より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

教職はいつからブラックな労働になったのか(四)  2007.4~2015.3

 ここでは2007年(平成19年)4月~2015年(平成27年)3月の8年間を取り上げる。

 この8年間、私はSI高校に勤務し、2015年3月に定年退職した。SI高校は普通科ではなく専門学科の高校で、世間から低学力校と思われているような高校である。私にとっては初めて勤務する専門学科の高校だった。

 2006年には高校の職場環境が完全にブラックになったことは、教職はいつからブラックな労働になったのか(三)に書いたので、ここでは取り立てて述べなければならないような変化はほとんどない。

 

 

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教職はいつからブラックな労働になったのか(三)  1999.4~2007.3

 ここでは1999年(平成11年)4月~2007年(平成19年)3月の8年間を取り上げる。この8年間で高校は完全にブラックな職場になった。2006年度に至って「過労死ライン」を超える時間外労働が常態化する、ブラックな状況が完成する。
 私は1999.4から2007.3までの8年間MU高校に勤務した。MU高校はM市にある、各学年普通科8クラスのその地域の進学校で、部活動も盛んな高校である。

 まずこの8年間に起きた高校に大きな影響を及ぼす出来事を見ていく。

 一番目は2000年(平成12年)に学校教育法施行規則が改正され、職員会議が校長の職務の円滑な執行を補助するものとして位置づけられたことである。分かり易く言うと教員が全員出席する職員会議で学校の意思決定がなされるのではなく、校長の意思一つで決まるようになったということである。それまで学校の意思は職員会議で決めるのか、校長が決めるのか曖昧であったが、校長が決めるものとなって校長の権限が強まり、職員会議は単に校長が教員の意思を聞く場になったのである。改正は2000年であったが、高校の現場で実施されるようになったのは2003年度の途中からだったと思う。当時私はMU高校の分掌委員会の長で、2004年度の教員の分掌(教務部、生徒指導部、進路指導部など)は委員会で決めたが、次の年から分掌委員会は廃止され、校長が自ら教員の分掌を決めるようになったということがあったので覚えている。この学校教育法施行規則の改正が、直接ブラックな職場環境につながるわけではないが、校長に取り入る者が裏で動き回るようになった気がして、私は嫌であった。この校長の権力強化と新潟県では20008年(平成20年)から本格実施される教員評価制度とが、学校という職場を風通しの悪いものに変えてしまった。今では若い教員の多くが職員会議で散々もめるより、校長に決めてほしいという考えを持っているようにも思われるが、権力は力が拮抗していることで妥協が生まれ、そこに知恵が生まれる。一方に権力が偏ることは決してよいこととは思われない。校長になっている教員が、校長にふさわしく尊敬できる人物ならば、校長が決断するのもいいかもしれないとは思うが、そんな校長にはまずお目にかかれない。校長もヒラの教員もみんな大したことのない者たちなのだから、知恵を出し合った方がいい。権力を持てば必ず腐敗し乱用される。
 このころから人事異動のやり方が変わる。以前は教員がどこの高校に異動したいか校長に話し、校長はなるべくその希望に沿うように話を進めていき、希望した高校ではなかった場合でもそれに近いような高校を見つけてきて、教員も納得した形で異動していた。それがこのころになると三校提示に変わる。校長が教員に三つの高校を提示し、この三校の中のどれかに異動するようにさせるのである。提示する三校の中には教員が希望する高校もあれば、全く希望しない高校もある。希望する高校が入っているので、その高校にしてくれるのだと思って承諾すると、希望していない高校に異動が決まってしまうこともある。ひどいときには希望する地区とは全く別の、通えないような高校に決められてしまうことさえある。教員をだましても異動させてしまうこう。なると教員はもう完全に校長が意のままに動かせる駒扱いである。校長の気に入らない教員は不本意な異動を強制され、お気に入りの教員には意に沿うような異動をさせてやる。教員の一番の関心事は人事異動である。それを校長の手に握られ、意のままにされると、校長に楯突く者はいなくなる。

 二番目は2002年(平成14年)4月から学校が完全週5日制になったことである。土曜日が休みになったにもかかわらず、授業時間が減ったかというと、高校では逆に増えている。詳しくはこのブログの 高校に「ゆとり世代」は存在しない をご覧いただきたいが、簡単に述べると次のようになる。土曜日に授業があったときは、50分授業が週に33時間(内HRが1時間)あったので、1週間に50分✖33で1650分の授業があった。それが完全週5日制になると55分の授業が週に30時間、それに50分のHRで合計1700分になる。50分増えている。これが非常に教員の仕事を忙しいものに変えた。16時45分まで授業がある日などは、清掃が終わればもう勤務時間の17:00を過ぎてしまうようになった。

 三番目は新潟県では2002年(平成14年)から県立の中高一貫校の開校が始まったことである。現在では6校あるが、そこでは 教職はいつからブラックな労働になったのか(二)に書いたKJ高校のように、毎日48分の授業を7限まで行ったり、夏休みを実質2週間にしたりしていて、これが他の高校にも陰に陽に影響を与えることになる。

 四番目は2003年(平成15年)から、情報(標準2単位)・総合的な学習の時間(標準3単位)が必修になったことである。ただでさえ授業のやりくりに困っていたところに、情報・総合的な学習の時間が加わったのである。こんなことを提言をしたやつらや文科省は何を考えているんだ、と言いたくなる。とんでもないことである。情報・総合的な学習の時間を増やすなら、当然削減する科目を一緒に示すべきであろう。高校の現状を知ることもなく知ろうともしない輩の愚行である。ここで情報(教科)を加えたことが、2006年に発覚する必修科目未履修問題の一因にもなっていく。もう情報が必履修科目となって十数年になるのに、新潟県を始め数県が未だに情報で教員採用試験を実施したことがない。いかに高校現場では情報という教科が軽視されているかが窺えよう。総合的な学習の時間は教科ではないから時間割の中に組み込まれていない。高校は教科担当制なのだから当然そうなる。ではどうして総合的な学習の時間を実施したことにするかとなれば、できるだけ学校行事を見直したり読み替えたりしてしたことにしようということになる。文科省はやらせておきながら、総合的な学習の時間に全く資金的手当てもしない。総合的な学習の時間は高校では厄介者でしかないが、困っているのは普通科の高校である。専門学科の高校は課題研究等の履修で総合的な学習の時間の一部又は全部に替えることができることになっているので、ほとんど影響はない。こんな普通科いじめの総合的な学習の時間は即刻廃止するべきである。

 五番目は2006年10月に富山県立高岡南高校で発覚し、熊本県を除く全国の高校に波及して、茨城県愛媛県では自殺する校長まで出た、必履修科目未履修問題である。前述したように情報(教科)が未履修だったり、世界史・理科総合・家庭科・芸術・保健だったりさまざまであったが、必ず履修しなければならない科目の授業をしないでおきながら、履修したことにしていたのである。必履修科目未履修問題といわれてはいるが、必履修科目に限らず教育委員会に提出した授業計画とは違う教育課程(いわゆる裏カリキュラム)を採用する高校や、教科の名前と中身が違う授業をしている高校などもあった。進学校として名高い灘高校は家庭科の授業を理科の教員が担当していたので、これも未履修となった。理科の教員がどうして家庭科を教えることなどできよう。新潟県教育委員会は「教科書を購入させているから、新潟県の高校には未履修問題はない」と言って、ごまかそうと躍起だった。確かに情報(教科)の授業をしていなくても、情報の教科書を購入させてはいた。だが生徒に教科書を購入させておいて、その教科書を全く使用せずに、別の教科を教えることだっていくらでもできる。実際そうしていた。県教育委員会の説明は全くのごまかしだった。
 なぜか新潟県で一番最初に朝日新聞の取材を受けたのが、当時私が勤務していたMU高校だった。MU高校の校長は取材に対し次のような嘘をついた。「現3年生は1・2学年で情報の授業が54回あったが、40回ほど終了した段階で学習内容をすべて終了したので、受験対策を兼ね物理・生物など理科の授業に振り分けた。だから未履修ではない。」(一応情報の時間に理科の授業をしたことを認めつつ、それでも情報の授業はやったので未履修ではないという、実に巧妙な嘘である。こんなうまい嘘を校長が一人で考えたのだろうか。この校長はMU高校の校長になる前には県教育委員会にいたので、県教育委員会と相談してこの嘘を考えたのではなかろうか。何しろ新潟県教育委員会は研究会などで科目の振り替え方を指導していたというのだから。)これは全くの嘘で、実際は情報の授業は1学年の1学期にしただけで、1学年の2学期以降は数学の授業をやり、2学年では全て理科の授業をやっていた。だから1学年時の情報の成績は数学の成績と全く同じ成績をつけ、2学年時の情報の成績は理科と全く同じ成績をつけていた。しかも情報だけでなく必修科目である理科総合でも全て化学の授業をやり、化学と同じ成績をつけていた。さらにはカリキュラムでは、2学年で「倫理」と「政経」の授業をすることになっていたが、実際は倫理の授業は一切行わず、倫理の時間にも政経の授業をしていた。成績はもちろん政経の成績と倫理の成績は同じ点数である。未履修問題が発覚して以後、大学入試の際に、大学から実際に履修した科目を内申書に記載するようにとの通知があったが、MU高校ではその通知を全く無視して、情報も理科総合も倫理も履修したことにして報告した。もちろんこんなことをヒラの教員が自分の判断でできることではない。校長の「俺が認めればそれでいいんだ」という鶴の一声でそうしたのである。校長は職員会議で、朝日新聞の取材に対し嘘をつき、それ以後も改めようとしないのはどうしてかと質問されて、「最初に新聞社に嘘をついてしまったから、あとは嘘をつきとおすしかない。」と皆が唖然とすることを、こうやって嘘はつくものだと言わんばかりに言い放った。こうしてMU高校は校長の主導で嘘をつきとおし、この必履修科目未履修問題を切り抜けた。
 悲劇といおうか喜劇といおうか、MU高校の前任の校長はこの未履修問題で県教育委員会から処分を受けた。話はこうである。前任の校長がMU高校の次に赴任した高校でも未履修科目があった。それを初め校長は県教育委員会に未履修科目はないと報告した。しかし隠し切れないと思ったのか、後になって未履修科目があったと報告し直した。そこで処分となったのである。前任の校長がMU高校でも未履修科目があることを知らなかったはずはないが、小心者で正直な校長は処分を受け、嘘をつきとおした校長は処分を受けることはなっかのである。
 この必履修科目未履修問題が高校にもたらしたものは、何だったのだろう。大学入試のために工夫(?)して入試科目の時間を確保してきたが、それができなくなって、ますます授業時間が足りなくなったということだろう。確かにそうではあるが、嘘をついてごまかそうとした教員を、生徒はどう見ていたのだろう。こうやって嘘をつきとおし、あったことでもなかったことにしてしまうのが、大人(教員)だと思ったのだろうか。それとも生徒を守るために先生は嘘をついてくれた、と感謝したのだろうか。県教育委員会も、校長も、嘘をついていることを知っていた教員は、その対処をどう見ていたのか。私は初めてこういう事件の渦中に巻き込まれ、真相を知りながら、じっと県教育委員会・校長の対処を見ていた。嘘だと知りながら声を上げられない自分を情けないと思った。真実を話して、この機会に高校の現状を多くの人に知ってもらうべきだ、これはチャンスでもあると思っていた。(しかしそれができなかった。)教員は皆がそう思っていたのだろうか。それとも生徒を守るためにはなかったことにするしかない、と思っていたのだろうか。県教育委員会や校長の対処もひどかったが、新聞社の対応もひどかった。新潟日報などは県教育委員会の発表をそのまま記事にするだけで、全く独自に取材をしようという意欲を見せなかった。県教育委員会の嘘を擁護しているようにも見えた。(私にはそうとしか見えなかった。)本気で取材しようとすれば、関係者(教員・生徒)はいくらでもいる。真相を聞き出せないはずはなかった。それなのにそれをしなかった。私は県教育委員会・校長・新聞社、いずれも信用できなくなった。
 この必履修科目未履修問題をなかったことにするために活躍した(?)県教育委員会の高校教育課長やその部下たちは、この問題で嘘をつきとおしたことで箔をつけ、その後も順調に出世して、新潟県の高校を牛耳っていくことになる。

 六番目は、学習指導要領に書かれている「単位については、1単位時間を50分とし、35単位時間の授業を1単位として計算することを標準とする」文言を、厳密に守らせるようになったことである。要するに必ず1年間に1単位につき35回以上授業をしろということである。年間35回の授業を標準にするということは、以前から学習指導要領に書かれていたが、35回という数字は守られていなかった。MU高校の校長が「現3年生は1・2学年で情報の授業が54回あった」と言ったと前述したが、情報は1学年で1単位、2学年でも1単位であるから、標準を守るなら1学年で35回、2学年でも35回、合計で70回の授業をしなければならない。それが54回しか授業をしていなかったということである。これはMU高校が違反していたということではない。年間35回はあくまで目標で、大体が1単位につき年間で30回前後の授業回数であった。(54回を2で割ると27回になるが、こういうことも決して珍しいことではなかった。)
 35回以上を厳密に守れとなると、これは夏休み・冬休みなどの長期の休みを短くし、学校行事を減らし、授業をできそうなところ(始業式や終業式の日、定期テストの最終日の午後など)では必ず授業をしなければ守れない。これで高校が完全にブラックな職場になった。ブラックな労働環境の完成である。この35回を守れという強制がどういう理由でなされたのか、誰が言いだしたのか(どこで言いだされたのか)、全国的なことなのか新潟県に限ってのことなのか(多分全国的なことなのだろう)、そんなことを私は全く知らなかった。本当に愚かな教員である。いつからそうなったのかも記憶にないのだが、年間予定表を見ると2006年(平成18年)からのようである。この年に夏休みが7月25日から8月24日までと一段と短くなる。それ以後は変化がない。

  その他の変化(出来事)としては、➀補習を行うことが完全に定着したことである。全学年とも、夏休みが始まるとすぐにⅠ期補習も始まる。Ⅰ期の補習が終わると2学年は続いて志賀高原での4泊5日の学習合宿、3学年はさらにⅡ期の補習がある。MU高校ではこれが定着していた。その後2003年(平成15年)からは1学年の学習合宿(3泊4日)も実施されるようになる。今は進学校と言われるような高校で、補習をしない高校はないと思う。
 ②共通進度・共通テストが完全に定着したことである。私がMU高校に赴任した年には、既にMU高校では共通進度・共通テストが実施されていた。このブログの『教えるということ』(大村はま著)に学ぶ(二)などでも書いているが、この共通進度・共通テストは非常に授業を息苦しいものにする。教員が個人個人自由に教えることは、決して楽をするためにそうするのではない。教員に自由がなければいい授業などできはしないのである。教員自身がいいと思うことを自由にできてこそ、教員は能力を発揮できる。教員はもっと互いを信頼しなければならない。信頼できないなら、せめて干渉しない。足を引っ張らないで、いい授業をしている教員がいたら、学べばいい。
 ③教員が出張などで学校を空けるときには、プリントなどを用意して授業を自習にすることが多かったが、なるべく自習時間を出さないようにするために授業変更をすることが多くなってきた。これは教員にとってはなかなか大変なことである。授業変更を自分で考え、相手の教員と交渉しなければならないし、授業変更すれば他の日にその分の授業が増えることになる。出張したらその後で授業が1日に4時間、5時間の日が続くことになれば、出張はなるべくならしたくなくなる。MU高校などは自習にしても他のクラスに迷惑をかけることもないが、低学力校と言われるような高校では自習にしたら、騒いで他のクラスに迷惑をかけることもあるので、自習監督は授業中ずっと教室に張り付いて監督をしなければならない。(授業をするより、自習監督の方が大変なことさえある。)そうなると他の教員に迷惑をかけることになる。だからそういう高校では仕方ないところもあるが、自習のできる高校はできるだけ授業変更をせずに自習にする。それでいいはずである。
 高教研(高等学校教育研究会)というのがあり、新潟県の国語部会は以前は年に3回は研究会をしていた。それが所属する会員が減り(会員になるのは任意。年会費2000円は自費。)、今は1回である。その年にたった1回の研究会にも、授業変更をしなければならないとなると参加しにくくなる。参加できなければ、2000円とはいえ払いたくなくなる。会員は減っていく。研究会(たいがいいつも大学教授などの講演もある)に出て勉強するのも教員の大切な仕事である。そうやって自分を磨いていかなければ、黴の生えた教員になっていくばかりである。高教研の他にも以前は教育センターで大学教授(著名な作家や詩人などのこともあった)の話を聴ける教科の研修会が年2回(2日ずつで計4日)あった。私は新採用以来毎年1回は必ず参加していた。(2回とも参加することもあったが、気兼ねして1回にすることが多かった。)この研修会が楽しみだったし、とても役に立った。教員になってしまえば大学で研究されている最先端の話を聴ける機会もない。本を読むのも大切であるが、直接話を聴くことも大切である。もっと教員が勉強できる場を増やすべきなのに、この研修会もなくなった。(なくした理由は同じ教員ばかりが参加しているからだと聞いた。意欲のある教員が参加するのはとてもいいことではないか。意欲を削ぐようなことをなぜするのか。その意欲を持つ教員をもっと伸ばしてやろうと、どうして考えないのか。教育の質を高めるには、教員の質を高めるしかないだろう。意欲のない教員をどうするかは、別に考えればいいのである。勉強する気はないけれど、出世だけはしたがる教員が、教育センターや県教育委員会に入って計画を立てるからこうなるのである。)志のある教員は放っておいても確かに勉強する。しかし個人の努力だけに任せるのではなく、もっと研修会などの予算を増やし、それを手助けしなければならない。国語科なら古文・漢文・現代文という分野があり、古文には源氏物語もあれば枕草子もある。漢文には詩もあれば歴史もあり、思想もある。現代文も同じである。高校の国語の教員には非常に広い知識が求められている。教員の努力を助ける環境が必要である。
 ④学校の施設面で、エアコンが設置されたことである。MU高校では数年間は夏季にレンタルしていたが、PTAや後援会の協力でエアコンを各教室に設置した。(しかし発電機は今もだいたいが7月から9月までのレンタルである。)このエアコンの設置で暑さも気にせず教室で勉強できるようになった。MU高校以外の高校も、今ではほとんどがエアコンを設置している。(私はMU高校に8年いて、その後SI高校に移った。赴任した当初SI高校ではまだエアコンが設置されていなかった。低学力校と思われているSI高校の生徒は、エアコンが設置されていないのは、SI高校が見放されているからだ、と言っていた。今ではSI高校の教室にもエアコンが設置されている。)

 教員のやっていることについても少し書きたい。教員の仕事は授業・分掌・部活であるが、その他に校内で研修会もやっている。例えば同和問題の研修会がある。新潟県の高校では講師を招いて生徒向けの同和問題の講演会もやっているが、教職員向けの校内研修会(年2回で、内1回は講師の講演が一般的)もやっている。校外研修をすることもある。その他にも救急救命の講習会(AEDの使い方などの講習)や小論文講習会をしている高校もある。もちろん生徒向けとは別に教職員を対象にしたものである。これらの研修会・講習会は大切ではあるが、普段の日には実施する時間がないので、結局定期テストの午後とかに入ることになる。そうすればテストを採点する時間がなくなる。どんどん時間的な余裕がなくなっている。
 土曜・日曜にやる模擬テストの監督も教員の仕事である。テスト監督は年に数回なのでそれほどの負担ではないものの、これで休日がつぶされる。しかし教員が年度当初に兼務届を提出しておくと、このテスト監督だけには手当がでる。(以前は兼務届などなかった。兼務届を提出するようになったのも2000年以降のことである。)テストを実施する業者から手数料として支払われる中なら、テスト監督をした教員に支給する。大体の高校で1日10000円だと思う。監督だけなら負担ではないけれども、募集・申込・実施・答案送付・送金・返却などの業務を一括して担当する教員は、近年ではテストを受ける科目が生徒ごとにばらばらなこともあって、なかなか手間がかかり気の抜けない大変な仕事である。
 その他にもいじめ防止やらホームページの更新やら学校評価やら、教員には様々な仕事があり、しかもその仕事が増えていくばかりである。教職のブラック化が問題になっている今こそ、教員の仕事を総点検して削減し、教員に対する過剰な要望・過剰な期待を止めてほしいものである。教員はスーパーマンではなく、平凡な一労働者にすぎない。

 ここまで長くなってしまったが、1999年4月~2007年3月までの、MU高校の具体的な日程を簡単に説明する。
 夏休みは1999年から2003年までは、7月21日~8月31日であった。それが2004年は7月26日~8月31日、2005年は7月25日~8月31日までと短くなる。(2004年が7月26日なのは25日が日曜日にためで、実質は2005年と同じ7月25日からと見ていい。)そして2006年は7月25日~8月24日とさらに短くなる。(前述した通り、以後現在まで変化はない。)冬休み、春休みの期間についてはほとんど変化はない。
 1学期の期末テスト夏休みまでの日程は、1999年と2000年は期末テスト終了後(7月)、次の日から3日間校内球技大会があった。それが2001年~2003年は期末テスト終了後、次の日から2日間になり、2004年~2006年は期末テスト終了後すぐにではなくなり、終業式前日1日と終業式の日半日、計1.5日になった。
 もちろん期末テスト終了後、午前授業で午後放課などという日は、1999年から全くなく、全て普通授業の日である。
 校内球技大会はMU高校では3月にも実施されていた。(3月の校内球技大会は1・2年生のみの参加。)2000年(1999年度)と2001年(2000年度)は3日間だったが、2002年(2001年度)は2日間になり、2003年(2002年度)以降は1.5日になる。
 例年2月に実施されていたスキー大会は2001年(2000年度)以降廃止される。
 夏休みの補習については、前述の通りであるが、2学年の学習合宿についてはMU高校では1991年(平成3年)という早い時期から実施されていた。TO高校とMU高校はほとんど同じレベルの高校であったが、補習に関してはMU高校の方が先行していた。
 授業時間についたは、2002年度から学校の完全週5日制が実施されたが、MU高校では当初は水曜日の授業を60分(5限)プラスHR(40分)、水曜日以外を65分(5限)とすることで対応した。現在は前述した通り1週間の授業は55分✖30プラスHR(50分)である。

 最後に教頭について述べると、まだこの段階ではそれほど多忙そうには見えなかった。授業を週に3時間くらい担当し、教頭の仕事をこなしていた。教頭は2,3年で異動するので、私がMU高校にいた8年間に教頭は3人代わったように思う。そのうちの一人はMA高校でも一緒だった教頭である。この教頭はMA高校でもMU高校でも、眠ってばかりいた。それでも教頭職は務まっていた。この教頭はその後校長になってから、職員会議でも眠ってしまい顰蹙を買っていたと聞いた。この教頭についてはMA高校の時、こんな思いでもある。私はそれでも教頭なのだからいい授業をしているのだろうと思っていたら、生徒が「あの教頭の授業だけはひどすぎる。何とかしてほしい」と言っていたのを耳にしのである。こういう教員でも教頭・校長になれるのである。教頭の多忙化はここまで述べてきたこととは別の要因のようである。

教職はいつからブラックな労働になったのか(二)  1991.4~1999.3

 ここでは1991年(平成3年)4月~1999年(平成11年)3月の8年間を取り上げる。この8年の間に社会の情勢が大きく変化した。
 まずバブル崩壊(一般的には1991.3~1993.10の期間を指すようである)の後、公務員バッシングが始まる。公務員はバブルの時代にほとんど恩恵を受けることはなかったが、バブルが崩壊し不況が長引いてくると、一般社会では会社が倒産して勤め口がなくなったり、給料が下がったりしているのに、俺たちの払う税金で公務員の生活が保障されているのは不公平だ。公務員は横柄で、その仕事ぶりはお役所仕事で効率が悪いなどと、公務員に厳しい目が向けられるようになる。教員も公務員であるから、だんだんと厳しい視線を意識せざるを得なくなってきた。
 それから週休二日制が開始されたことである。学校では1992年(平成4年)9月から毎月第2土曜日が休みになった。国家公務員はこの年の5月から完全週休二日制(毎週土曜日曜が休み)が実施され、地方公務員も6月7月のころから完全週休二日制になった。学校は1995年(平成7年)4月から月に二回(第2と第4土曜日)が休みになり、完全週休二日制(学校週5日制)が実施されるのは、一般の公務員に10年遅れて2002年(平成14年)4月からである。この休業日でなくなってしまう土曜の授業を、どう補うのかが問題になってくる。 
 もう一つ、これは新潟県の場合であるが、新潟県の大学進学率は低いので(全都道府県中下から2番か3番だったと思う)、それを引き上げるために大学進学に特化した高校・KJ高校が1992年(平成4年)に新設されたことである。KJ高校には学区が取り払われたため全県から入学することができたが、魚沼地域に作られたので、やはり特にその地域にある進学校には大きな影響が出ることになった。KJ高校は夏休みなどを短くしたり、毎日の授業時間を長くしたりするなどして、大学進学の実績を上げたので、地域の進学校は成績上位層の生徒を奪われるようになって、変革を迫られることになっていく。
 この1991.4~1999.3までの8年間は、表面的には高校にそれほど大きな変化はなかったように見えるが、教職の多忙化への道筋ができ上がっていった時期であったと言える。

 私は1991年4月にTO高校に赴任し、1996年3月まで5年間TO高校に勤務した。TO高校は魚沼地域のT市にある、各学年普通科8クラス(赴任した当初3学年は9クラスだったように思う)のその地域の進学校であり、部活動も盛んな高校である。

 この5年間いずれも夏休みは7月21日から8月31日まであった。それは以前と変わりない。夏休みの進学補習もほとんど実施されていない。
 1学期の期末テストは1991~1994年の4年間はそれ以前と同じで7月の第2週に行われ、その後校内球技大会がこの高校では4日間(1993年からは3日間)もあり、生徒はその後に2日間自宅学習(授業がない)で、7月20日が終業式である。しかし1995年になると1学期の期末テストが7月3日~7日(5日〔水曜日〕を休みにして、4日間実施する。このT高校は定期テストを必ず真ん中に休日を挟んで実施していた)に前倒して実施されるようになる。その後の10日(月)~13日(木)は普段通り6限までの授業、14日~19日の5日間は午前授業、そして20日が終業式である。この年から期末テスト後の校内球技大会と自宅学習日(授業がないので生徒は登校しなくてもいい日)はなくなる。
 2学期の期末テストも1学期の期末テストと同じである。1991~1994年の4年間は期末テスト、校内球技大会、2日間の自宅学習日、そして12月24日が終業式である。それが1995年になると期末テスト、その後普通授業の日が1週間、午前授業の日が4日間、そして終業式となり、校内球技大会と2日間の自宅学習日がなくなる。自宅学習日は生徒にとっては登校しなくていい日であるが、終業式前の自宅学習日は教員(特にクラス担任)はなかなか忙しい。クラスの成績一覧表(各教科の成績だけでなく、授業の出欠席も集計したもの)を作成し、学年会、成績査定会議で審議し、通知表を書かなければならない。期末テスト後の校内球技大会・自宅学習日がなくなっても、1995年には終業式前に午前授業の日が4日間あったから、午後にそれらをする時間的余裕があった。今は期末テストの後に午前授業の日はないから、期末テストを前倒して実施し、終業式までの期間を延ばして、採点、成績集計、会議、通知表記入などの時間を作りだしている。細かいことになるが、1995年までは各学期の期末テストを生徒に返却することはほとんどなかったと思う。なぜなら期末テストの後、終業式まで授業がなかったからである。私が高校生の時には、もちろん期末テストが返却されることはなかった。通知表を見て成績が予想していたよりいいと、期末テストは点が取れたのだな、と思ったものである。返却されないものだと思っていたので、何の不都合も感じることはなかった。私は高校生の時、期末テストの後に球技大会があり、そして自宅学習日があることは、とてもいいと思っていた。私はテストに備えて、テストの2週間くらい前から計画を立てて一生懸命勉強し、テストが終了すると球技大会でホッと一息入れ、また気持ちを切り替えて勉強に取り組むことができたからである。一生懸命勉強し、一息入れ、また気合を入れ直して勉強に取り組む。生活にメリハリができ、リズムができた。それが今では期末テスト(中間テストも)のテストの最終日にはテスト終了後に授業をすることまでが普通になっているし、期末テストの後に終業式まで普通授業の日がだらだらと(テストが終わり長期の休みが目の前にあると、どうしても気が緩む)続いていくので、メリハリがなく、生徒も教員も多忙感が解消されず、疲労が蓄積していくことになる。
 期末テストの後に実施されていた校内球技大会は、1991~1992年は1学期末4日・2学期末4日で計8日、1993~1994年は1学期末3日・2学期末3日で計6日だったのが、1995年には2学期の中間テスト後にたった2日間行われるだけになった。

 なぜ1995年になると1・2学期末の日程に大きな変化があったのだろうか。(3学期末には高校の入学試験があるので変化はない。)まず考えられるのが、1995年4月から月一回(第2土曜)だった土曜日の休みが、月二回(第2・第4土曜)に増えたので、休みとなって減った授業の分を補わなければならなかったということである。前述したように学校が月に一回土曜日が休みになったのは1992年の9月からである。その時、高校はその休みとなって減った3時間の授業(土曜日は3時間授業だったから、土曜休みが月一回だと一月に3時間授業が減ることになる)を補うことにした。この時に切り捨てずに補ったことで、1995年に土曜休みが月二回なっても、その分を補う道筋が既にできていた。授業を65分にして対処した高校が多かったように思う。それまでは50分✖6限で1日の授業が300分であることが普通であったが、それを65分✖5限で325分にして補った。(だが65分授業にすると、勤務時間の関係で土曜日は授業を2限しかできなくなる。それまで土曜日の授業は50分✖3限で150分だったが、65分✖2限で130分となり20分短くなる。それに65分授業にすると、1週間ごとにA週、B週として、A週には土曜の1限の授業を、B週には土曜の2限の授業を、月曜から金曜までのどこかに1回入れるなどの工夫が必要になる。)それでも不足したので1・2学期末の日程を変更して授業時間を増やした、と今まで私は考えていたのであるが、計算してみるとどうもそうではないようだ。(私は校内の動きには全く関心がなかったので、どこから65分授業などという考えが出てきたのか、どうして1・2学期末の日程を変えなければならないのかなど、その理由を考えたことがなかった。私が関心があったのは、ただ自分の担当する教科・国語に関することだけである。それ以外はできる限り他の教員に任せて、自分にも大きな影響が出てくることになるのに、いい加減なことにも自分で考える気はなかった。それではいけないと思うこともあったが、時間を奪われることが嫌で、どうしても自分の関心を国語以外に向けることができなかった。)
 計算してみると65分授業にすれば、授業時間がそれまでより減ることはない。一月を4週間として比較する。50分授業の場合は、平日の授業は50分✖6限で300分、土曜日は150分(50分✖3限)である。1週間では300分✖5日に150分を足せばいいから1650分、一月は1650分✖4週で6600分となる。65分の場合は平日の授業は65分✖5限で325分、月に2回ある土曜日は65分✖2限で130分。土曜日が休みの週は325分✖5日で1625分、土曜日がある週は1625分に130分を足せばいいから1755分。一月は1625分✖2週と1755分✖2週を足して6760分となる。50分授業の時は一月の授業時間は6600分、65分授業にすると6760分であるから、65分授業にしただけで授業時間は長くなる。だから月に二回土曜日が休みになって授業時間が減ったので、1・2学期末の日程を変えて授業時間を増やし不足分を補った、ということではないのである。
 ではどういう理由だったのだろう。はっきりしたことは分からないが、どこかから授業時間を長くしろ、という圧力が掛けられたことは確かであろう。夏休み・冬休みに入ってもいないのに、生徒を街で遊ばせて教員は何をしているんだ、KJ高校は授業をしているのにTO高校はどうなっているんだ、などという声が聞こえてきて、それに対処せざるを得なくなったのかもしれないし、県教委からの指導があったのかもしれないが、いずれにしても私はその理由を愚かにも知ろうともしなかった。だが1・2学期末の日程が変わったとはいえ、1995年にはまだ夏休みを短くするようなことはなかった。それが2000年代になると、必ず年間で1単位につき35時間の授業を確保しなければならないということになって、夏休みを短縮したり、学校行事を見直したりして、現在のブラックな状況ができ上がっていく。

 前述した通りTO高校は部活動が盛んで、全国大会に出場する部活がいくつかあり、全国大会で優勝する生徒までいた。そういう部活の顧問になれば大変なことはもちろんであるが、全国大会に出場するほどの部活でなくても顧問はやはり大変である。何度も書くが、部活動はそのほとんどが時間外労働である。この問題を解決しなければ、中高の教員の多忙化を解消することはできない。まずは部活指導を希望制にして、希望しない教員は顧問にならなくてもいいようにするべきである。(部活動指導を希望制にしようという活動が起こっているようであるが、その活動を広げて希望制を実現してほしいものである。)高校で部活動をしている生徒は、自分の競技に相当な知識を持っているし熱心である。そういう生徒を指導するのは、その競技の経験があり知識もあって、熱意のある人でなければできないことである。部活動の指導は、教員だったらやれといって、押し付けてさせるような仕事ではない。それでは部活動をする生徒に対しても失礼である。部活動指導を希望する教員にはしてもらっていいと思うが、相応の手当を支払うべきである。希望制にすると顧問がいなくなって、多くの部活動が活動できなくなるだろう。それはそれでいいのである。そうならなければ国も県もこの部活動の問題に取り組もうとしないのだから。そういう事態になったらやっとどうしたらいいか対策を立てることだろう。

 TO高校ではまだゆとりがあったと思うのは、共通進度・共通テストではなかったからである。このブログの『教えるということ』(大村はま著)に学ぶ(二)で書いたが、共通進度・共通テストは教員から自由を奪い、授業を非常に息苦しいものに変えた。このころには共通進度・共通テストになっていた高校が多かったのではないかと思うが、まだT高校は教員各自が自分が教えたクラスのテストを作成していて、共通テストは実施されてはいなかった。

 私は1996年(平成8年)4月にMA高校に転勤し、1999年(平成11年)3月まで3年間勤務した。MA高校は新潟県の中で最も山奥にある高校と言ってもいいかもしれない。各学年普通科2クラス(全校で6クラス)の小さな高校である。地元の中学を卒業した生徒がほぼ全員入学してくるので、国公立大学に進学する成績上位の生徒から、成績があまり振るわない生徒までがいた。

 夏休みは3年間とも7月21日から8月29日までである。8月31日まででないのは、他校に比べて冬休みが2日ほど長いからである。

 1学期末のテストは3年間とも7月2日から始まっている。4日間のテストの後は6限までの普通授業の日(M高校は50分授業だったと思う)が続き、7月20日の終業式前の3日間は校内球技大会である。午前授業の日はない。この日程に3年間全く変化はない。2学期末も1学期末と同じ日程である。

 TO高校と違っているところは、夏休みに補習が行われていたことである。夏休みには志賀高原のホテルに泊まって勉強する、3泊4日の学習合宿もあった。さらには希望者は学校で有料であったが、予備校のサテライト授業を受けることもできた。成績上位の生徒から下位の生徒までがいる高校なので、どうしても大学進学に的を絞った授業ができないところがあって補習が必要だったこともあるが、転勤した当初からすでに補習を行うのが当然のことになっていて、異論を差しはさむ余地はなかった。MA高校の教員はほとんどが20代30代で、補習を行うことに何の抵抗も感じていないようだった。このころ(1990年代後半)になると、若い教員には生徒の進学のためならできることは何でもするべきだ、しなければならないという考えが定着していたように思う。生徒のためと言われると、教員にはなかなか反論できない心性がある。サテライト授業も若い教員が自主的に運営していた。
 私は定年退職後の2015年(平成27年)に再任用で1年間このMA高校に二度目の勤務をした。サテライト授業こそなくなっていたが、生徒全員に朝学習が課されていたし、毎日放課後には補習が行われていた。野球部の顧問でもあった数学の教員は、放課後にはやりにくいということで朝の7時過ぎから0限補習を行っていた。今ではMA高校のような山奥の高校にまで大学進学のための教育が浸透している。

 MA高校のような小規模の高校は、授業の準備が大変である。国語で説明すると、持ち時間は週に16時間ほどなのはどの高校でも同じであるが、普通の規模の高校なら1学年の週5時間の国語総合を2クラス、3学年の週2時間の現代文を3クラス担当すれば、それで16時間になる。国語総合と現代文の二科目を担当するだけでいいのである。それがMA高校のような小規模校だと、1学年の週5時間の国語総合を1クラス、2学年の週3時間の現代文を1クラスと週3時間の古典を1クラス、3学年の週2時間の現代文を1クラスそれに週3時間の国語表現を1クラスというように、1クラスごとに全部教える科目が違うので授業の準備の追われることになるのである。だから準備のできていない赴任1年目などは、授業の準備だけで青息吐息である。だがこれは小規模校としては仕方のないことでもある。授業をするのが教員の本業なのだから、精一杯のことをやるしかない。しかしその授業にさらに放課後の補習が加わり、部活指導もとなればもうパンク寸前となる。私が再任用の時であったが、新婚の社会科の女性教員が「私、昨日も家で夜中の2時まで勉強(授業の準備)していました」と話してくれたことがある。この若い教員は妊娠中ということもあって、体調を崩してそのまま休職に入った。新潟県の公立高校は普通午後7時で閉まるので、それまでに教員も学校を出なければならない。だから名目上はそれ以上の残業はない。しかしこの女性教員のように学校にいる間に授業の準備ができなければ、家に帰って準備するしかない。本来ならこの家での授業準備も残業のはずだが、表面には出てこない。だから学校にタイムカードを設置したところで、正確に残業時間を調べることなどできない。正確に残業時間を把握するには、教員が正直に申告することを前提として、教員の自己申告で調べるしか方法はない。こういう方法で調査を実施して見れば、教員の残業(時間外労働)はもっと増えることだろう。今の高校は忙しすぎて、学校では授業準備・教材研究を落ち着いてする時間がない。学校にいるときに分掌の仕事を片付け、家で授業準備・教材研究ということになりがちである。(私はそうしていた。)1時間の授業をするためには1時間の準備が必要だなどと言われるが、ちょっと調べものをしただけでも1時間などあっという間に過ぎてしまう。1時間で足りるはずがない。教員が十分に授業の準備ができるように、教員には時間的な余裕が必要である。教員が忙しすぎれば、結局は授業の質が下がり、生徒にしわ寄せがくることになる。

 こうして見てくると、1991.4~1999.3の時期に教職の多忙化が進んだことは確かであるが、その表に現れた変化以上に、教員(特に若い教員)に起こり始めていた意識の変化の方が大きかったのではないだろうか。「生徒のため」と言うなら、「教員のため」と言ってはいけないのか。私はよくそう思ったものである。