より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

英語民間試験導入中止を求める国会請願

 先月の18日に羽藤由美京都工芸繊維大学教授らが、2020年度から始まる「大学入学共通テスト」で導入される英語の民間試験の利用中止を求める請願書を、約8000人分の署名を添えて衆参国会議員に渡し、文部科学省に対しても民間試験の利用中止を要請した。署名は6月7日~16日の短期間に集められたが、私もネットでそれを知って、ダウンロード・印刷して署名し、羽藤教授の元に郵送した。

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 英語民間試験は、TOEICTOEFL、英検など8つの民間実施団体が行うが、各試験での点数を対照表に従い統一スコアに置き換える。それは羽藤教授によれば「全く科学的裏付けがない。50メートル走と握力を測ってどちらが体力があるか見るようなものだ」という。民間試験の導入には様々な問題がある。私は専門        文科省の担当者に要請文を渡す羽藤教授
家ではないので、ここでその問題点を書くことはしないが、寺沢拓敬氏などの文章が参考になるのでご覧いただきたい。

 この請願は、衆参両院で「審議未了」として保留扱いとなったが、この問題の多い民間試験を導入すれば、しわ寄せはすべて無駄な負担を強いられる受験生にくる。このまま放置しておくことはできない。

 民間試験の導入は、何よりも重要な公平性・公正性が担保されていない。そのことを如実に示したのが、7月2日に報じられたTOEICの撤退である。TOEICは2018年の段階で認定基準に照らして適合していると認定されていた。そのTOEICを運営する国際ビジネスコミュニケーション協会が、「責任を持って対応を進めることが困難と判断した」と撤退を表明したのである。このことは認定基準に適合しているとの認定は、結局は運営企業側の自己申告をそのまま認めていたに過ぎなかったを示している。運営企業側が認定基準をクリアできると言えば、それを認めていただけで、本当にクリアできるかどうか精査していないのである。民間試験の実施は来年(2020年)の4月からである。TOEICの撤退を聞いて、他の7つの民間試験の運営企業も不安に駆られていることだろう。すぐにも勇気ある撤退をするべきである。金儲けに目がくらんで、失敗してからでは取り返しがつかない。

 東京大学は昨年9月に「必須としない」と表明。国立大学では北海道大学東北大学京都工芸繊維大学が民間試験を活用しないことを公表している。民間試験を活用しない大学が増え、民間試験導入を中止に追い込んでほしいものである。

 この英語の民間試験の導入を言い出したのは、「英語教育の在り方に関する有識者会議」である。安倍内閣になって、年金運用、安全保障、教育など様々な分野で「有識者会議」なるものが開かれている。「有識者会議」とは、言い換えれば安倍首相のお仲間・お友達の会である。反対意見を言いそうな人は初めから「有識者会議」には入れない。この「有識者会議」から出されたものが、いかにも正論・国民の声であるかのように喧伝され、それを政府が受け入れるような体裁をとって政策が実施される。このやり方は実に愚劣であり、国会や真の有識者・国民をないがしろにしている。反対意見を持つ人も会議の中に加え、大いに議論するべきである。

OECD 国際教員指導環境調査の結果から

 2018年に実施したOECD国際教員指導環境調査の結果を、新聞各紙が6月19日、20日に次のような論調で報じている。

 日本の教員の長時間勤務は国際的にみても異例であり、1週間の仕事時間は小学校54.4時間、中学校56.0時間で、ともに参加国・地域の中で最長。一方で職能開発にかける時間は小中とも最短だった。(調査の参加国・地域は中学校が48、小学校が15である。)

 確かに日本の小学校教員の54.4時間は2位のイングランド48.3時間、3位のベトナムとオーストラリア43.7時間と比較しても長く、中学校教員の56.0時間も2位のカザフスタン48.8時間、3位のアルバータ(カナダ)47.0時間と比較して断然長時間である。(中学校教員のOECD 平均は38.3時間。小学校は参加国・地域が少ないので平均は出していない。)「職能開発活動」については日本の小学校教員の0.7時間、中学校教員の0.6時間(OECD 平均2.0時間)は最短である。これも確かにそのとおりの結果である。だがこの「職能開発活動」の時間が最短であることが、日本の教員が忙しすぎて勉強する時間がないこと、つまり勉強していないことを表しているのだろうか。

 ここからは調査の参加国・地域が多く、平均時間が示されている中学校に絞って説明していく。
 まず1週間の仕事時間が日本56.0時間、カザフスタン48.8時間なのに、どうしてOECD 平均で38.3時間になるのか、仕事時間がそんなに短い国・地域があるのかと不思議に思わないだろうか。

f:id:chikaratookamati:20190622101517j:plain 右の表をご覧になればジョージアは25.3時間である。これはフルタイムで働いている教員の仕事時間としては、どう考えても短い。なぜこうなるのか。それはOECDの調査には、非常勤の教員が対象に含まれているからである。非常勤の教員が多く回答した国・地域では、仕事時間は短くなる。(日本の非常勤の教員は、課題の採点などをすることはあっても、基本的には授業                出所)産経新聞
と授業準備しかしない。)だからOECDの調査で示された数字を絶対視するのではなく、傾向を見るために参考となる数字くらいに捉えておくのがいいと思う。それにしても明らかに日本の中学校教員の仕事時間は長く、中学校の教員の6割が月に80時間以上の「過労死ライン」を超える時間外労働をしている実態がこの数字にも表れている。
 上の表で注目したいのは「授業時間」である。日本の18.0時間はOECD 平均の20.3時間を2.3時間も下回っている。日本の中学校教員の仕事時間が長いのは、授業を多く持っているからではないのである。これは私にとっては実に興味深い数字である。アルバータ(カナダ)は27.2時間、アメリカに至っては28.1時間。いったいこんなに授業ができるものなのだろうか。
 日本の中学校教員の仕事時間が長い主因(一番の原因)は、「課外活動の指導時間」(放課後のスポーツ活動や文化活動)が突出して長いことにある。日本は7.5時間、OECD 平均は1.9時間。早急に解消に向けての対策を講じなければならない。(このブログ 教職(高校)を持続可能な仕事にするための改革 で述べたが、まずは部活動の指導を希望制にして、希望しない教員はしなくていいようにするべきである。)

 次の表をご覧いただきたい。

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       出所)文部科学省OECD国際教員指導環境調査(TALIS)2018報告書のポイント」
 日本の教員の仕事時間が長い原因の第二は、「一般的な事務業務」(教員として行う連絡事務、書類作成など)である。日本は5.6時間、OECD 平均は2.7時間である。中学校では前回の調査(2013年実施)と比較して、「課外活動の指導時間」も「一般的な事務業務」の時間もほとんど変化していない。部活動での休養日の設定など、いくつかの方策が講じられてきたが、一向に効果は上がっていない。この結果から見て分かることは、文部科学省が本気で教員の仕事時間を短縮しようとしていないこと、文部科学省にはやる気もないことが見て取れる。文部科学省の本音としては、このまま教員が過労死しない程度に頑張って、日本の教育を支えてくれるのが一番いいのである。そう考えざるを得まい。

 ところで、OECD 48参加国・地域の中で日本の中学校教員の「職能開発活動」の時間が最短0.6時間であることは、日本の教員が勉強していないこと、スキルを向上させようとしていないことの証左なのだろうか。私はそうは思わない。というのは日本の教員は「授業の計画や準備」に8.5時間使っている。この時間はOECD 平均の6.8時間を上回っている。私はこの「授業の計画や準備」の時間を、「職能開発活動」の時間と同じと考えてもいいと思う。例えば教科書にある作家の文章が掲載されていて、それを教えることになったとする。その掲載されている文章について研究・勉強することは、「授業の計画や準備」になるだろう。では掲載されている文章ではないが、もっとその作家を知ろうと思って、その作家の他の文章を読むことは、「授業の計画や準備」になるのだろうか、それとも「職能開発活動」になるのだろうか。「職能開発活動」と考えても「授業の計画や準備」と考えても、どちらでもいいだろう。こういうことはいくらでもある。「授業の計画や準備」と「職能開発活動」を合わせた時間は、日本の教員が9.1時間、OECD の平均が8.8時間。日本の教員は忙しい中で、何とか勉強をしていると言えるのではないだろうか。
 私は「授業時間」が18.0時間なら、「授業の計画や準備」の時間も同等の18.0時間はなければならないと思っている。それでも足りないくらいである。そのくらい準備しなければ授業はできない。そうはいっても現実に授業をやっているではないか、と言うかもしれないが、それは授業をやっているのであって、授業ができているわけではない。例えば(高校の授業の場合ではあるけれど)『源氏物語』の冒頭、

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

を教えるとして、教員は1時間勉強しただけで教えられるのだろうか、1時間の授業ができるのだろうか。「女御」は、天皇の妃で、皇族、大臣以上の家の娘がなり、この中から皇后が選ばれる。「更衣」は女御の次で、大納言以下の家柄から出る。などという説明が教科書に載っていたとしても、実際に皇后がいなかった時代があったのか、女御や更衣というのは何時からできたのか、などと調べ出したら、図書館に行って日本史の本でその記述がないか探し、見つかったならその箇所をじっくりと読む。あっという間に1時間や2時間はかかってしまう。光源氏の母・桐壺の更衣は死後に「いま一階の位をだにと」従三位の位を贈られる。ここから生前桐壺の更衣正四位上であったことが分かるのだが、女御や更衣にも位階があった。「際にはあらぬが」の「が」は主格ではなくて同格。こういうこともしっかり調べなくてはならない。「さぶらひたまひ」は謙譲+尊敬、現代にはない表現である。どう説明したらいいか。などなど勉強しだすときりがないほど時間がかかる。もちろん自分が勉強したことを、授業で生徒に全部話すわけではない。話すわけではないが、教員は知っていなければならない。教員は教えるためには生徒の何倍も勉強しなければならないのである。
 高校は少し専門的だからそうかもしれないが、小学校・中学校では易しいことを教えているのだから、そんなに勉強する必要はないだろう、と思うかもしれない。私は高校の教員だったので小学校・中学校の授業をほとんど見たことがないが、ほんの数回ではあるが研究授業を見たことがある。小学校の授業を見に行ったときこんなことがあった。石でアーチ形の橋を作る、その作り方を書いた文章を教えていた。4年生か5年生の授業だったと思う。文章は4年生(4年生の授業だったことにする)に向けてのものだから、さらりと読める易しい文章である。しかし易しい文章であるとはいっても、その内容を正確に読み取れるかは別である。その教員は手際よく授業を進めていた。大勢の教員が参観する研究授業ということもあり、十分に準備をしていることがうかがえた。教員は下敷きを曲げてアーチ形を作り、これを石橋に見立てて説明した。一見うまい説明のようにも思えた。その教員は曲げた下敷きから手をパッと離した。塩ビ製の下敷きは弾力性があるから、手を離せば瞬時にアーチ形は崩れしまう。子どもたちはアッと声を上げた。教員はしてやったりの顔つきで、だからこれこれこういう手順では作れないんだと説明した。(肝心なところだが、どう説明したか、どうしても思い出せない。申し訳ない。だが間違った説明をしていたことは確かである。私は隣にいた久しぶりに会った知り合いの教員に、説明が間違っていると話したことを記憶している。)石には塩ビ製の下敷きとは違い弾力性がない。教員は下敷きでアーチ形がうまくできたので、そこにとらわれて石に弾力性がないことを見落としたのである。塩ビ製の下敷きでアーチ形は作れても、石は弾力性がなく、しかも(このことも重要なのだが)非常に重い。石と塩ビ製の下敷きは似ても似つかない素材で、下敷きでは説明できない。ここはよくできた模型でも用意して、実際にやって見せて子どもたちに考えさせるか(しかし模型を用意するのはとても無理だろう)、子どもたちの想像力を喚起して考えさせるしかないところである。このように易しい文章でも、正確にその内容を把握することは、そんなに容易なことではない。この研究授業をした教員は、ベテランであり、普段の授業より十分時間をかけて準備したのだろうが、それでも間違ってしまった。授業の準備に十分な時間をかけなければ、こういうことが頻繁にあるだろう。教材研究、授業の準備は教員にとって、授業を成立させる生命線なのである。
 前述したとおりアルバータ(カナダ)は「授業時間」が27.2時間と長いが、「授業の計画や準備」は7.3時間である。アメリカは「授業時間」が何と28.1時間と長いのに、「授業の計画や準備」は7.2時間である。(詳しくは国立教育政策研究所のホームページで「TALIS 2018報告書ー学び続ける教員と校長ーの要約」をご覧いただきたい。)こんなに「授業の計画や準備」の時間が短くて、授業の質を保てるのだろうか、甚だ疑問である。逆にカザフスタンは「授業時間」が15.1時間と短いのに、「授業の計画や準備」は9.1時間と長く、OECD 調査に示された数字からは最も教員が授業準備をしている国といえる。今後、OECD 生徒の学習到達度調査などで、カザフスタンが上位にくることがあるかもしれない。

 これまで述べてきたことから言えることは、あまり新聞記事、特にその見出しを鵜呑みにしないことである。それを避けるには、それはなかなか難しいことではあるが、記事を参考にして自分で調べるしかない。できるだけそうしたいものである。

教職(高校)を持続可能な仕事にするための改革

 私は教職をとてもやりがいのある仕事だと思っている。しかし近年、教員は過重な労働を強いられ、授業では自分のしたいことをする自由も奪われて、教職は実に窮屈で多忙、その日その日の仕事をただこなしていくだけの労働になっている。このような状況は教職を魅力のないものにし、また現状の過重な労働は持続可能なものでもない。教員が生き生きと働けてこそ、いい教育・授業ができるのであり、教員が疲弊していては教育・授業の質が下がるのは必然である。
 私はこのブログの教職はいつからブラックな労働になったのか(一)~(四)で、いつからどうして教職がブラックな労働になったのかについて書いた。それを踏まえて、ブラックな状況を変えるための方策を考えてみたい。

 まず第一は、部活動指導を希望制にすることである。このことについては教職はいつからブラックな労働になったのか(二)に書いたので、簡潔に述べる。部活動指導はほとんどが時間外労働であり、部活動指導が高校の教員の過重労働の主因となっている。高校で部活動をしている生徒は、自分の競技に相当な知識を持っているし熱心である。そういう生徒を指導するのは、競技の経験があり知識を持った人でなければならない。教員だからと押し付けてさせるような仕事ではない。私は本来なら部活動を学校と全面的に切り離すべきだと思っているが、部活動指導をしたいがために教員になったような教員もいるので、希望する教員には部活動指導をしてもらい、希望しない教員はしなくていいようにする。もちろん部活動指導をする教員には、時間外労働をした分の賃金は支払う。希望制にすれば顧問(指導する教員)がいなくなって、活動ができなくなる部がでてくるだろう。それはそれでいい。そうなれば国や県・地域、生徒と保護者が知恵を出し合って解決策を模索していくことになるだろう。卓球などでは世界レベルで戦っている高校生(中学生も)は、在籍する高校から飛び出して戦っている。生徒の数が減少している現状では、学校対抗という形にとらわれず、個人としてでも、地域のクラブチームとしてでも試合に出られるようにしていくべきである。甲子園で行われる高校野球に出場する高校は、選手(生徒)は地域・全国から集められているのだから、すでにその内実は〇〇高校クラブチームと言ってもいい。高校という単位にとらわれず、クラブチームも高校野球に出場できるようになれば、部活動と高校が切り離される大きなきっかけになる。ぜひ高校の部活動の象徴的な存在である高校野球から実現してほしいものである。

 第二は、50分授業で1週間の授業数を29+HR1(HRを1時間)を上限にすることである。言い換えればHRを含めて30単位を上限にして、それ以上授業をすることを禁止するということである。(現在高校を卒業するには最低74単位取得することが必要であるが、上限は決められていない。上限を決めるべきである。)そうすれば1日の授業は6限であるから、月曜~金曜まで8時50分に授業を始めた場合には毎日午後3時15分で授業が終わる。放課後に余裕ができる。現在、高校では34単位(HRを含め)や35単位の学校まであり、そういう高校では30単位では授業数がとても足りないということになるだろう。そこで 第三は、必履修科目をなくすことである。現在「普通科」改革が議論されているが、これを機に必履修科目を撤廃し、各学校で自由にカリキュラムを組めるようにすればいい。義務教育でもない高校にまで、一律の必履修科目を設ける必要は全くない。国民共通の一般教養の習得は中学校までで十分である。大学進学のために受験科目の授業数を確保したい進学校でも、必履修科目を撤廃すれば30単位で十分それができる。
 上限30単位を公立高校でも私立高校でも、厳密に守らせることが重要である。一部の高校でそれを守らないと、うちの高校もそうしなければ競争に負けてしまうとなって、また必ず抜け駆けの競争が始まってしまう。現状の高校教員の過重労働の常態化はそうしてでき上がってきたものである。高校が得意の、補習と称して授業をするような誤魔化しも許してはならない。(もちろん放課後に質問にくる生徒に教えるようなことはあってもいい。)上限30単位は公立高校だけでなく私立高校にも厳密に守らせる。守らなければ助成金を出さない。それでも守らなければ認可の取り消しもあり得る。そういう姿勢で臨むべきである。埼玉県など県によっては公立の高校でも土曜授業を実施している。私立の高校でも土曜授業を実施している学校があるが、土曜授業は絶対に禁止する。そもそも地方公務員は完全に週休2日制なのに、(夏休みなどに代休をとるようになっているのだろうが)高校の教員だけに土曜日も働けとはどういうことなのか。学校間の競争を煽って働かせ、教員を疲弊させるようなことはしてはならない。

 第四は、1単位につき年間35回授業をすることを義務付けているが、それを止めることである。新潟県では35回を義務付けているが、35回を義務付けていない代わりに土曜授業を実施している県もある。いずれにしろ実施授業数を多くしようという方策である。前述のようにこれまで全国で学校間の競争を煽って、ぎりぎりのところまで授業数を増やしてきた。それが高校教員の過重労働の最も大きな要因である。授業を多くしろといっても、おのずと限度がある。だから1週間の授業数を29+HR1にした上で、義務付けるなら1単位につき年間32回の授業実施にするべきである。(学習指導要領に「35単位時間の授業を1単位として計算することを標準とする」書かれていても、以前は年間で30回前後の授業回数であった。32回くらいまでなら、高校はそれほど窮屈にならない年間計画が組めると思う。)
 以上の第一から第四の改革を実施すれば、教員の過重労働はほぼ解消され、4%の教職調整額支給でも容認できるだろう。給特法があるために教員は年間1兆円にもなるという残業代の支払いを受けていない。給特法を廃止しないのなら、給特法にあった労働ができるように、高校の在り方を変えていくべきである。もちろん部活動指導による時間外労働の分は、給特法を改正するなどして相応の賃金を支払わなければならない。

 第一から第四の改革で教員の過重労働の問題はほぼ解消できるとしても、それだけで教員の労働がブラックでなくなるわけではない。私はこのブログに何度も書いているが、教員が自分の良しとする授業を自由にできなくなっている状況(共通進度・共通テストの実施)こそが、教職をブラックでやりがいのない労働にしていると考えて

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いる。私はもう高校で教えることはないが、今流行りのアクティブラーニングの授業とはどういうものかと思って、『アクティブ・ラーニング時代の古典教育』(河添房江編 東京学芸大学出版会)を購入して読んでみた。正直言ってそこに掲載されていたアクティブラーニングによる授業実践を読んでも、あまり感心するようなことはなかった。しかし、何とかしていい授業をしたい、生徒が食いついてくるような、生徒が興味を持って自ら学んでくれるような授業がしたい、という教員の熱意はひしひしと伝わってきた。教員はいい授業がしたいのである。それは決して教員が皆同じことをやることではない。いい授業は教員が自分でいいと思うことを自由にやれること、自分の個性を発揮できること、教員にその自由が与えられてこそできるのである。本に載っていたのは、みな個人的な実践の報告である。教員個人個人がアクティブラーニングを授業に取り入れてみようと、創意工夫をし努力した実践の報告である。みんな右へ倣えでやっていることではない。このブログに書いたが大村はま先生にしろ橋本武先生にしろ、すばらしい授業ができたのは、自分の良しと思うことを実践できる自由が与えられていたからである。みんなが大村はま先生や橋本武先生ほどには能力がないにしろ、自由に授業ができるところにしか優れた授業は生まれない。共通進度・共通テストは教員にとって自殺行為である。

  最後にもう一つ言いたいことは、教員評価制度を止めることである。なぜかといえばこのブログの教員評価制度についてで詳しく書いたが、教員を正しく評価することなどできることではないし、また正しく評価しようと誠実に努めている校長などまずいないからである。我々は日頃、あの人はこれこれこういう人だ、などと評価しているが、そのことによってその人に害を与えることはない。(全くないと言いきれないところもある。)だが教員評価は正しく評価されなかった教員に害を与える。評価する者(校長)はそのことを認識しているのだろうか。害を与えることもあり得るとなれば、慎重に、誠実に評価をしなければならないはずである。校長にそんなことができるのか。甚だ疑問である。教員評価制度は管理職(校長・教頭)と平教員との間の溝を深くするだけである。