より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

なぜ細部にこだわる漢字指導がなくならないのか

 朝日新聞EduAで、今月の14日、15日、16日と三日連続して、漢字教育について専門家に意見を聞いた記事が配信された。

 14日の記事では阿辻哲次氏(日本漢字学会長、京都大学名誉教授)が次のように考えを述べている。
 「辞書や教科書に印刷されている通りに書くのが正しい」という意識が最大の問題だと思います。辞書や教科書では、木偏は縦棒の下端をはねずにとめる、手偏の縦棒はとめずにはねる形で印刷されています。しかし、はねるかとめるかで別の漢字になるわけではありません。文化庁が2016年に出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針」でも、漢字には様々な字形があり、細かな「とめ・はね・はらい」を気にする必要はないと明記されています。印刷の文字と手書きは全く違うのです。それなのに、学校では多くの先生が、はねた木偏やとめた手偏をバツにしてしまう。これが漢字嫌いの子どもを増やす大きな原因になっています。文化庁の指針は、漢字研究者にとっては"常識"です。それが学校現場に浸透していないのは、先生たちが忙しすぎるからではないでしょうか。特に全教科を教える小学校の先生は、特定の教科について深く勉強する時間はなかなか取れないのが実情です。塾の指導も影響しています。大学入試や高校入試で詳しい採点基準が公表されることはほとんどないため、減点を避けようと、「教科書に印刷された字形の通りに書くように」と厳しい指導が繰り広げられています。
 阿辻氏は、はねた木偏やとめた手偏をバツにするのは誤りだと断言しているし、そのことは漢字研究者にとっては"常識"とまで言い切っている。

 また15日の記事では冨安慎吾氏(島根大学准教授)が次のように考えを述べている。
 小中学校の国語の中では、漢字の学習が「書写」と「コミュニケーション手段」に分裂しているところがあります。書写の学習では丁寧に書くという点から「とめ・はね・はらい」が重視されますが、書写以外では、指針の通り、他の字と区別がつくならば、「とめ・はね・はらい」を気にしすぎる必要はありません。しかし、ほとんどの小学校ではどちらも同じ先生が教えるので、書写とそれ以外で指導を変えると一貫性を欠くことになるのが難しい点です。小学校は文字を習得する最初の段階なので、「とめ・はね・はらい」をいい加減にしたくないという先生が多いことも影響しているように思います。
 冨安氏も、書写以外では他の字と区別がつくならば、「とめ・はね・はらい」を気にしすぎる必要はないと述べている。しかし、小学校では同じ先生が教えるので、書写とそれ以外で指導を変えると一貫性を欠くことになるのが難しい点であるとも述べている。その通りだと思うが、小学校の先生はそれくらい教え方を工夫することができないのだろうか。書写の時は「手本をよく見て、木偏の縦棒はとめて書こうね」、それ以外の時は「書写の時には木偏の縦棒をとめて書こうねと言ったけど、普段は気にしなくていいよ」といって教えればいいと思うのだが。そもそも木や木偏の縦棒をとめて書くと、整ったきれいな字になるわけではない。それは書道字典に載っている字を見れば分かる。名筆と呼ばれる字を見ても、木や木偏の縦棒をはねて書いている方が多いのである。教員は書写で毛筆を教えるようになったら、手本の他に、書道字典に載っているいろいろな字を子どもたちに見せてほしいものである。

 16日の記事では、棚橋尚子(奈良教育大学教授)が次のように述べている。
 漢字には様々な字形があり、細かな「とめ・はね・はらい」を気にする必要はないということは、2016年に文化庁が出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針」で示されています。このことは、教育現場ではあまり知らていないようです。日本漢字学会が昨年、小・中学校、高校などの教師587人に聞いた調査では、指針について内容を理解しているのは4割ほどで、存在を知らないという人も2割いました(図1)。 

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思ったよりも知られていないという印象です。多くの先生にとって、指針はご自身の仕事とかけ離れたところにあるという認識なのかもしれません。先生たちはみんな、自分の中に理想の教育の姿を持っています。だからこそ外野の意見を受け付けないところもある。漢字学会には「学校の先生の厳しい指導が漢字嫌いを助長している」と憤っている研究者も少なくありませんが、現場の先生からすれば、ただ子どもたちに漢字の力をつけたいという善意からやっていることだと考えます。ベテランの先生ほど長年慣れた指導から脱却できないということもあるかもしれません。私は小・中学校で教えた経験もあるので、どちらの立場も理解できます。
 棚橋氏は、指針について内容を理解しているのは4割ほどと述べているが、きちんと読んで、内容を理解していると答えた教員はたったの5.5%にすぎない。驚くほど少数である。私は元高校の教員であるが、大村はまの本を読み、当時と今の学校を比べてみると、今の学校では教員が研究するという文化がほぼ失われてしまったと感じていた。教員に研究するという文化が失われると、物事を考えなくなってしまう。研究しようという気持ちがあれば、自分の教えていることにいつも疑問を持ち、絶えずアンテナを張り、知らなかったことや新しい考えが示されたなら、飛びつき貪るように学ぶはずである。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が出された時、各新聞社が一斉に取り上げ、話題にもなった。それなのにこの状況では呆れるばかりである。
 しかし、批判するばかりでは何も改善されない。文部科学省都道府県教育委員会は指針の周知に全力を挙げ、コロナの感染が収まったなら、どんどん講習会を開くべきである。日本漢字学会が実施した調査には、「定期テストにて国語で正答としている形を他教科で誤答とし、保護者よりクレームが入った。保護者は文化審議会の資料を根拠に正答であることを主張し、結果、教科担当は採点の訂正を行った」という中学校教員の回答が載っていた。こういうこともあるので、小学校の教員、中学・高校の国語科の教員については講習会で詳しい説明が必要なのは言うまでもないが、他教科の教員にも講習会を開いて簡単な説明でもいいからする必要がある。(日本漢字学会の調査結果は、日本漢字学会のホームページからダウンロードすることができる。)もうこれ以上、「とめ・はね・はらい」など漢字の細部にこだわる誤った漢字指導を続けてはならない。棚橋氏は善意からやっていることだというが、誤った信念による善意は害となる。教員が学ばなくなったら教育はお終いである。
 日本漢字学会が行った調査には、具体的に漢字を示し、そう書かれた漢字をどう採点するかという質問があった。このことについては次のブログに詳しく書きたい。

 別の話題になるが、早稲田大学教育学部の入試で出題された問題について、問題文に一部内容が使用された書籍の著者である明治大学の重田園江教授が、自らの問い合わせに説明がなかったことに納得できないと抗議した。
 2022年2月19日に行われた教育学部の入試では、国語の第1問で、重田教授の著書『フーコーの風向き―近代国家の系譜学』から出題があった。第1問には、問1~8まであり、重田教授は、このうち学部が示した問1~4までの解答例について疑義を示した。問1については、イロハニホの5つの選択肢のうち、学部は「イ」を正解としたが、大手予備校3校は「ホ」が正解とした。これに対し、重田教授は「イ」は正解の1つでありうるが、「ホ」もダメではないとし、フーコーの論調全体を考えると、「ハ」が正解とした。問題文だけを考えると「ホ」が正解だという。問2は、学部も予備校も「ハ」が正解だとし、重田教授も誤りを除く消去法を使うと「ハ」になるが、難解かつ複雑な概念のため厳密にいうと「正解なし」が正しいという。(問3、4については省略)このように著者がテストに出題された自分の文章を解いてみると、解答とあっていなかったという話は他にも聞いたことがある。一般的にも国語のテストにおいてはこういうことがいくらでもある。正解がなかったり、答えようがなかったり、正解がいくつかあったり、解答が間違っていたり、こういう国語のテストが学校では頻繁に実施されている。ある教員が「ちょっと難しい問題にしたら平均点が30点でした」と私に言ったので、問題を見てみると半分以上が間違いのテストだったということがあった。30点しか取らない生徒の方が正しいのである。それでも生徒は取った点数で評価される。正解が必ずあることを前提として、生徒はテストを受けている。問題が間違っている、答えようがないなどと考えることは生徒には許されない。ただ生徒は与えられた問題を解くだけである。
 学校で間違いだらけのテストが実施されていることなど、ほとんどの人が想像すらできないだろう。私はいつかそういう間違いだらけのテスト問題を公開したいと考えている。

教員不足と最低倍率の教員採用試験

 学校では若い世代の割合が増えて産休・育休の取得者が増加し、病気の休職者も多くなって、代わりの教員が見つからずに欠員が生じている。その実態をつかもうと文科省は初めて全国調査を実施し、結果を先月31日に公表した。それによると昨年(2021)4月の年度当初時点で全国の公立小中高校・特別支援学級では2558人の教員が不足していたことが明らかになった。文科省は、欠員が生じた学校では教頭などの管理職が担任を兼務するなどして対処し、「授業が停滞するといった深刻な事態は把握していない」としているが、広島県呉市では2018年に私立中学校で必要な講師を採用できず、理科と国語で4月分の授業を実施できない事態に陥るなど、学校現場では教員不足による深刻な影響が出ている。
 また文科省は先月31日に、都道府県教育委員会などが2020年度に実施した教員採用試験(2021年度採用)の倍率を公表した。小学校の全国平均は前年度より0.1ポイント低い2.6倍で、3年連続で過去最低の倍率となり、中学校は4.4倍、高校は6.6倍だった。小学校で最も低いのは佐賀県長崎県の1.4倍で、教育県として知られる秋田県でも1.8倍だった。
 教育評論家の尾木直樹氏は2月1日のブログで、「3倍以下になると質の担保は出来ないと言われていますから」と教員の質の低下を危惧し、教職の人気の低下の原因として「過酷な労働現場 行き過ぎた管理主義と上意下達 持ち帰る仕事の多さ」をあげ、「如何に子どもたちが可愛くて共に学ぶのが楽しくても 教職の魅力は薄れます 最早危機の吃水を超えています なんとか緊急に手を打たないと公教育が崩壊してしまいます」と訴えている。
 また前屋毅氏は文科省の調査で教員不足の定義が、「臨時的任用教員等の確保ができず、実際に学校に配置されている教師の数が、各都道府県・指定都市等の教育委員会において学校に配置することとしている教師の数(配当数)を満たしておらず欠員が生じる状態を指す」となっており、臨時的任用教員すなわち非正規教員の不足を教員不足としていることにも問題があると指摘している。非正規教員の労働環境は厳しく、非正規教員でも学級担任を任されるケースも少なくないし、正規教員と同様の過重労働を強いられてもいる。それでいながら正規教員に比べて低賃金で、将来的な保証がない。調査では非正規教員の名簿登録者数が減少していることも教員不足の要因としているが、低賃金で都合よく働かされる非正規教員の希望者が減るのは当然であり、非正規教員の労働環境を根本的に変え、非正規教員を正規教員にしていく施策が必要だ、と前屋氏は述べている。

 まず非正規教員について考えてみたい。非正規教員にはフルタイムで勤める常勤講師と授業だけを受け持ち、授業の時間にだけ勤務する非常勤講師とがある。非常勤講師はハローワークの募集では時給2500円くらいになっている。この時給は授業1コマ、つまり授業1時間で2500円ということである。週に10コマの授業を持っているとすると、1月はだいたい4週間であるから1月の給料は10万円ということになる。新潟県の高校では正規教員の平均持ちコマ数・16コマを超えないように、非常勤講師は15コマを持つのが限度である。(このコマ数については正確でないかもしれないが、ほぼこの通りである。)だから最高でも月15万円で、もちろんここから税金が差し引かれるから、この給料ではとても生活は困難である。時給2500円とすると高いように感じるが、授業は教室に行けばできるというものではない。教えるためには入念に教材研究をし、必要ならプリントを作成して印刷するなどの準備をしなければならない。課題のチェック(課題は自分では出したくないと考えても、学年共通でやることになっていればそれに従わざるを得ない)やテストの作成、採点などもある。それらの時間は無給であるから、非常勤講師の時給は最低賃金にも達していないのが実情である。この賃金で働けというのが間違っている。
 常勤講師の仕事は正規教員と同じである。授業だけでなく分掌も部活指導も受け持つ。給料は正規教員に比べれば少ないが、生活が出来るくらいはもらえるようである。(私は常勤講師をしたことがないので、どのくらいの給料をもらえるのか分からない。)高校の正規教員の平均持ちコマ数は16コマであると前述した。平均するとだいたい16コマであるが、科目の単位数が決まっているので、各教員がぴったり16コマずつ持つことにはできずに、17コマ、18コマ持たなければならない教員が出てくることがある。進んで授業を多く持とうという教員はいない。授業を多く持ちたいという教員は見たことがない。誰もが本心では授業を多く持ちたくないから、持ちコマを決めることに関与できない常勤講師に御鉢が回っていくことになる。正規教員だけの学校が多いので、常勤講師が新年度から配置される場合などにそうなるということである。私も常勤講師に申し訳ないとは思ったが、私ともう一人の正規教員が15コマずつで、常勤講師には17コマ持ってもらったことがある。
 常勤講師は若い人が多い。つまり教員採用試験に合格できずに、教員採用試験に合格するまでの間、常勤講師をする若者が多いということである。考えてみると、ここには根本的矛盾がある。不合格となったということは、学力が足りなかったのか、何が足りなかったかは分からないが、正規教員になるには何かが足りないと判定されたのである。(教員採用試験は2次試験まであり、1次試験は学力試験である。その1次試験に落ちた者も常勤講師として採用される。)それなのに合格した者と全く同様に、教員として授業を担当するのである。常勤講師になる若者は教員としては不十分と判定されたのだから、教員として授業を担当する前に研修などして、合格して正規教員に採用された者と同等の力を付けてから教壇に立たせるべきなのである。それなのに合格して正規教員に採用された者には研修があり、指導教員がつくが、常勤講師には研修もないし、指導教員もつかない。これでは力の足りない常勤講師に授業を放り投げて、させていることになる。無責任というほかはあるまい。
 産休・育休や病休の代替教員としてだけでなく、本来は正規教員が配置されなければならないのに常勤講師が配置される場合も多い。そういうことは絶対に無くして、できるだけ非正規教員を少なくし、さらに非正規教員の待遇を改善しなければならない。教員に長時間労働をさせていることも、非正規教員が多いことも、教育にかけるコストを下げるためである。これではいい教育ができるはずがない。

 尾木直樹氏が言うように、「過酷な労働現場 行き過ぎた管理主義と上意下達 持ち帰る仕事の多さ」が原因で教職の人気が低下して、教員採用試験の倍率が下がり、教員不足が起こっているのだろう。教職がブラックな労働であることがこれほどまでに広く知れ渡っているのに、国はいっこうに抜本的な解決策を立て、実行しようとはしない。これでは教員採用試験の倍率が上がり、教員不足が解消されることは全く望めない。

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 ここに教職の現状を教えてくれる本がある。それは2021年6月に出版された前屋毅氏の『教師をやめる 14人の語りから見える学校のリアル』(学事出版)という本である。前屋氏が教師をやめた14人にその理由を尋ねて書いた本である。そこには「夜の10時を過ぎても、半分くらいの先生たちが残っているんです。『これが普通なのか』と、ビックリしましたね。子育てとかある人は、仕事を持ち帰っていました」「警備システムの関係で夜中の0時に学校全体が施錠されてしまうんですが、その直前まで毎日残業していました。その時間まで残っている人が3~4人いて、『12時だ、急げ~』という調子で帰る毎日でした」という異常な職場(中学校)の実態が語られている。また小学校の教員は「従来の指導の枠には収まらない子どもたちが急速に増えてきています。そういう子たちを40人も担当するなんて、とても無理な状況になっています。問題を抱えているのは、子どもだけでなく保護者も同じです。教員を責めることしかできない保護者が増えています。指導が足りない、教え方が悪い、うちの子の成績が悪いのは担任のせいだ、なんでもかんでも教員の責任にして、病的なくらい攻撃してくる。そんな状況にもかかわらず、仕事はどんどん増えるばかりです。英語だとか道徳だ、防災教育だ、減る仕事はなくて、どんどん積み重ねられていくだけ。それでいて、残業代もつかない」と何ら改善されずに厳しくなる一方の状況を語っている。
 毎日夜の10時まで半数の教員が居残り、夜中の0時まで働いている教員がいる異常な状況を見て、校長は内の学校の教員はよく働いてくれる、としか思わないのだろうか。何とか皆を早く帰宅させてやりたいと考えないのだろうか。異常な長時間労働をなくすために、手を尽くすのが校長の仕事であろう。こんな絶望的な労働環境を改善できない校長は、責任を放棄しているとしか言いようがない。
 校長・教頭といった管理職のパワハラを、教員を辞めた理由に挙げている人もいる。教員は聖人君子ではない、ただの人間であるから、職場(学校)での軋轢はつきものである。どの教員も児童・生徒の学力向上や人間的成長をその目標としているが、目標は一つであっても、その目標を達成するためにどうするか、やり方は一つではない。そのやり方をめぐって、学校のやり方(学校の方針)、自分のやり方を押し付けてくる教員(管理職を含む)がいる。そのことで教員同士がギクシャクした関係となって、弱い立場の教員は押しつぶされ、やめざるをえなくなる。こういう理由で辞める教員は、特に小学校で多いようである。『教師をやめる』には「子どもたちの死んだような目を気にしながらも、学校の方針に合わせようとガチガチにやっている。『なにやっているんだろう』と反省する日が続きました。自分がやりたくないスタイルの授業をやっていることが、すごく嫌でした。そんなことをやっている自分は子どもが好きではないのかもしれない、とまで考えました。だから、辞めることにしたんです」(20代女性小学校教員)、「学校は上からのプレッシャーが強すぎて、やらなければいけないことが決まっている。マニュアル化されていました。そこにモヤッとしたものを感じていたのは事実です」(30代男性小学校教員)という声が載っている。私は高校の教員だったので、小学校の教員と比較すると、かなり自由だったと思われるが、授業の進度を合わせ、共通のテストをさせられることだけでも非常に苦痛だった。私が生徒だった時はもちろんだが、教員になってからも20年近くは生徒全員に同じ教科書はもたせても、どの箇所を教えるかはそのクラスを担当する教員に任されていた。教えるところが違うのであるから、テストが違うのも当然のことである。どこの高校でも進度を合わせテストを共通のものにするようになるのは、20世紀が終わろうとする頃からだろう。生徒の様子を見て、必要だと判断したことを教える自由が、各教員に与えられなければ、教員はやりがいを奪われ、授業も教員も活気を失う。「子どもたちが分かった、できるようになったというのを実際に感じられるのが教員としての『やりがい』だと思っています。その『やりがい』のために教員になったんですから、型にはめた教え方で、『わからない』とか『できない』で放っておくのは、『やりがい』を放棄すると同じでしかありません」(20代男性小学校教員)。この想いは当たり前のことではないだろうか。「最近では話題にもなっている『スタンダード』と呼ばれるものが、その小学校にもありました。たとえば学校に持ってくる鉛筆の数は何本と決められているし、座っているときは手はグーで、ピンと背筋を伸ばしてピタッと足はそろえる、と決まっている」「型って必要な部分もあると思うんですけど、私が学校で経験した型は、あそこまでやるのは、やりすぎだなと感じるものでした。ただ聞くところによると、私の勤務校はまだマシなほうで、もっとすごい学校がたくさんあるようですから、私のように型どおりにやるのが好きではない人間にしてみれば、学校自体が務まらない職場なのかもしれません」(20代男性小学校教員)。
 教職が長時間勤務を強いられるブラックな労働であることは知れ渡っているが、教えることに教員の自由がなくなっていることは、まだそれほど知れ渡っていないように思う。これを誰もが知ることになれば、ますます教員を志す若者は減っていくだろう。根本から教育に対する考えを改める、その時期に来ていることは間違いない。

試験問題漏洩、高校国語の選択科目

 昨年12月に奈良県御所実業高校の男性教諭(57)が、テストで出題が予定されていた問題を事前に生徒に流出させたとして、停職6か月の懲戒処分を受けた。教諭は10月に、2学年の2学期中間テストに出題予定だった世界史の試験問題を同僚から借り、同じ内容の「対策プリント」を作って、自分が受け持つクラスの生徒に配付した。また、自分が出題を担当した1学年の日本史の1学期期末テストと2学期に中間テストでも、同様の「対策プリント」を配付していた。

 数学などだと「対策プリント」と同じ解き方の問題でも数字をかえれば違う問題になるが、国語だとそうはいかないので、私は「対策プリント」を作ったことはなかった。しかし、私の経験では、多くの教科でテスト前に「対策プリント」を配付することが、低学力の高校ではごく普通に行われていた。「対策プリント」といっても、ほぼ本番のテスト問題そのままのプリントを、テスト前の最後の授業で解かせる教員もいた。懲戒処分を受けた教諭は「学力が厳しい生徒が何とか一定の点数を取れるようにとの思いだった」と話しているというが、真面目に授業を受けていても、テストでは点数が取れない生徒に点数を取らせてやりたいとの思いだったのだろう。この御所実業の教諭のまずいところは、自分の担当するクラスの生徒にだけ「対策プリント」を配付したことである。こうすると自分の担当するクラスの点数だけ上げることになってしまうので、これはやってはいけないことである。どうして彼は同じ科目を担当している教員と、全生徒に「対策プリント」を配付しようと相談しなかったのだろうか。考えが一致しなかったのか、それとも学力が厳しい生徒に点数を取らせてやりたかった、という言葉が嘘なのか。
 「対策プリント」など邪道だと思うし、ただただ答えの丸暗記で、そんなことをすれば、一層学力が身につくはずもないことをしていいのかという思いもある。だが、そうでもしないと真面目にやっているが、点数の取れない生徒を救ってやれないことがあるのも確かである。悩ましい問題である。御所実業の教諭にはちょっとだけ同情する。

 話は換わって、高校国語の選択科目の問題である。2022年4月から高校の国語が変わる。これまであった2年次からの「現代文」が、実用的文章を扱う「論理国語」と、小説・詩を扱う「文学国語」という新しい選択科目に解体される。多くの高校では大学入試を見据えて「論理国語」が選択されることになりそうである。そうなると芥川龍之介の「羅生門」、中島敦の「山月記」、夏目漱石の「こころ」、森鷗外の「舞姫」など、高校の「現代文」の定番で、これまでほとんどの日本人が読んできた国民的な文学作品を、多くの高校生が読まない事態が生ずることになる。

 それに対して大東文化大学教授の山口謠司氏が、次のように話している。(AERAdot.より)
 契約書や取扱説明書を読めるように「論理」を重視した結果、「文学」を軽視することになっていて、この流れは明らかにおかしい。「文学は論理的でなく、実社会に役立たない」という改革の背後にある考え方がまったく理解できません。・・・中略・・・「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つに違いありません。・・・以下省略

 詳しくは「4月に変わる「高校国語」に学者から怒りの声「人の気持ちがわからない子が育つ”改悪”」AERA dot.)をご覧いただきたいが、私も山口教授のお話しの通りだと思う。全くばかげた改革で、改悪にほかならない。そもそも文学も論理的でなければ成立するはずがなく、芥川龍之介にしろ、中島敦にしろ、漱石も鷗外も皆が論理的な文章を書いている。その上に彼らの作品は論理を超えた品格をも備えている。実用的な文章と文学作品との決定的な違いは、この品格にある。生徒は文学作品の文章が持つ品格に憧れ、自分もそんな品格のある文章を書いてみたいと思って勉強するのである。実用的な文章を読んで、そういう文章を書けるようになりたいと憧れる生徒などいるのだろうか。勉強の原動力は”憧れ”である。生徒はこんな文章を書ける人になりたいと思うから勉強する。そういう憧れを抱かせるのが文学作品である。高校で実用的な文章だけ教えていると、生徒は文章を書くことに憧れを持たなくなって、ますます勉強しなくなりそうである。