より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

「とはずがたり」を読む

 「とはずがたり」をご存じだろうか。鎌倉中期の宮廷で、後深草院(第89代天皇、在位1246~1259)に仕えて、「二条」と呼ばれた女性の回想自伝である。

 作者は院の愛を受けている間に、二人もしくはそれ以上の男性とも関係を持ち、少なくとも院を含めて三人の男性の子を産むという人生を送っている。「とはずがたり」(全5巻)のうち1~3巻に、そのことが書かれている。

 作者は二歳で母を亡くし、父・久我大納言雅忠の手で育てられるが、四歳の時から後深草院の御所に出入りし、院にかわいがられる。作者が十四歳になると、光源氏が紫の上を妻としたように、院は作者と男女の関係を結んで愛人にしてしまう。院の子を懐妊中に、父・雅忠が亡くなる。雅忠が亡くなるとその直後から、「雪の曙」と呼ばれる男が毎日のように作者に手紙を送ってきて、ついに四十九日が過ぎた頃に作者は曙と関係を結ぶ。作者はその後皇子を産むが、皇子を産んだ後に今度は曙の子を懐妊する。作者と曙は善後策に苦慮し、作者は重病のふりをして院の御所を退出して女子を出産するが、流産と称して曙がすぐさまその女子を連れ去る。
 曙は「まづ、大事に病む由を申せ。さて、人の忌ませ給ふべき病なりと陰陽師が言ふ由を、披露せよ」(重病で、院にとって憚りある病〔近づいてはならない病気〕に罹っていると陰陽師が言っているように世間に広めよ)などと作者に言い、生まれた子は、曙がすぐさま「そばなる白き小袖に押し包みて、枕なる刀の小刀にて臍の緒をうち切りつつ、かき抱きて、人にも言はず」外に連れ出して、作者は「また二度その面影見ざりしこそ」(二度とその子を見ることができなかった)。この辺の描写は切迫していて実に生々しく、読者に迫ってくる。
 このように「とはずがたり」には、後深草院や作者の男女関係が様々書かれていてとても興味深い。

 「とはずがたり」は昭和15年宮内省図書寮(今日の宮内庁書陵部)にあったものを、山岸徳平氏が発見し、『増鏡』の資料としても注目すべき日記文学である、と「とはずがたり覚書」と題して報告した。しかし「とはずがたり」には後深草院の好色ぶりなども書かれていて皇室の尊厳を冒すので、戦時中は研究不可能だった。注目を浴びるようになったのは戦後のことである。

 作り物ではない、後深草院周辺の現実の男女関係は、鎌倉時代の皇族の様子が分かってとても興味深い。是非一読をお勧めする。

『日本霊異記』に感ずる

 『日本霊異記』の正称は『日本国現報善悪霊異記』である。「現報」とは、現世の行為に対して現世においてその報いをうけること、「霊異」とは、人知でははかり知れないこと、という意味である。
 筆者・景戒(きょうかい)が、人は自分の行為によって必ずその報いをうけることを、みんなに知らせたいと止むに止まれぬ思いで書いたことが、『日本霊異記』の上巻(『日本霊異記』は上・中・下の三巻から成る)の序から分かる。
 景戒は序に次のように書いている。

 あるいは寺の物を貪り、犢うしのこ)に生れて債(もののかひ)を償(つくの)ふ。
 あるいは法・僧を誹り、現身に災ひを被(かがふ)る。
 あるいは道を殉(もと)め行を積みて、現に験(げん)を得たり。
 あるいは深く信(う)け善を修めて、生きながらた祐(さいはひ)を霑(かがふ) る。
 善悪の報は、影の形に随ふがごとし。

(中略)

 因果の報を示すにあらずは、なにによりてか、悪心を改めて善道を修めむ。
 昔、漢地にして冥報記(みやうほうき)を造り、大唐(もろこし)の国にして般若験記(はんにやげんき)を作りき。
 なにぞ、唯し他国(ひとくに)の伝録をのみ慎みて、自土の奇事を信け恐りざらんや。
 ここに起きて目に矚(み)るに、忍ぶること得ず。
 (やす)み居て心に思ふに、黙(もだあ)ること能(あた)はず。
 (しか)あるがゆゑに、いささか側(ほのか)に聞けることを注(しる)し、号(なづ)けて日本国現報霊異記といふ。上・中・下の参巻(みまき)となして、季(すゑ)の葉(よ)に流(つた)ふ。

 詳しい意味については、新潮日本古典集成などで確認していただければと思うが、景戒のみんなに知らせたいという止むに止まれぬ思い、みんなを救いたいという居ても立っても居られない思いが伝わってくる。そうでなければこういうものを書こうと思い立つはずがないし、書けるはずもない。現在の我々にはなかなか現報を信じることができないけれど、この本を読む時には景戒の篤い、熱い思いを汲んで読まなければならないと思う。
 人にはそれぞれどうしても伝えたい、訴えたいと思うことがある。読んでその思いが伝わってくる本が私は好きである。読んでいる時に楽しめればそれでいいと考える人も多いと思うが、私にはそういう本は何か物足りない。

「無名抄」の数寄者

 「無名抄」(久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)を読んだ。私には「無名抄」といえば、「方丈記」の作者・鴨長明の歌論書(和歌に関する理論および評論の書)というくらいの知識しかなかった。しかし読んでみると、「歌論的部分と肩のこらない随想的乃至は説話的部分とがないまぜになっている作品」「歌論書というよりはむしろ和歌随筆または歌話とでも呼ぶほうがふさわしいとすら思われる」と訳注を書いた久保田淳氏がいう通りの作品だった。
 私が特に面白いと思ったのは、数寄者(風雅なこと、とくに和歌を好む人)たちのエピソードである。16段「ますほのすすき」にはこう書かれている。

 雨の降りける日、ある人のもとに思ふどちさし集まりて、古きことなど語り出でたりけるついでに、「ますほのすすきといふは、いかなるすすきぞ」など言ひしろふほどに、ある老人のいはく、「渡辺といふ所にこそ、このことを知りたる聖はありと聞き侍りしか」と、ほのぼの言ひ出でたりけり。
 登蓮法師その中にありて、このことを聞きて、言葉少なになりて、また問ふこともなく、主に、「蓑・笠しばし貸し給へ」と言ひければ、あやしと思ひながら取り出でたりけり。物語りをも聞きさして、蓑うち着、藁沓さし履きて、急ぎ出でけるを、人々あやしがりて、そのゆゑを問ふ。「渡辺へまかるなり。年ごろいぶかしく思ひ給へしことを知れる人ありと聞きて、いかでか尋ねにまからざらむ」と言ふ。驚きながら、「さるにても雨やめて出で給へ」と諫めけれど、「いで、はかなきことをものたまふかな。命はわれも人も、雨の晴れ間など待つべきことかは。何事も今静かに」とばかり言ひ捨てて、往にけり。いみじかりける数寄者なりかし。さて、本意のごとく尋ね逢ひて、問ひ聞きて、いみじう秘蔵しけり。

 「ますほのすすき」の他に、「まそをのすすき」、「まそうのすすき」というすすきもあって、登蓮法師はその違いがずっと気になっていたのだろう。知っている人がいると聞いたら、雨が降っていようと、居ても立ってもいられなくなってすぐに訊きに出かけていく。登蓮法師の和歌に対する執着は常軌を逸しているようにもみえるが、私には感動的である。
 鴨長明自身ももちろん数寄者で、18段「関の清水」では、「逢坂の関の清水といふは、走り井と同じ水ぞと、なべて人知り侍るめり。しかにはあらず。清水は別の所にあり。今は水もなければ、そことも知れる人だになし。三井寺に円実房の阿闍梨といふ老僧ただ一人、その所を知れり。かかれど、さる跡や知りたると、尋ぬる人もなし。『われ死なむ後は、知る人もなくてやみぬべきこと』と、人に会ひて語りける」と伝え聞いた長明は三井寺に出かけ、阿闍梨から昔の「関の清水」の場所を教えてもらっている。

 百人一首「思ひわびさてもいのちはあるものを憂きにたへぬは涙なりけり」の作者・道因の和歌に対する執着・志は特に凄まじい。63段「道因歌に志深きこと」には、「七、八十になるまで、「秀歌詠ませ給へ」と祈らむため、徒歩より住吉へ月詣でしたる」とあり、また「九十ばかりになりては、耳などもおぼろになりけるにや、会の時はことさらに講師の座のきはに分け寄りて、脇元につぶと添ひゐて、みづはさせる姿に耳をかたぶけつつ、他事なく聞きける」とある。九十歳なって耳が遠くなっても、道因は歌会に出て講師(歌会で和歌を読み上げて披露する役)の傍により、一心に耳を傾ける。その道因の志の深さに感動して、「千載集撰ばれ侍りしことは、かの入道失せてのちのことなり。されどなきあとにも、さしも道に心ざし深かりし者なりとて、優して十八首を入れられたりけるに、夢の中に来たりて、涙を落としつつよろこびいふと見給ひたりければ、ことにあはれがりて、今二首を加へて、二十首になされたりける」というように、俊成は千載和歌集に道因の歌を20首載せている。道因はあの世でも歌を詠んでいるのだろう。死んだ後でも夢の中に姿を現す。道因の和歌への志は鬼気迫るものがある。
 800年前の数寄者も、現在の数寄者も、その心根は全く変わっていない。