より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

教職はいつからブラックな労働になったのか(一)   1985.4~1991.3

 小学校の教員の3割、中学校の教員の6割が、月80時間以上の「過労死ライン」を超える時間外労働をしているという。高校の調査はなかなか実施されないが、高校の教員の時間外労働も小中学校とほとんど同じ状況にあると考えられる。いつから、どうして、教員の労働がこんなブラックな状況になったのか。私の教員生活を振り返って考えてみたい。(私は高校の教員だったので、高校の状況ということになる。)

 なぜ考えてみようと思ったかといえば、このブログの小学校教諭、残業代の支払いを求めて提訴のところで書いたが、田中まさお氏が言うように、若い教員や教員を目指している若者に今のブラックな状況を残さないために、いつから、なぜブラックな労働になったかをはっきりさせる必要があると思ったからである。ブラックな状況をなくすことは、教員の生活を守るためだけでなく、生徒のためにも必要なことである。時間的な余裕がなければ、教員は授業の準備・教材研究がしっかりできない。授業の質はどうしても落ちてしまう。教員が十分に授業の準備ができ、そこにやりがを見つけることができて活き活きとしていれば、生徒もそれを敏感に感じ取り、好循環が生まれることになる。

 ブラックな労働になっている主因が、給特法にあるという考えが目立つ。給特法(教員の給与にあらかじめ給料の月額4%の金額〔おおよそ8時間の残業代に相当する〕を上乗せすることで、残業代を一切払わないとする法律)があるために、教員を働かせ放題になっていることは確かである。今年(2019年)2月3日にはTBS系列で放送される「林先生が驚く初耳学」で、給特法が取り上げられた。テレビのバラエティ番組でも取り上げられ、給特法の存在が広く社会的に知られるようになってきたことは実に喜ばしいことである。しかし給特法という悪法が改正されれば、それで教職のブラックな状況がなくなるということではあるまい。教員の残業代金は現状のままなら1兆円近くにもなるということであるから、給特法が改正されれば残業代金を減らすために少しは業務が削られ、帰宅を早める誘因にはなるだろうが、かえって自宅への持ち帰りの仕事が激増することにもなりかねない。給特法を改正することはもちろん重要である。そのことは言を俟たない。しかし1971年に給特法が制定され以来、部活動のためにブラックな労働であったという面はあるものの、一般的な教員は給特法があったこの約50年間、ずっとブラックな労働を強いられてきたわけではない。私はこの50年間のうち30数年間教員をしていたが、4%の教職調整額の上乗せで、さほど不満のない時代もあった。(給特法で決められている4%の上乗せは、1966年度に文部省が実施した「教員勤務状況調査」において、一週間における時間外労働の合計が、小中学校で平均1時間48分であったことから算出された。だから給特法が制定された当初は根拠があった。)それがいつからか急速にブラック化していったのである。そのことをはっきりさせれば、教職がブラックな労働になった原因がわかるはずである。(中央教育審議会は今年1月25日に「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」という長ったらしい名の答申を出した。しかし答申で給特法の改正には踏み込まずに、教員の勤務時間の上限を原則、➀1か月、超過勤務45時間以内、②1年間、超過勤務360時間以内としている。月に8時間の残業代しか支払っていないのに、月に45時間、年に360時間の残業をさせていいとは、いったいこんなブラックな労働を容認する答申が教職以外にあり得るだろうか。給特法に手をつけないなら、残業削減に向けた抜本的で大胆な具体的方策を示すべきであろう。いったい何のための答申なのか。)

 私は1985年(昭和60年)4月に新潟県の教員になり、2015年(平成27年)3月に定年で退職した。この30年間の状況を私の勤務校との関連で、いくつかに区切って説明する。まずここでは1985年4月~1991年(平成3年)3月を取り上げる。

 記憶を呼び起こしながら書いてくが、その際参考にするのが年間予定表である。年間予定表とはどの高校でも年度初めの職員会議で配付される、一年間の学校行事・定期テスト等の予定を記した表である。私はこの年間予定表を最初の2年分はなくしてしまったが、幸いにも28年分(1987.4~2015.3)保存していた。年間予定表に出張した場所や旅行先・登った山、採った山菜や茸のことなどを書きこんで備忘録として活用していたからである。

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この年間予定表を見れば、定期テストの期間がいつで、夏休みが何月何日から何月何日までだったかなど一目で分かる。

 さて私は1985年(昭和60年)4月に新採用の教員として、新潟県立のKU高校に赴任した。KU高校(現在は別名の高校になっている)は各学年普通科6クラスで、赴任した年に創立10周年記念式典が行われた新設高校である。当時KU高校は新潟県で最も荒れていた高校の一つで、毎年数十人の生徒が退学していた。私は生徒指導部に配置され、ほとんど毎日放課後は会議と校外の見回りであった。この高校ではほとんど部活動が成り立っていなかったので、放課後になると体育館は空いていた。時たますることのない放課後に、教員たちでバドミントンなどをして楽しむこともあった。このKU高校に3年いて次の高校に行った時には、放課後に体育館をレクリエーションの場として使えないので最初は戸惑った。放課後の体育館は部活動で生徒たちが使用することを忘れていたのである。

 教員の多忙化をある意味で象徴しているのは、教頭職である。現在、各学年6クラス(全校で18クラス)規模の高校なら教頭が二人いるのが普通になっている。それが当時、KU高校の教頭はもちろん一人で、しかも週9時間か10時間の授業をして教頭の仕事をこなしていた。一般の教員の授業時数は週16時間くらいである。(この数字は今も変わらない。)なぜ教頭の授業時数が分かるのかというと、教頭が国語科の教員だったからである。国語科の会議では、「教頭先生は授業が少なくていいですね、もっと持てるんじゃないですか」などと言った記憶がある。それほどに教頭職は当時はまだ多忙ではなかった。それがだんだんと教頭の授業時数は0か多くても3時間までとなり、そして今では二人体制になった。(しかしよく考えてみると、教頭職の多忙化と一般教員の多忙化の原因は異なっているようである。)

 夏休みは7月21日から8月31日までの42日間。7月20日の1学期終業式の日も9月1日の2学期始業式の日も授業は行わなかった。生徒は登校し、清掃をし、体育館で終業式(始業式)をし、HRをしてその日は午前中で解散である。今は夏休みは短縮され(短い学校では2週間しかない。このブログの高校に「ゆとり世代」は存在しないを参照)、終業式・始業式の日にも授業があるのが普通である。

 定期テストについては、1学期の期末テストは7月の第2週に実施されるのが一般的であった。1987年(昭和62年)には7月6日(月)~9日(木)が期末テストで、テストが終わると10日(金)11日(土)が校内球技大会である。(当時はまだ土曜に授業があった。)その後は20日の終業式まで生徒は登校しない(授業はない)ので、実質的には7月12日から夏休みだった。(だから夏休みは50日間はあったともいえる。)教員は終業式まで授業がなかったので、ゆとりを持ってテストを採点し、学期の成績をつけることができた。今は1学期の期末テストを6月末から7月初めに前倒して実施し、その後校内球技大会を簡単に済ませ、終業式まできっちりと普通に授業をする。しかもテストの最終日には、テストが終わると授業をするし、普段の日が過密になっているので、テスト期間の午後に会議がどんどん入る。(このころはテスト期間に会議は入れなかった。)教員は時間がなくて採点にも四苦八苦する状況になっている。この状況は2学期、3学期についてもほぼ同じである。

 授業は月曜から金曜までは6時間、土曜は3時間で週33時間(内、HRが1時間)。授業は1コマ50分である。ほとんどの高校が当時はこうだった。

 私は夏休みにはほとんど学校に行かなかった。授業はないし補習もなく、部活動がこのKU高校では成り立たなかったので、学校に行ってもすることがなかったからである。新採用の年にはほぼ1カ月間学校に行かず、事務職のおばさんから叱られたことがあった。今ならあり得ない話である。だからといって家で怠けていたというわけではない。長い休みにしか腰を据えて読めない哲学書や古文・漢文、長編小説などを読んで過ごしていた。この期間に大いに読書に励むことが、後の授業につながることは言うまでもない。当時は夏休みには休暇届を出さずに休むことができた。今は夏休みでも定時(大体が8時30分)までに出勤し、定刻(17時)までは勤務しなければならず、もちろん休暇届を出さなければ休むことはできない。

 ここまでで分かるように、KU高校に勤務していた1985年4月~1988年3月の期間は、生徒指導でこそ大変であったが、教員には時間的余裕がまだあった。

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 KU高校が荒れていたことは前述した。KU高校の歌人宮柊二が作詞した校歌には、「KU高校 わが母校 校名に 誇りと誓い 新たなり」という一節があった。生徒はこの校歌が大嫌いだった。生徒は校名に誇りなど全くなく、むしろ自分の通う学校がKU高校であると知られることを嫌い隠していた。ジェームズ三木が脚本を書き、NHKで1988年1月3日に放送されたドラマ「翼をください」は反響を呼び、1990年からは劇団・青年劇場によって舞台公演劇となり1000回を超えるロングラン公演になった。学校差別を題材にしていたが、内容はKU高校にもぴったりと当てはまる。(NHKで放送されたドラマ「翼をください」はネットで見ることができる。)この学校差別の問題は今でも一向に解決されていない。『学校はどちらって聞かないでー「翼をください」の舞台を見た高校生たち』(高文研)という本に、60歳を超えた男性が「舞台を見てたら、あのガキどもが生意気で、全員ぶん殴ってやりたい気分だった。ところが、一幕終わったら、その連中がいとおしくなって、一人ひとり抱きしめてやりたい思いに変わった」という感想を書いてくれたとあった。KU高校にも実に素直で人懐っこい生徒がたくさんいた。(学校差別については別のところで考えてみたい。)

 私は1988年(昭和63年)4月にKU高校からSA高校に転勤した。SA高校には1991年(平成3年)3月まで3年間勤務した。SA高校は地区で2番手の進学校(確か普通科7クラスと家政科1クラスだったと思う)で、部活動も盛んだった。分掌は生徒指導だったが、問題を起こすような生徒はほとんどいなかった。KU高校の時と違い、部活動の顧問の仕事はあったが、まだこの当時はおおらかな時代で、生徒が休日に練習していても、顧問が学校にいないこともあったように思う。私が部活動に熱心でないこともあったが、練習試合もしなかったし、顧問の仕事もさほど負担にはならなかった。

 前述したように、今教頭職は激務になっている。しかしこの私がSA高校に勤務していた頃は、教頭職は実に楽な仕事に見えた。というのはSA高校の教員たちは放課後になると毎日のように職員室で囲碁をやっていたが、その中心にいたのが教頭だったからである。教頭は囲碁好きで、授業が終わり清掃が終わると、真っ先に囲碁を始めた。放課後を誰よりも待ち望んでいたのが教頭だった。(教頭が何時間授業をしていたかは記憶にない。)SA高校では囲碁をするのがブームになっていて、放課後には多くの教員(少なくとも十数にはいた)が囲碁を打っていた。今となっては想像できないことであるが、教頭にも普通の教員にもゆとりがあった。

 夏休みは7月21日から8月31日まであり、1学期の期末テストは3年間とも7月12日が最終日で、その後3日間校内球技大会があった。もちろん校内球技大会が終われば20日の終業式まで授業はなく、実質的には夏休みであった。私が夏休み中どう勤務していたかについてはあまり記憶にないが、KU高と違ってSA高は部活動が盛んだったので学校に行っていたことは間違いない。しかし今なら夏休みの進学補習がある時期に2回3回と登山をしていた記録があるので、当時SA高は夏休みに進学補習は実施されておらず、私は部活動はあっても、かなり自由に夏休みを過ごしていたと思われる。(部活動の顧問は2人だったので、交代で休むことができた。)

 このSA高校の特別なところは、月曜日の授業が5時間だったことである。当時としてもこういう高校は、県内にほとんどなかったのではなかろうか。したがって授業は週32時間(内、HR1時間)だった。

 ここまでをまとめると、1985年(昭和60年)4月から1991年(平成3年)3月までは、高校の教員にはゆとりがあり、まだ教員の仕事はブラックな労働ではなかったと言える。もちろん野球部の顧問(監督や部長)などになろうものなら、夏場は平日でも夜の8時9時まで練習はあるし、休日には練習試合と、当時から完全にブラックな労働だった。部活動はほとんどすべてが時間外労働であることは、今も昔も変わりない。