より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

灘校の教師・橋本武の『銀の匙』の授業に学ぶ

 橋本武(1912~2013)は、灘校で50年間国語を教えた教師である。2005年に教え子の黒岩祐治(現・神奈川県知事)が出版した『恩師の条件』(リヨン社)で、橋本の授業が紹介され脚光を浴びることになったが、橋本武はその時なんと93歳という高齢であった。その後、2009年にNHK「ザ・コーチ 人生ノ教科書 横道にそれてもいいんだ~伝説の国語教師 橋本武~」が放送され、2010年には『奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち』(小学館)がベストセラーとなって、一躍時の人となる。

 橋本武の授業は、中勘助の『銀の匙』を中学校3年間かけて読み解くというユニークな授業であった。(文部省検定の教科書は一度も使用しない。)橋本がなぜ『銀の匙』を教材に選んだかというと、➀主人公は十代の少年であり、生徒たちが自分を重ね合わせて読みやすい、②夏目漱石が激賞したほど日本語が美しい、③明治期の日本を緻密に描いており、時代や風俗考証の対象になりやすい等々の理由からであるが、自分が中学生だったとき国語の授業で何を教わったのだろうかと自問したときに、何も答えられないことに愕然とし、何か一つでもいいから子どもたちの心に生涯残るような授業をしたいと思い、『銀の匙』を3年間かけて徹底的に読み解くということにたどり着いたという。

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 橋本武の授業の概略を紹介すると、次のようになる。(詳しくは写真で示した本をご覧いただきたい。)

 ノートは一切使わず、全て橋本が自作したプリントを使って授業。

 橋本は最初の『銀の匙』の授業を始める1年前から研究を開始し、授業には毎時間大量のプリントを持参して臨んだ。そのプリントは毎日帰宅後、食事を終えてから鉄筆を片手に作成したもので、作成には深夜2時3時までかかることがしばしばだったという。橋本は分からないところは直接作者の中勘助に手紙を出して尋ねた。中勘助は橋本から質問の手紙が来るたびに、懇切丁寧な解説の返事をくれた。昭和26年に橋本が初めて『銀の匙』研究ノート(授業で使ったプリントを製本したもの)を中勘助に送ると、銀の匙』をこんなにまでしてお読み下さいますことに改めて御礼を申し上げます。これを拝見するとあべこべに著者のほうで学問をすることになりそうです。中勘助から礼状が来るほど、橋本武の研究は徹底していた。

 徹底したスローリーディング

 登場人物の見聞や感情を追体験して、一言一句をおろそかにせず読み解き、どこまでも横道にそれて膨らませていく授業は、2週間に1ページしか進まないこともたびたびだった。

スローリーディングのポイント

 1寄り道をする
  例えば『銀の匙』の本文に「ぺんぺん草」と言う言葉が出てくると、ぺんぺん草
  は 「なずな」の別称なので、話は「春の七草」「七草粥」そして百人一首の光
  孝天皇の歌、「七草をはやす」へと進み、さらに「秋の七草」にまで発展してい
  く。

 追体験をする 
  きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は口にくわえると青竹
  の
匂いがしてつるりと舌のうえにすべりだす。と書かれていると、神戸のデパー
  トの地下を回ったり、仙台の専門店に手紙で問い合わせたりして、駄菓子を人数
  分買って生徒に配り、それを食べながら授業するというほど徹底していた。

 3徹底的に調べる 
  桃のお節句にお国さんのところへよばれたことがあった。とあれば、五節句に行
  われる風習を詳しく調べ、寿司屋に行けば魚偏の漢字を集めてみるなど、生活の
  周辺のことであっても徹底して調べる。

 4自分で考える
  『銀の匙』は新聞に連載されたもので、各章は短く、その冒頭には「四」「五」
  などと数字がふってあるだけなので、生徒自身に各章のタイトルをつけさせる。
  その後発表し合い、皆で話し合ってクラスとしてのタイトルを決める。自分の頭
  で考えることが重要なので、自分でつけたものがクラスで決めたものと違ってい
  ても、それを否定はしない。『銀の匙』の各章を、必ず最後のマル(句点)が最
  後のマス目に入るように、200字ぴったりに要約する。要約は文意を正確に把握
  する訓練になり、200字ちょうどで書くためには1字足りないから似た意味のこ
  の言葉に替えようなどというように、一語一語に敏感になる、等々。

スローリーディングで身につく力

 寄り道や追体験を通して、好奇心が刺激され、学ぶことの楽しさを知り、楽しく調べる習慣が身につく。楽しく学ぶ、「遊ぶ」ように「学ぶ」、この体験が生徒の将来に計り知れない影響を与えることになる。

 『銀の匙』の授業の概略は以上であるが、授業の他に橋本は中学の3年間、毎月一冊の課題図書を指定し、読後感想文の提出を生徒に課していた。黒岩祐治は「毎月の読後感想文というのは、正直言って辛かった。」と述懐しているが、課題図書の中には『徒然草』『古事記』などのように、一カ月で読んで読後感想文を書くのには、かなり厳しいものも含まれていた。

 橋本武がなぜこのような授業ができたといえば、灘校に「6年一貫一教科一教師の持ち上がり担任制」という独自のシステムがあったからである。6年間にどんな授業をするかは、すべて教師の自由。一教科一教師制なので、同じ科目担当の他の教師との話し合いをする必要はなく、完全にオリジナルな授業ができる。「灘校には6つの学校がある」というくらい、学年によって指導法が違い、卒業生もどの代だったかで、人間性まで違うといわれるほどだという。ただしその完全自由裁量の代償として、生徒の学力を上げる重い責任を教師は一人で背負わなければならない。橋本は全ての責任を自分でとるという覚悟で『銀の匙』の授業を始めた。

 授業も自由だが、成績のつけ方も教師の自由で、橋本は平常点を50点、中間・期末の試験の点数を50点とし、橋本が出した課題をこなしていけば、上手でも下手でも、どんなことを書いていても、平常点を満点(50点)にしていた。

 橋本武の授業は ”奇跡の授業” といわれる。橋本の高い能力とあふれるバイタリティーがあってこそできたことであるが、何といっても橋本に自由が与えられていたことでできた授業である。私はこのブログの『教えるということ』(大村はま著)に学ぶで、今の学校には全く自由がないことを述べ、教師に自由を与えることにしか教育の未来はないと述べたが、大村はまの授業も、橋本武のこの ”奇跡の授業” もそのことを証明している。大村はまや橋本武のようには能力もバイタリティーもない教師であっても、自由を与えられなければ能力を発揮することはできないし、仕事に責任を持つこともない。

 

追記 

 2011年6月24日発売の『週刊ポスト』(小学館)に、 ”伝説の灘校教師98歳「奇跡の授業」誌上公開” として、橋本武先生の授業が16ページの特集記事として掲載された。

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 私は橋本先生に関心を寄せていたので、どんなことが書いてあるのだろうと立ち読みした。すると記事の中に、3か所も4か所も間違いがある。一例を挙げると「立夏立秋立冬立春の前18日間をそれぞれ、春夏秋冬の土用と言います。だから土用の丑の日は、年に4回あることになる」などと書いてあった。私は初めは全く『週刊ポスト』を購入する気はなかったが、このままにしておいては橋本先生が間違ったことを教えていたことになり、先生の業績に傷がついてしまうと考え、『週刊ポスト』を購入して、小学館に訂正するように手紙を出した。すると数日たって小学館から電話が来た。どうしてこんなに間違いがあるのかと聞くと、教え子たちの話をそのまま載せたので、そうなってしまったという。橋本先生の授業を受けてから数十年もたつと、記憶も曖昧になってしまうのだろう。私の他に間違いを指摘してきた者はいないかと聞くと、いないという。丁寧に記事を読む人がいないのか、それとも節気や節気に関連することに関心を持つ人がいなくなってしまったのか。『週刊ポスト』はその後訂正記事を出すことはなっかったが、週刊誌なので、今ではその特集記事が掲載された『週刊ポスト』を所持している人もいないことだろう。