より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

『日本霊異記』に感ずる

 『日本霊異記』の正称は『日本国現報善悪霊異記』である。「現報」とは、現世の行為に対して現世においてその報いをうけること、「霊異」とは、人知でははかり知れないこと、という意味である。
 筆者・景戒(きょうかい)が、人は自分の行為によって必ずその報いをうけることを、みんなに知らせたいと止むに止まれぬ思いで書いたことが、『日本霊異記』の上巻(『日本霊異記』は上・中・下の三巻から成る)の序から分かる。
 景戒は序に次のように書いている。

 あるいは寺の物を貪り、犢うしのこ)に生れて債(もののかひ)を償(つくの)ふ。
 あるいは法・僧を誹り、現身に災ひを被(かがふ)る。
 あるいは道を殉(もと)め行を積みて、現に験(げん)を得たり。
 あるいは深く信(う)け善を修めて、生きながらた祐(さいはひ)を霑(かがふ) る。
 善悪の報は、影の形に随ふがごとし。

(中略)

 因果の報を示すにあらずは、なにによりてか、悪心を改めて善道を修めむ。
 昔、漢地にして冥報記(みやうほうき)を造り、大唐(もろこし)の国にして般若験記(はんにやげんき)を作りき。
 なにぞ、唯し他国(ひとくに)の伝録をのみ慎みて、自土の奇事を信け恐りざらんや。
 ここに起きて目に矚(み)るに、忍ぶること得ず。
 (やす)み居て心に思ふに、黙(もだあ)ること能(あた)はず。
 (しか)あるがゆゑに、いささか側(ほのか)に聞けることを注(しる)し、号(なづ)けて日本国現報霊異記といふ。上・中・下の参巻(みまき)となして、季(すゑ)の葉(よ)に流(つた)ふ。

 詳しい意味については、新潮日本古典集成などで確認していただければと思うが、景戒のみんなに知らせたいという止むに止まれぬ思い、みんなを救いたいという居ても立っても居られない思いが伝わってくる。そうでなければこういうものを書こうと思い立つはずがないし、書けるはずもない。現在の我々にはなかなか現報を信じることができないけれど、この本を読む時には景戒の篤い、熱い思いを汲んで読まなければならないと思う。
 人にはそれぞれどうしても伝えたい、訴えたいと思うことがある。読んでその思いが伝わってくる本が私は好きである。読んでいる時に楽しめればそれでいいと考える人も多いと思うが、私にはそういう本は何か物足りない。

「無名抄」の数寄者

 「無名抄」(久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)を読んだ。私には「無名抄」といえば、「方丈記」の作者・鴨長明の歌論書(和歌に関する理論および評論の書)というくらいの知識しかなかった。しかし読んでみると、「歌論的部分と肩のこらない随想的乃至は説話的部分とがないまぜになっている作品」「歌論書というよりはむしろ和歌随筆または歌話とでも呼ぶほうがふさわしいとすら思われる」と訳注を書いた久保田淳氏がいう通りの作品だった。
 私が特に面白いと思ったのは、数寄者(風雅なこと、とくに和歌を好む人)たちのエピソードである。16段「ますほのすすき」にはこう書かれている。

 雨の降りける日、ある人のもとに思ふどちさし集まりて、古きことなど語り出でたりけるついでに、「ますほのすすきといふは、いかなるすすきぞ」など言ひしろふほどに、ある老人のいはく、「渡辺といふ所にこそ、このことを知りたる聖はありと聞き侍りしか」と、ほのぼの言ひ出でたりけり。
 登蓮法師その中にありて、このことを聞きて、言葉少なになりて、また問ふこともなく、主に、「蓑・笠しばし貸し給へ」と言ひければ、あやしと思ひながら取り出でたりけり。物語りをも聞きさして、蓑うち着、藁沓さし履きて、急ぎ出でけるを、人々あやしがりて、そのゆゑを問ふ。「渡辺へまかるなり。年ごろいぶかしく思ひ給へしことを知れる人ありと聞きて、いかでか尋ねにまからざらむ」と言ふ。驚きながら、「さるにても雨やめて出で給へ」と諫めけれど、「いで、はかなきことをものたまふかな。命はわれも人も、雨の晴れ間など待つべきことかは。何事も今静かに」とばかり言ひ捨てて、往にけり。いみじかりける数寄者なりかし。さて、本意のごとく尋ね逢ひて、問ひ聞きて、いみじう秘蔵しけり。

 「ますほのすすき」の他に、「まそをのすすき」、「まそうのすすき」というすすきもあって、登蓮法師はその違いがずっと気になっていたのだろう。知っている人がいると聞いたら、雨が降っていようと、居ても立ってもいられなくなってすぐに訊きに出かけていく。登蓮法師の和歌に対する執着は常軌を逸しているようにもみえるが、私には感動的である。
 鴨長明自身ももちろん数寄者で、18段「関の清水」では、「逢坂の関の清水といふは、走り井と同じ水ぞと、なべて人知り侍るめり。しかにはあらず。清水は別の所にあり。今は水もなければ、そことも知れる人だになし。三井寺に円実房の阿闍梨といふ老僧ただ一人、その所を知れり。かかれど、さる跡や知りたると、尋ぬる人もなし。『われ死なむ後は、知る人もなくてやみぬべきこと』と、人に会ひて語りける」と伝え聞いた長明は三井寺に出かけ、阿闍梨から昔の「関の清水」の場所を教えてもらっている。

 百人一首「思ひわびさてもいのちはあるものを憂きにたへぬは涙なりけり」の作者・道因の和歌に対する執着・志は特に凄まじい。63段「道因歌に志深きこと」には、「七、八十になるまで、「秀歌詠ませ給へ」と祈らむため、徒歩より住吉へ月詣でしたる」とあり、また「九十ばかりになりては、耳などもおぼろになりけるにや、会の時はことさらに講師の座のきはに分け寄りて、脇元につぶと添ひゐて、みづはさせる姿に耳をかたぶけつつ、他事なく聞きける」とある。九十歳なって耳が遠くなっても、道因は歌会に出て講師(歌会で和歌を読み上げて披露する役)の傍により、一心に耳を傾ける。その道因の志の深さに感動して、「千載集撰ばれ侍りしことは、かの入道失せてのちのことなり。されどなきあとにも、さしも道に心ざし深かりし者なりとて、優して十八首を入れられたりけるに、夢の中に来たりて、涙を落としつつよろこびいふと見給ひたりければ、ことにあはれがりて、今二首を加へて、二十首になされたりける」というように、俊成は千載和歌集に道因の歌を20首載せている。道因はあの世でも歌を詠んでいるのだろう。死んだ後でも夢の中に姿を現す。道因の和歌への志は鬼気迫るものがある。
 800年前の数寄者も、現在の数寄者も、その心根は全く変わっていない。

広がらない正しい漢字の採点基準

 7月11日のデイリー新潮で「先生の採点は厳しすぎ? 漢字テストの『とめ、はね問題』 文科省に聞くと意外な見解が」という記事が発信された。そこに書かれていることは、このブログ「より良き教育を求めて」、および私のホームページ「丸山力 漢字の採点基準」で既に全て説明してあることばかりである。それをじっくり読んでいただければいいのだが、少し説明してみたい。
 デイリー新潮の記事に次のように書いてあった。

 わが子への学校の指導方法に疑問を持った時、果たしてそれが正しいのかどうか、TwitterなどSNS上で意見を募る投稿がよく見られる。特に漢字テストの採点に関するものは多く、〈これ、正解でいいだろ!小学1年生だぞ!子供のヤル気を損なわせるのはどんな意図があるの?〉〈いくら何でも厳しすぎる…〉などと、採点の厳しさに困惑する声があがっている。実際に投稿された不正解の例を見てみよう。 「目」の横線が飛び出している。「土」の縦線が下に飛び出している。「力」の二画目がはらいでなくとめになっている。どの回答も、一見して何の漢字か判別はつく。投稿を見た人からは、「これで不正解とするのは厳しすぎる」といった意見が大半を占める。

 例として挙げられているのが、左に示した➀~③の字である。この3字は➀「目」②「土」と③「力」に分けて考えなければならない。
 ➀②については、突き出すつもりがないのに突き出してしまったのか、それとも突き出して書くのが正しいと思って突き出して書いたのか、この字を見ただけでは判断できない。もし突き出して書こうとしたなら、バツである。

 突き出すつもりがなかったのに突き出てしまったというのなら、これくらいならマルにするべきだと考える人も、左の④の「目」、⑤の「土」はマルにするだろうか。④⑤はいくらなんでも突き出し過ぎでバツにするというのなら、どこまでがマルで、どこからがバツという基準を作ることができるだろうか。こう考えてみると基準を作ることなどできないことが分かる。全ての漢字には無数の正誤を判断するポイントがあり、その全てのポイントの基準を明確に示すことなどできない。したがって採点する者によって、正誤の判断が異なることはあり得る。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」には、確かにデイリー新潮の記事に書いてあるように〈字の細部に違いがあっても、その漢字の骨組みが同じであれば、誤っているとはみなされない〉と書いてあるが、突き出すか突き出さないかは、字形の違いではなく、骨組み(字体)の違いである。指針が言っているのは「だいたいの字形があっていれば正解」などということでは決してない。このことが全く理解されていない。➀②をバツにするのは厳しいと考える人もいるだろうが、それは採点する者が判断していいことである。このことに関しては、私のホームページ・丸山力「漢字の採点基準」の「正しく採点するために2」の採点する者が必ず持たなければならない共通認識1に詳しく説明してあるのでお読みいただきたい。

 ③「力」については、二画目をはらうかとめるかは正誤を判断するポイントにはならないから、バツにしてはならない。マルである。はらうかとめるかは字体の違いではなく字形の違いである。

常用漢字表の字体・字形に関する指針」を見てみると、「凡」には左はらいをとめて書いている字形が示してある。「本」の右はらいもとめて書いている字形が示してある。この例から分かるようにはらって書くか、とめて書くかは字体(文字の骨組み)の問題ではなく字形の問題である。だから③の二画目がはらいではなくとめになっている「力」をバツにしてはならない。字体と字形との区別、正誤の判断基準にしてはならないポイントを理解していないから、一緒くたにして「厳しい」などと言ってしまうのである。漢字について記者も保護者も教員ももっと深く考えてほしいし、もっと勉強してほしい。

 デイリー新潮の記事には馳浩文科大臣(当時)の答弁についても書かれていたが、そのことについては、このブログ・漢字を知らない議員同士の国会討論―参議院文教科学委員会「学校教育における漢字指導の在り方」(2021.8.11)に詳しく説明してある。また文科省の教育課程課の説明については、このブログ・常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について(2020.11.16)にこれもまた詳しく説明してある。

 重要なことなので簡単に説明するが「文字を一点一画丁寧に書く指導が行われる場面など指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もある」という考えは、とんでもない誤りである。
 これに従うと、主に小学校でのことになるが、教員が例えば「木」の縦画をとめて書くようにと教え場合には、縦画をはねて書いた字をバツにしてもいいことになる。漢検でも大学入試でも高校入試でも、一般的には字体があっていればマル(「木」の縦画をはねてかいてもマル)であるのに、小学校でだけバツにしてもいいなどという基準が許されるはずがない。どうしてもとめて書かせたいなら、マルにしたうえで「とめて書いた方がいいよ」とでも赤ペンで書いておけばいいだけのことである。間違いでない字をバツにするなど決してあってはならない。そうすれば子どもたちに間違った考えを植え付けてしまう。正誤の基準を変えるのではなく、指導方法をこそ変えなければならない。
 それに文科省の役人に個別のことを質問しても、それに正面から答えるはずがない。もし個別の問題に対して、「それは教員の採点が間違っている」などと答えたとしたら、その教員は保護者に責められて、教員をやっていけなくなるかもしれないからである。もともと文科省の役人は漢字の専門家でもないから、そんな人に質問しても仕方ないのである。
 最後に「読めたらなんでもいいというわけではなく、字を綺麗に書いたり、正しく書くということは重要です」と言っているが、そんなことは当たり前のことである。しかし「綺麗に書くこと」と「正しく書く」ことは同じではない。この二つを混同している人が教員も含めてほとんどである。

 もう二度とこんな記事を目にすることがないように、正しい漢字教育がなされることを切に願う。いつまでこんな出鱈目な漢字教育がなされるのだろう。このブログを書いていて空しくなってしまう。