より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

教職はいつからブラックな労働になったのか(二)  1991.4~1999.3

 ここでは1991年(平成3年)4月~1999年(平成11年)3月の8年間を取り上げる。この8年の間に社会の情勢が大きく変化した。
 まずバブル崩壊(一般的には1991.3~1993.10の期間を指すようである)の後、公務員バッシングが始まる。公務員はバブルの時代にほとんど恩恵を受けることはなかったが、バブルが崩壊し不況が長引いてくると、一般社会では会社が倒産して勤め口がなくなったり、給料が下がったりしているのに、俺たちの払う税金で公務員の生活が保障されているのは不公平だ。公務員は横柄で、その仕事ぶりはお役所仕事で効率が悪いなどと、公務員に厳しい目が向けられるようになる。教員も公務員であるから、だんだんと厳しい視線を意識せざるを得なくなってきた。
 それから週休二日制が開始されたことである。学校では1992年(平成4年)9月から毎月第2土曜日が休みになった。国家公務員はこの年の5月から完全週休二日制(毎週土曜日曜が休み)が実施され、地方公務員も6月7月のころから完全週休二日制になった。学校は1995年(平成7年)4月から月に二回(第2と第4土曜日)が休みになり、完全週休二日制(学校週5日制)が実施されるのは、一般の公務員に10年遅れて2002年(平成14年)4月からである。この休業日でなくなってしまう土曜の授業を、どう補うのかが問題になってくる。 
 もう一つ、これは新潟県の場合であるが、新潟県の大学進学率は低いので(全都道府県中下から2番か3番だったと思う)、それを引き上げるために大学進学に特化した高校・KJ高校が1992年(平成4年)に新設されたことである。KJ高校には学区が取り払われたため全県から入学することができたが、魚沼地域に作られたので、やはり特にその地域にある進学校には大きな影響が出ることになった。KJ高校は夏休みなどを短くしたり、毎日の授業時間を長くしたりするなどして、大学進学の実績を上げたので、地域の進学校は成績上位層の生徒を奪われるようになって、変革を迫られることになっていく。
 この1991.4~1999.3までの8年間は、表面的には高校にそれほど大きな変化はなかったように見えるが、教職の多忙化への道筋ができ上がっていった時期であったと言える。

 私は1991年4月にTO高校に赴任し、1996年3月まで5年間TO高校に勤務した。TO高校は魚沼地域のT市にある、各学年普通科8クラス(赴任した当初3学年は9クラスだったように思う)のその地域の進学校であり、部活動も盛んな高校である。

 この5年間いずれも夏休みは7月21日から8月31日まであった。それは以前と変わりない。夏休みの進学補習もほとんど実施されていない。
 1学期の期末テストは1991~1994年の4年間はそれ以前と同じで7月の第2週に行われ、その後校内球技大会がこの高校では4日間(1993年からは3日間)もあり、生徒はその後に2日間自宅学習(授業がない)で、7月20日が終業式である。しかし1995年になると1学期の期末テストが7月3日~7日(5日〔水曜日〕を休みにして、4日間実施する。このT高校は定期テストを必ず真ん中に休日を挟んで実施していた)に前倒して実施されるようになる。その後の10日(月)~13日(木)は普段通り6限までの授業、14日~19日の5日間は午前授業、そして20日が終業式である。この年から期末テスト後の校内球技大会と自宅学習日(授業がないので生徒は登校しなくてもいい日)はなくなる。
 2学期の期末テストも1学期の期末テストと同じである。1991~1994年の4年間は期末テスト、校内球技大会、2日間の自宅学習日、そして12月24日が終業式である。それが1995年になると期末テスト、その後普通授業の日が1週間、午前授業の日が4日間、そして終業式となり、校内球技大会と2日間の自宅学習日がなくなる。自宅学習日は生徒にとっては登校しなくていい日であるが、終業式前の自宅学習日は教員(特にクラス担任)はなかなか忙しい。クラスの成績一覧表(各教科の成績だけでなく、授業の出欠席も集計したもの)を作成し、学年会、成績査定会議で審議し、通知表を書かなければならない。期末テスト後の校内球技大会・自宅学習日がなくなっても、1995年には終業式前に午前授業の日が4日間あったから、午後にそれらをする時間的余裕があった。今は期末テストの後に午前授業の日はないから、期末テストを前倒して実施し、終業式までの期間を延ばして、採点、成績集計、会議、通知表記入などの時間を作りだしている。細かいことになるが、1995年までは各学期の期末テストを生徒に返却することはほとんどなかったと思う。なぜなら期末テストの後、終業式まで授業がなかったからである。私が高校生の時には、もちろん期末テストが返却されることはなかった。通知表を見て成績が予想していたよりいいと、期末テストは点が取れたのだな、と思ったものである。返却されないものだと思っていたので、何の不都合も感じることはなかった。私は高校生の時、期末テストの後に球技大会があり、そして自宅学習日があることは、とてもいいと思っていた。私はテストに備えて、テストの2週間くらい前から計画を立てて一生懸命勉強し、テストが終了すると球技大会でホッと一息入れ、また気持ちを切り替えて勉強に取り組むことができたからである。一生懸命勉強し、一息入れ、また気合を入れ直して勉強に取り組む。生活にメリハリができ、リズムができた。それが今では期末テスト(中間テストも)のテストの最終日にはテスト終了後に授業をすることまでが普通になっているし、期末テストの後に終業式まで普通授業の日がだらだらと(テストが終わり長期の休みが目の前にあると、どうしても気が緩む)続いていくので、メリハリがなく、生徒も教員も多忙感が解消されず、疲労が蓄積していくことになる。
 期末テストの後に実施されていた校内球技大会は、1991~1992年は1学期末4日・2学期末4日で計8日、1993~1994年は1学期末3日・2学期末3日で計6日だったのが、1995年には2学期の中間テスト後にたった2日間行われるだけになった。

 なぜ1995年になると1・2学期末の日程に大きな変化があったのだろうか。(3学期末には高校の入学試験があるので変化はない。)まず考えられるのが、1995年4月から月一回(第2土曜)だった土曜日の休みが、月二回(第2・第4土曜)に増えたので、休みとなって減った授業の分を補わなければならなかったということである。前述したように学校が月に一回土曜日が休みになったのは1992年の9月からである。その時、高校はその休みとなって減った3時間の授業(土曜日は3時間授業だったから、土曜休みが月一回だと一月に3時間授業が減ることになる)を補うことにした。この時に切り捨てずに補ったことで、1995年に土曜休みが月二回なっても、その分を補う道筋が既にできていた。授業を65分にして対処した高校が多かったように思う。それまでは50分✖6限で1日の授業が300分であることが普通であったが、それを65分✖5限で325分にして補った。(だが65分授業にすると、勤務時間の関係で土曜日は授業を2限しかできなくなる。それまで土曜日の授業は50分✖3限で150分だったが、65分✖2限で130分となり20分短くなる。それに65分授業にすると、1週間ごとにA週、B週として、A週には土曜の1限の授業を、B週には土曜の2限の授業を、月曜から金曜までのどこかに1回入れるなどの工夫が必要になる。)それでも不足したので1・2学期末の日程を変更して授業時間を増やした、と今まで私は考えていたのであるが、計算してみるとどうもそうではないようだ。(私は校内の動きには全く関心がなかったので、どこから65分授業などという考えが出てきたのか、どうして1・2学期末の日程を変えなければならないのかなど、その理由を考えたことがなかった。私が関心があったのは、ただ自分の担当する教科・国語に関することだけである。それ以外はできる限り他の教員に任せて、自分にも大きな影響が出てくることになるのに、いい加減なことにも自分で考える気はなかった。それではいけないと思うこともあったが、時間を奪われることが嫌で、どうしても自分の関心を国語以外に向けることができなかった。)
 計算してみると65分授業にすれば、授業時間がそれまでより減ることはない。一月を4週間として比較する。50分授業の場合は、平日の授業は50分✖6限で300分、土曜日は150分(50分✖3限)である。1週間では300分✖5日に150分を足せばいいから1650分、一月は1650分✖4週で6600分となる。65分の場合は平日の授業は65分✖5限で325分、月に2回ある土曜日は65分✖2限で130分。土曜日が休みの週は325分✖5日で1625分、土曜日がある週は1625分に130分を足せばいいから1755分。一月は1625分✖2週と1755分✖2週を足して6760分となる。50分授業の時は一月の授業時間は6600分、65分授業にすると6760分であるから、65分授業にしただけで授業時間は長くなる。だから月に二回土曜日が休みになって授業時間が減ったので、1・2学期末の日程を変えて授業時間を増やし不足分を補った、ということではないのである。
 ではどういう理由だったのだろう。はっきりしたことは分からないが、どこかから授業時間を長くしろ、という圧力が掛けられたことは確かであろう。夏休み・冬休みに入ってもいないのに、生徒を街で遊ばせて教員は何をしているんだ、KJ高校は授業をしているのにTO高校はどうなっているんだ、などという声が聞こえてきて、それに対処せざるを得なくなったのかもしれないし、県教委からの指導があったのかもしれないが、いずれにしても私はその理由を愚かにも知ろうともしなかった。だが1・2学期末の日程が変わったとはいえ、1995年にはまだ夏休みを短くするようなことはなかった。それが2000年代になると、必ず年間で1単位につき35時間の授業を確保しなければならないということになって、夏休みを短縮したり、学校行事を見直したりして、現在のブラックな状況ができ上がっていく。

 前述した通りTO高校は部活動が盛んで、全国大会に出場する部活がいくつかあり、全国大会で優勝する生徒までいた。そういう部活の顧問になれば大変なことはもちろんであるが、全国大会に出場するほどの部活でなくても顧問はやはり大変である。何度も書くが、部活動はそのほとんどが時間外労働である。この問題を解決しなければ、中高の教員の多忙化を解消することはできない。まずは部活指導を希望制にして、希望しない教員は顧問にならなくてもいいようにするべきである。(部活動指導を希望制にしようという活動が起こっているようであるが、その活動を広げて希望制を実現してほしいものである。)高校で部活動をしている生徒は、自分の競技に相当な知識を持っているし熱心である。そういう生徒を指導するのは、その競技の経験があり知識もあって、熱意のある人でなければできないことである。部活動の指導は、教員だったらやれといって、押し付けてさせるような仕事ではない。それでは部活動をする生徒に対しても失礼である。部活動指導を希望する教員にはしてもらっていいと思うが、相応の手当を支払うべきである。希望制にすると顧問がいなくなって、多くの部活動が活動できなくなるだろう。それはそれでいいのである。そうならなければ国も県もこの部活動の問題に取り組もうとしないのだから。そういう事態になったらやっとどうしたらいいか対策を立てることだろう。

 TO高校ではまだゆとりがあったと思うのは、共通進度・共通テストではなかったからである。このブログの『教えるということ』(大村はま著)に学ぶ(二)で書いたが、共通進度・共通テストは教員から自由を奪い、授業を非常に息苦しいものに変えた。このころには共通進度・共通テストになっていた高校が多かったのではないかと思うが、まだT高校は教員各自が自分が教えたクラスのテストを作成していて、共通テストは実施されてはいなかった。

 私は1996年(平成8年)4月にMA高校に転勤し、1999年(平成11年)3月まで3年間勤務した。MA高校は新潟県の中で最も山奥にある高校と言ってもいいかもしれない。各学年普通科2クラス(全校で6クラス)の小さな高校である。地元の中学を卒業した生徒がほぼ全員入学してくるので、国公立大学に進学する成績上位の生徒から、成績があまり振るわない生徒までがいた。

 夏休みは3年間とも7月21日から8月29日までである。8月31日まででないのは、他校に比べて冬休みが2日ほど長いからである。

 1学期末のテストは3年間とも7月2日から始まっている。4日間のテストの後は6限までの普通授業の日(M高校は50分授業だったと思う)が続き、7月20日の終業式前の3日間は校内球技大会である。午前授業の日はない。この日程に3年間全く変化はない。2学期末も1学期末と同じ日程である。

 TO高校と違っているところは、夏休みに補習が行われていたことである。夏休みには志賀高原のホテルに泊まって勉強する、3泊4日の学習合宿もあった。さらには希望者は学校で有料であったが、予備校のサテライト授業を受けることもできた。成績上位の生徒から下位の生徒までがいる高校なので、どうしても大学進学に的を絞った授業ができないところがあって補習が必要だったこともあるが、転勤した当初からすでに補習を行うのが当然のことになっていて、異論を差しはさむ余地はなかった。MA高校の教員はほとんどが20代30代で、補習を行うことに何の抵抗も感じていないようだった。このころ(1990年代後半)になると、若い教員には生徒の進学のためならできることは何でもするべきだ、しなければならないという考えが定着していたように思う。生徒のためと言われると、教員にはなかなか反論できない心性がある。サテライト授業も若い教員が自主的に運営していた。
 私は定年退職後の2015年(平成27年)に再任用で1年間このMA高校に二度目の勤務をした。サテライト授業こそなくなっていたが、生徒全員に朝学習が課されていたし、毎日放課後には補習が行われていた。野球部の顧問でもあった数学の教員は、放課後にはやりにくいということで朝の7時過ぎから0限補習を行っていた。今ではMA高校のような山奥の高校にまで大学進学のための教育が浸透している。

 MA高校のような小規模の高校は、授業の準備が大変である。国語で説明すると、持ち時間は週に16時間ほどなのはどの高校でも同じであるが、普通の規模の高校なら1学年の週5時間の国語総合を2クラス、3学年の週2時間の現代文を3クラス担当すれば、それで16時間になる。国語総合と現代文の二科目を担当するだけでいいのである。それがMA高校のような小規模校だと、1学年の週5時間の国語総合を1クラス、2学年の週3時間の現代文を1クラスと週3時間の古典を1クラス、3学年の週2時間の現代文を1クラスそれに週3時間の国語表現を1クラスというように、1クラスごとに全部教える科目が違うので授業の準備の追われることになるのである。だから準備のできていない赴任1年目などは、授業の準備だけで青息吐息である。だがこれは小規模校としては仕方のないことでもある。授業をするのが教員の本業なのだから、精一杯のことをやるしかない。しかしその授業にさらに放課後の補習が加わり、部活指導もとなればもうパンク寸前となる。私が再任用の時であったが、新婚の社会科の女性教員が「私、昨日も家で夜中の2時まで勉強(授業の準備)していました」と話してくれたことがある。この若い教員は妊娠中ということもあって、体調を崩してそのまま休職に入った。新潟県の公立高校は普通午後7時で閉まるので、それまでに教員も学校を出なければならない。だから名目上はそれ以上の残業はない。しかしこの女性教員のように学校にいる間に授業の準備ができなければ、家に帰って準備するしかない。本来ならこの家での授業準備も残業のはずだが、表面には出てこない。だから学校にタイムカードを設置したところで、正確に残業時間を調べることなどできない。正確に残業時間を把握するには、教員が正直に申告することを前提として、教員の自己申告で調べるしか方法はない。こういう方法で調査を実施して見れば、教員の残業(時間外労働)はもっと増えることだろう。今の高校は忙しすぎて、学校では授業準備・教材研究を落ち着いてする時間がない。学校にいるときに分掌の仕事を片付け、家で授業準備・教材研究ということになりがちである。(私はそうしていた。)1時間の授業をするためには1時間の準備が必要だなどと言われるが、ちょっと調べものをしただけでも1時間などあっという間に過ぎてしまう。1時間で足りるはずがない。教員が十分に授業の準備ができるように、教員には時間的な余裕が必要である。教員が忙しすぎれば、結局は授業の質が下がり、生徒にしわ寄せがくることになる。

 こうして見てくると、1991.4~1999.3の時期に教職の多忙化が進んだことは確かであるが、その表に現れた変化以上に、教員(特に若い教員)に起こり始めていた意識の変化の方が大きかったのではないだろうか。「生徒のため」と言うなら、「教員のため」と言ってはいけないのか。私はよくそう思ったものである。