが印象に残る。
 青海川では道端にイチリンソウカタクリが咲いていた。ところどころに満開の桜の木もあった。妙泉寺は巨大な高速道路の橋の下にあるが、静寂そのもので、桜が満開だった。
 こうして北国街道・米山三里を歩いたからといって、「奥の細道」の理解が深まるわけでもない。そもそも芭蕉は「奥の細道」に、「文月や・・・」、と「荒海や・・・」の二句に他に新潟県のことは何も書かなかった。(市振は越中の国と書いている。)芭蕉がここを歩いたのは、今の暦でいえば8月19日で、季節も全く異なる。なるべく旧北国街道を歩いたつもりであるが、芭蕉が歩いた当時とは道も全くの別ものである。私が歩いた道はすべて舗装されていた。
 それでも芭蕉の姿を想像しながら歩くことは、楽しかったし、嬉しかったし、非常に心地よかった。全くの無駄ではないと思う。何か(何かは分からないが)、記憶に刻まれ心の奥に残るのだろう。
 「たわらや」は跡形もなかった。写真に撮った現在のJR青海川駅は、中越沖地震で被害を受け、翌年建て替えられたもののようだ。中越沖地震は大きな被害を与え、この地の姿を変容させた。
 北国街道には国道8号線が通り(米山大橋の完工は昭和41年)、現在はさらに高速道路が通っている。旧道は地元の人には掛け替えのない重要なものであっても、よそ人は私のようなもの好きがときたま通るだけになった。
 芭蕉奥の細道の旅から三百数十年経ち、全てのものが姿を変えた。しかしまた全てのものが姿を変えながら残っているとも言える。
 旧道を歩くと、不易なるものと流行なるものを感じることができる、そういえるかもしれない。

折節の移りかはるこそ(徒然草 第19段)

 私は徒然草の中では、第19段「折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ」が一番好きである。俳人で古今伝授を受け継いだ古典学者でもある松永貞徳は、この19段を絶賛し、徒然草の注釈書「なぐさみ草」で、兼好なら「源氏物語」のような物語もかけるだろうと述べている。また貞徳から古今伝授を受けた北村季吟も、この19段の文章は「源氏物語」や「枕草子」にも劣らないと述べている。(北村季吟には源氏物語の注釈書「源氏物語湖月抄」や徒然草の注釈書「徒然草文段抄」などの著作がある。また松尾芭蕉北村季吟から古典の教えを受けた弟子である。)
 兼好が徒然草を執筆して700年近くたち、しかも私は兼好が暮らした京都とは気候の異なる雪国に暮らしているので、「折節の移りかはり」に対して、兼好におおいに共感するところはあるものの、かなり違った思いを抱いているところもある。兼好を「見ぬ世の人を友と」(第13段)して、19段について語り合ってみたい。

 兼好は、秋よりも「今ひときは心も浮き立つものは、春の気色にこそあめれ」と述べ、梅の匂いや桜を挙げている。私の住む十日町市は豪雪地で、十日町小唄の歌詞に、「雪が消えれば越路の春は 梅も桜もみな開く わしが心の花も咲く (テモサッテモ ソウジャナイカ テモソウジャナイカ)」とあるように、雪が消えると梅と桜がほぼ同じ時季に咲く。咲くとは言ったが、鷽(うそ)という鳥に芽を食べられて、桜のほとんど咲かない年もある。(こんな土地があることを、多くの人は知らないだろう。だがこれはウソではなく、本当の話である。)
 私の心が最も浮き立つのは、フキノトウから始まる山菜採りもそうだが、雪が消えるとホームセンターなどにたくさんの野菜の苗が並び、人々でにぎわう情景を目にするときである。雪に閉じ込められていた人たちが一斉に這出てきて、いよいよ活動を始めるぞという生気が伝わってくる。

 「灌仏のころ、祭のころ、若葉の梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と、初夏の頃に人恋しさが募ると書いているが、全く同感である。季節は同じ初夏でも、私を人恋しい思いに誘うのは、田植えが終わったばかりの水の張られた田んぼに、家々の灯が揺れている景色である。その景色を見ながら、蛙の大合唱と漸く夜になっても暖かくなってきた空気に包まれると、人恋しさが募ってくる。
 兼好は夏の情景として「あやしき家に、ゆふがほの白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり」とも書いている。今は蚊遣火を目にすることはないが、夕暮れに白い煙がくすぶっている情景を想像すると趣深い感じもする。しかし藤原基俊の「さらぬだに夏は伏屋の住み憂きに蚊火の煙の所狭きかな」(堀川院百首)からは情趣どころではない現実が窺える。兼好は第55段で「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなりる所にも住まる。暑きころ、わろき住居は堪へがたき事なり」と書いているから、蚊遣火の煙を快く感じていたとは思えない。それなのに兼好が蚊遣火を「あはれなり」と感じるのは、視覚的にそう思わせるものがあるにしても、「夏なればやどにふすぶる蚊遣火のいつまでわが身下燃えにせん」(古今集)などの恋歌が念頭にあるからではないだろうか。兼好には現実より、和歌の甘美な想念の方が重要だったと言えるかもしれない。

 兼好は秋の段を「七夕まつるこそなまめかしけれ」と書きだす。「なまめかし」は現代のあでやかで色っぽいというような意味ではなく、みずみずしい美しさを表す言葉である。兼好が七夕をそう感じるのは、牽牛と織女の年に一度の逢瀬というロマンチックな物語が心の内にあって、その物語とひんやりとした初秋の夜気の肌触り、さやかに澄み渡る視覚的な清涼感とがミックスされてのものだろう。
 だが現代の私たちの「七夕」には、芭蕉奥の細道の旅の途中、元禄2年7月4日(新暦8月18日)に出雲崎で詠んだとされる句「荒海や佐渡に横たふ天の河」が加えられている。佐渡承久の乱を起こした順徳天皇が流され没した島であり、兼好より後の世に、世阿弥が流された島でもある。「曾良旅日記」によれば、7月4日は快晴で夜中になって雨が強く降ったとあるから、芭蕉が目にしたのは穏やかな日本海だった。芭蕉はその穏やかな日本海をあえて「荒海や」と詠み、佐渡が本土から隔絶した島であることを表現した、と私はこれまで考えていた。しかし兼好には蚊遣火が「あはれなり」と見えたように、夏草に兵を、雨に濡れた合歓の花に西施を見る芭蕉なら、実際に大波の立つ海が見えていたに違いないと、私の考えは変わった。
 兼好が生きていたなら、芭蕉の名句のイメージの加わった「七夕」を、「なまめかし」と今でも表現するだろうか。

 さて兼好は冬の夜空を「すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ」と書いている。明治5年に太陽暦に替わり、電灯で夜が明るくなって、現代人と月との関係はすっかり薄くなった。今では月が注目されるのは、仲秋の名月のときくらいである。(仲秋の名月の日は、六曜では必ず仏滅になる。)私は月を見ると、今日は旧暦の何月何日だな、と想うのが習慣になっているが、豪雪地に暮らすため、冬はほとんど晴れた夜空を見ることができない。ひと冬にほんの一、二回昼間降っていた雪が止み、洗われたような夜空に、月と星が煌々と輝き、清澄な光が新雪の大地を照らしている光景を目にすることがある。それは私にとって「心ぼそきもの」ではなく、むしろ宗教的な慈愛を感じるような光景である。ぜひ兼好を誘って、二人で静かに見つめたいものである。

 19段の終わりを兼好は、大みそかの夜が「かくて明けゆく空のけしき、昨日にかはりたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心ちぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、またあはれなれ」と結んでいるが、これも全く同感である。同じ一日であるのに、どうして大みそかと元旦では景色が違って見えるのだろう。不思議なことだが、毎年そう感じるのは私だけではあるまい。

 古典を読むということは、不易と流行とを知るということであろうか。人の心は驚くほど変わってはいない。