より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

広がらない正しい漢字の採点基準

 7月11日のデイリー新潮で「先生の採点は厳しすぎ? 漢字テストの『とめ、はね問題』 文科省に聞くと意外な見解が」という記事が発信された。そこに書かれていることは、このブログ「より良き教育を求めて」、および私のホームページ「丸山力 漢字の採点基準」で既に全て説明してあることばかりである。それをじっくり読んでいただければいいのだが、少し説明してみたい。
 デイリー新潮の記事に次のように書いてあった。

 わが子への学校の指導方法に疑問を持った時、果たしてそれが正しいのかどうか、TwitterなどSNS上で意見を募る投稿がよく見られる。特に漢字テストの採点に関するものは多く、〈これ、正解でいいだろ!小学1年生だぞ!子供のヤル気を損なわせるのはどんな意図があるの?〉〈いくら何でも厳しすぎる…〉などと、採点の厳しさに困惑する声があがっている。実際に投稿された不正解の例を見てみよう。 「目」の横線が飛び出している。「土」の縦線が下に飛び出している。「力」の二画目がはらいでなくとめになっている。どの回答も、一見して何の漢字か判別はつく。投稿を見た人からは、「これで不正解とするのは厳しすぎる」といった意見が大半を占める。

 例として挙げられているのが、左に示した➀~③の字である。この3字は➀「目」②「土」と③「力」に分けて考えなければならない。
 ➀②については、突き出すつもりがないのに突き出してしまったのか、それとも突き出して書くのが正しいと思って突き出して書いたのか、この字を見ただけでは判断できない。もし突き出して書こうとしたなら、バツである。

 突き出すつもりがなかったのに突き出てしまったというのなら、これくらいならマルにするべきだと考える人も、左の④の「目」、⑤の「土」はマルにするだろうか。④⑤はいくらなんでも突き出し過ぎでバツにするというのなら、どこまでがマルで、どこからがバツという基準を作ることができるだろうか。こう考えてみると基準を作ることなどできないことが分かる。全ての漢字には無数の正誤を判断するポイントがあり、その全てのポイントの基準を明確に示すことなどできない。したがって採点する者によって、正誤の判断が異なることはあり得る。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」には、確かにデイリー新潮の記事に書いてあるように〈字の細部に違いがあっても、その漢字の骨組みが同じであれば、誤っているとはみなされない〉と書いてあるが、突き出すか突き出さないかは、字形の違いではなく、骨組み(字体)の違いである。指針が言っているのは「だいたいの字形があっていれば正解」などということでは決してない。このことが全く理解されていない。➀②をバツにするのは厳しいと考える人もいるだろうが、それは採点する者が判断していいことである。このことに関しては、私のホームページ・丸山力「漢字の採点基準」の「正しく採点するために2」の採点する者が必ず持たなければならない共通認識1に詳しく説明してあるのでお読みいただきたい。

 ③「力」については、二画目をはらうかとめるかは正誤を判断するポイントにはならないから、バツにしてはならない。マルである。はらうかとめるかは字体の違いではなく字形の違いである。

常用漢字表の字体・字形に関する指針」を見てみると、「凡」には左はらいをとめて書いている字形が示してある。「本」の右はらいもとめて書いている字形が示してある。この例から分かるようにはらって書くか、とめて書くかは字体(文字の骨組み)の問題ではなく字形の問題である。だから③の二画目がはらいではなくとめになっている「力」をバツにしてはならない。字体と字形との区別、正誤の判断基準にしてはならないポイントを理解していないから、一緒くたにして「厳しい」などと言ってしまうのである。漢字について記者も保護者も教員ももっと深く考えてほしいし、もっと勉強してほしい。

 デイリー新潮の記事には馳浩文科大臣(当時)の答弁についても書かれていたが、そのことについては、このブログ・漢字を知らない議員同士の国会討論―参議院文教科学委員会「学校教育における漢字指導の在り方」(2021.8.11)に詳しく説明してある。また文科省の教育課程課の説明については、このブログ・常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について(2020.11.16)にこれもまた詳しく説明してある。

 重要なことなので簡単に説明するが「文字を一点一画丁寧に書く指導が行われる場面など指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もある」という考えは、とんでもない誤りである。
 これに従うと、主に小学校でのことになるが、教員が例えば「木」の縦画をとめて書くようにと教え場合には、縦画をはねて書いた字をバツにしてもいいことになる。漢検でも大学入試でも高校入試でも、一般的には字体があっていればマル(「木」の縦画をはねてかいてもマル)であるのに、小学校でだけバツにしてもいいなどという基準が許されるはずがない。どうしてもとめて書かせたいなら、マルにしたうえで「とめて書いた方がいいよ」とでも赤ペンで書いておけばいいだけのことである。間違いでない字をバツにするなど決してあってはならない。そうすれば子どもたちに間違った考えを植え付けてしまう。正誤の基準を変えるのではなく、指導方法をこそ変えなければならない。
 それに文科省の役人に個別のことを質問しても、それに正面から答えるはずがない。もし個別の問題に対して、「それは教員の採点が間違っている」などと答えたとしたら、その教員は保護者に責められて、教員をやっていけなくなるかもしれないからである。もともと文科省の役人は漢字の専門家でもないから、そんな人に質問しても仕方ないのである。
 最後に「読めたらなんでもいいというわけではなく、字を綺麗に書いたり、正しく書くということは重要です」と言っているが、そんなことは当たり前のことである。しかし「綺麗に書くこと」と「正しく書く」ことは同じではない。この二つを混同している人が教員も含めてほとんどである。

 もう二度とこんな記事を目にすることがないように、正しい漢字教育がなされることを切に願う。いつまでこんな出鱈目な漢字教育がなされるのだろう。このブログを書いていて空しくなってしまう。

高校の非常勤講師が残業代求める

 静岡県掛川西高校に勤務する非常勤講師・岡野さん(74)が、「実際に教室で授業をする時間以外にも、試験の作成や採点、授業の準備などで月40時間以上を費やし、ほぼ全てが無給となっている」と主張して、3月30日に静岡県教育委員会に残業代の支給を求めて文書を再提出した。岡野さんは2月13日に実態に見合った賃金の支給などを求める要求書を提出していたが、主張が認められなかったとして30日に再び提出した。

 静岡県の人事委員会は岡野さんの要求に対する審査を継続していて、状況を改善するための勧告などをするかどうかは今後判断するとしている。

 非常勤講師の賃金は最低賃金にも達していない。これが現状である。高校の非常勤講師の募集は、ハローワークの求人票では時給2500円程度となっている。時給2500円というと高い賃金に思われるが、時給2500円というのは1時間の授業の賃金である。授業の分しか賃金は全くでない。だからもし授業が1限と3限にあったら、賃金は5000円で、空き時間の2限の賃金は支払われない。
 何も準備をせずに教室に行って授業ができるだろうか。1時間の授業をするには、最低限1時間は教材研究が必要である。1時間というの最低限である。ちょっと調べ始めれば2時間や3時間はあっという間に過ぎる。時にはプリントを作ることもあるし、テストを作成することもある。私は国語の教員だったが、定期テストの作成には、解答用紙を作り、模範解答を作るだけでも2時間は必要だった。問題の作成にはその数倍の時間が必要だから、合計すると少なくても10時間はかかっていた。だから私はテストが近づいてから作り始めるのではなく、時間を見つけては少しずつ作成していた。採点にも時間がかかる。私の場合は1クラス(40人)の採点に2時間はかかった。
 だからそれらの時間のことを考慮すれば、非常勤講師の賃金は最低賃金にも達していないことになるし、岡野さんが残業代を要求するのも当然のことなのである。だが残業代が支払われることは恐らくないだろう。支払うことになれば、非常勤講師の賃金は現在の2倍くらいにはなる。そんなことはまずできまい。
 岡野さんの主張は認められないだろうが、よくぞ非常勤講師の思いを代弁してくださった、と岡野さんに敬意を表したい。我が国はあまりにも教育にお金をかけていない。教員、講師に犠牲を強いるばかりである。教員は増員し、非常勤講師は賃金をアップする。そうしなければ教育の質を維持することはできない。日本の教員の質は高いと一般的には思われているが、それは幻想である。そういう幻想を抱いているから、教員が勉強に当てる時間がなくなるほど仕事を増やしても、しっかり教えてくれると思い込んで安心しているのである。何の根拠もない日本の教員は優秀という幻想を利用しているのである。防衛費を増額などしている場合ではない。未来を作る教育にこそお金を掛けるべきである。それが何よりもの国家の防衛策である。教員がようやく声を上げるようになってきたが、教員よりも弱い立場の非常勤講師もこの岡野さん勇気ある主張を契機にして、大きな声を上げなくてはならない。ぜひとも岡野さんに続いてほしい。

給特法の抜本的な見直し

 現役高校教員や大学教授などでつくる有志の会が、3月16日に給特法の抜本的な改善を求める80,345筆のネット署名と要望書を文部科学省に提出した。給特法により時間外勤務を命じることができるのは、(1)生徒の実習、(2)学校行事、(3)職員会議、(4)災害など緊急事態、の「超勤4項目」に限られている。そのため「超勤4項目」以外の残業は教員の自主的なものとして残業代金が支払われない。
 高校の教員は皆が部活動の顧問をさせられる。土日の練習はもちろん、土日に生徒を大会に引率しても、お金は出ないし、代休もない。休日の大会引率は「超勤4項目」に入っていないから命令はできない。それなら引率を拒否できるかといえば、顧問である教員が引率をしなければ生徒は大会に出られなくなるから、引率を拒否できない。いやであっても引率するしかないが、引率すればそれは命令ではなく自主的にしたことになる。全く矛盾している。こういうしたくなくても拒否できないことを「したくなければしなければいい」と臆面も無く言いきれることが、管理職(校長、教頭)をめざす教員には求められる。矛盾を矛盾ではないと恥じることもなく言いきれるかどうかが、管理職になるための踏み絵になっている。だから現状では思考を停止した教員しか管理職になれない。まともな教員は管理職になれないし、なる気もしないのである。こうして管理職になるのだから、管理職はもともと教員の超過勤務などに関心がなく、超過勤務をどんどんして働いてくれる教員が彼らには都合のいい教員である。こう考えれば管理職も県教委も、教員の超過勤務を積極的に減らそうなどとするわけがないと理解できる。
 朝日新聞によると、自民党は(1)給特法を廃止し残業代を支給する、(2)教職調整額を引き上げる、(3)教職調整額を上げて役職手当をつける、の3案を検討しているというが、(2)、(3)全く解決にならない。(1)の「給特法を廃止し残業代を支給する」しかないが、それだけで全て解決するわけではない。教員を増やし、教員の業務を減らすことしか、根本的な解決策はない。
 これまで中央教育審議会とか教育再生実行会議とか、国の機関は、教員の仕事を増やすことしか提案してこなかった。現場は窒息しそうなのに、それでもこれでもかこれでもかと仕事を増やす。全く現場を見ていない。もうこういう政府に都合のいい人間だけを集めて作る審議会とか何々会議とかいうものは必要ない。害悪である。現場を熟知している教員で、しかも現状に批判的な考えを持つ教員を三分の二以上は入れた組織を作り、学校教育をどうしたらいいか考えていくべきである。

 前述したように、給特法には思考を停止した教員しか管理職になろうとしない状況を作り出しているという、悪影響もある。過労死ラインを超える残業があって、しかも残業代金が支払われず、自分のしたいような授業もさせてもらえず、管理職になるには思考停止を強制されるようでは、教職を志望する学生が減っていくのは当たり前である。このままで、落ちるところまで落ちていくしかないのだろうか。