より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

小学校教諭、残業代の支払いを求めて提訴

 昨年(2018年)9月に、埼玉県の小学校教諭・田中まさお(仮名)氏が残業代の支払いを求めて埼玉県を訴えた。教員はいくら残業しても、残業代はもらえない。給特法により、教員の給与にはあらかじめ給料の月額4%の金額(おおよそ8時間の残業代に相当する金額)が上乗せされているし、校長は超勤4項目(➀生徒の実習 ②学校行事 ③職員会議 ④非常災害、児童生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合等)以外の残業を命令できないので、教員の残業は全て教員自身が自発的・自主的な意思に基づいて行っていることになって、賃金が支払われないのである。*1

 しかし田中氏によれば、今の小学校は教員が普通に業務をこなしているだけも残業になってしまう状況にあり、教員が自発的・自主的に残業をしているわけではないという。例を挙げると、田中氏の小学校では教室にエアコンが設置され、子どもたちが快適に過ごせるようになったが、県教委から教員にスイッチをつけたり切ったりするたびに記録を書かせる業務の指示が出ているという。こんな馬鹿げた業務まであり、そんなことにも時間をとられてしまう。

 また図工で絵を描かせたときに、児童には絵に作品票(児童が名前、工夫した点などを記入する)をつけて提出させ、それを掲示する。以前は作品票に赤ペンでコメントを書く教員もいれば書かないで掲示する教員もいた。コメントを書くことも、書かないことも、それは教員の裁量であった。しかし今は必ず全児童の作品票にコメントを書かなければ掲示してはならなくなった。作文を書かせても同じで、全児童の作文に必ずコメントを書いて返却しなければならず、以前なら、口頭で伝えて済ませてしまうこともできたが、今ではそれができなくなった。教員に書く書かないの意思の自由はなく、学校の方針に従わなければない。書く書かないを自身で決められたときには、書くことは教員が自発的・自主的な意思に基づいて行っていたことと言えるが、必ず全児童の絵や作文にコメントを書かなければならないとなれば、それはもう教員の自発的・自主的な意思に基づいた行為ではない。もちろん全児童の作品にコメントを書かなければならなくなれば、それだけ時間が必要になる。学校の方針と言ったが、言い換えれば校長の考えであり、校長の考えに従って仕事をすれば、残業をすることになるのである。

  田中氏によれば、校長の考えに従わなければならなくなって、教員の自発的・自主的な意思が奪われるようになっていったのは、2000年頃から校長の権限が強化され、さらに人事評価制度が導入されてからであるという。

 私はこんな些細なことにまで小学校では教員の自由・裁量が奪われていることを知らなかった。驚くべき実態である。私はこのブログの高校に「ゆとり世代」は存在しない『教えるということ』(大村はま著)に学ぶ(一)(二)(三)で高校で教員に自由がなくなっていることを書いたが、高校ではここまで細かいことまで制限されてはいない。高校の教員が小学校と違って教科別になっているからである。校長も自分の知らない教科に口出しはできない。しかし残業に関しては、高校には小学校にはない部活動の問題がある。部活動はほぼ全てが時間外勤務、残業である。平日だけでなく、土曜日も日曜日も活動する部活がある。教員は生徒が学校で部活動をしている間は、必ず学校にいなければならない。私は自分はあくまでも国語の教員として採用されたのだと思っていたので、部活動は好きではなかった。(部活動が大好きな教員も中には入る。)土曜日・日曜日や祝日に部活動に出ることは苦痛でしかなかった。ただ働きが嫌というより、私は休日を奪われてしまうことがたまらなく嫌だった。そのことを他の人に話しても、休日にも部活動をするのが教員だろうと、私の思いに賛同してくれる人はいなかった。その人たちは上司から休日に会社に出勤して、ほぼ無賃で働けといわれたら、喜んで働くのだろうか。働くわけはあるまい。自分が嫌なことでも、教員ならするのが当たり前とは、あまりにも勝手すぎる。生徒が部活動をしている場に、教員がいないということは許されない、必ずいなければならない。しかし教員は自発的・自主的な意思に基づいてそこにいるわけではなく、学校の方針(校長の考え・県教委の考え)でそこにいるのである。私は出世することだけを考えている知り合いの教員に、休日の勤務を命令することはできないのだから、休日の部活動に出なくてもいいのではないかと質したことがある。その教員は出なくていいと答えた。私が出ないと部活動をすることが許可されないから、生徒が部活動をできなくなるがそれでもいいのか、とさらに質問すると、それでもいいと言う。実際には自分が部活動に出るのが嫌だから、お前たち(生徒たち)は部活動をできないなどと言えないことが分かっていて、県教委の考えに沿って、できもしないことを厚顔にも言うのである。その知り合いは校長になり、今は私立高校の校長に納まっている。(新潟県の私立高校の校長は、ほとんどが県立高校の校長だった者の天下りである。まさに彼らは寄生虫である。自分の天下りという行為によって、他の教員(公務員)に不信の目が向けられることをどう思っているのだろうか。彼らの行為が、他の教員・公務員に不利益を与えているのである。そのことを自覚すれば、天下りなどできないはずである。再任用というルールがあるのだから、それに従って再任用をしてもらえばいいのである。仕事がやりにくいとかいずらいとか、それは自分の勝手な言い訳にすぎない。他の教員・公務員はそれを我慢してやっているのである。それに天下りされる私立高校の教員たちはどう思っているのだろう。諦めてはいても快く思っているはずがない。知事はこういうところにも目を配って、悪しき慣例を断つべきである。県や市町村の公務員の天下りは野放しであるが、国家公務員の天下りと同様に規制しなければなるまい。)

 少し話がそれてしまったが、要するに田中氏は小学校の教員は自発的・自主的な意思で残業をやっているわけではないのであるから、残業代が支払われるべきであると訴えているのである。至極当然の訴えである。しかし残業代の不払いについては、これまで教員組合が訴訟を起こして負け続けてきていて、今回の田中氏の訴訟も勝算は低いようである。それでも田中氏はこの訴訟を通して多くの人に小学校の現状を知ってもらうことが最も重要であり、若い教員たちや教員を目指している若者にブラックな今の状況をそのまま残しておくわけにはいかないと提訴しているのである。勇気ある立派な行動だと思う。

 昨年の12月に1回目の口頭弁論が行われ、今年2月には2回目の口頭弁論が行われた。2回目の口頭弁論では1回目より多くの傍聴者が席を埋め、傍聴者の中には大学生や退職教員もいたという。関心を持つ人が多いようである。田中氏は結審までには3年半くらいはかかると踏んでいようであるが、その間にこの訴訟に対する関心がどんどん高まっていくことを期待したい。

 今の大人は皆が元は小学校の児童であり、高校の生徒であった。その経験から自分は小学校のことも高校のことも、良く知っていると思っている。しかし小学校も高校もどんどん変わっている。そのことを本当に知っているのは、教員だけである。教員の言葉にもっと耳を傾けてほしいものである。

 なおこの訴訟に関心のある方は、名古屋大学准教授・内田良氏が田中まさお氏にインタビューした動画(後半は第1回口頭弁論時の田中氏の意見陳述の再現動画)がTouTubeで見られるので、ご覧いただきたい。私は幾度か見たが、田中氏が休憩時間について話しているところは、(給食の関係でそうなるのかと思ったが)理解できなかった。高校では休憩時間が問題になることなどなかったので、どういうことなのか分からなかったのである。同じ公立の学校と言っても、小学校と高校では相当違いがあるようだ。

*1:大府市事件(平成11年)では、教員が「自発的・自主的な意思に基づいて遂行」したもので「労働」にあたらないという理由で、手当請求を棄却する判決が出されている。