より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

再チャレンジ高校

 前回のブログでぜひ読んでほしいと紹介した本・『ルポ 教育困難校』が、「週刊現代」(8月24・31日号)の佐藤優「名著、再び」で紹介されていた。

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 佐藤氏は本の内容を紹介した後で、次のように結んでいる。

 日本の社会を強化するために、教育困難校に人と金をつけて、状況を改善するための具体的な計画を立てて実行することが焦眉の課題だ。

 教育困難校で生徒を支援しようと懸命に頑張っている教員がいる。そんな教員の活動・仕事ぶりを書いたのが、『県立!再チャレンジ高校』(黒川祥子 講談社現代新書)である。ここではこの本の内容を簡単に紹介するが、ぜひこの本を購入するにしろ借りるにしろ、手にしてお読みいただきたい。

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 『県立!再チャレンジ高校』は2018年4月に出版された本で、『ルポ 教育困難校』(2019年7月出版)より前に出版された本である。私は昨年、『県立!再チャレンジ高校』を読んで、教員の奮闘ぶりに感心し、ぜひ多くの人にこの本を読んでほしいと思っていたので、ブログに『ルポ 教育困難校』について書いた後、この本も紹介しなければならないと思い立った。このブログを書くにあたって再読したが、私にとってこの本を読むことは、書かれている教員の奮闘ぶりに感心するだけではなく、自分の中途半端な教員ぶりを反省することでもあり、また教育困難校に勤務していた頃の出来事がありありと思いだされて苦しくなることでもあって、気軽にできることではない。
 「再チャレンジ高校」とは、中学までに持てる力を発揮できなかった生徒に対し、再チャレンジの場を与えるという趣旨の高校で、都や県などが設置した支援するための施策を実施する教育困難校と考えればいいと思う。東京都のエンカレッジスクール、神奈川県のクリエイティブスクールなどがそれに当たると思われる。
 筆者の黒川氏は槙尾高校(仮名)を約4年間にわたり取材して、『県立!再チャレンジ高校』を書いたというが、物語風に書かれていて実に読みやすい。一部を紹介する。

 いま日本中で、槙尾高のような、全日制普通科高校における学力下位校では大変な事態が起きている。高校生から、「普通の」暮らしが消えているのだ。保護・養育されるべき高校生でありながら、親が家を出てしまったために一人暮らしを余儀なくされたり、親がいたとしても放置されていたり、あるいは、親の代わりに幼い弟・妹の世話で身動きが取れなくなっていたり……このような環境で、どうやって「学生の本分」を全うすることができるだろう。学業だけではない。家庭で社会的スキルや対人関係を学ぶ機会を持たない子どもたちが、そのまま社会に出ればどうなるのか。不安定労働の末の行き着く先は生活保護かもしれない。
 困難な境遇で生きざるを得なかった子どもたちを、彼らと接する最前線の高校はどう支え、どう正規労働に就かせ、最終的に納税者としてカウントさせていくのか。高齢化・人口減少が不可避であるこれからの日本において、こうした子どもたちへの対応は、もはや教育問題の範疇を超えた、日本にとっての死活問題でもある。(P6)

 この本にかかれていることは、「普通の」暮らしをしている人には作りごとのように思われるかもしれないが、現実に起こっていることなのである。フィクションではない。私が担任したクラスにも母子家庭で、母親はお金を稼ぐために東京に出ていて、一人で暮らしている生徒がいた。母親はなかなかお金を稼ぐこともままならないようで、この生徒は修学旅行にただ一人参加できなかった。欠席がちで出席日数が不足しそうになったので、家が近くの生徒に声をかけてくれるように頼みはしたが、私は生徒の家に行ってみよう行ってみようと思いながら、結局一度もいかなかった。問題行動(喫煙など)をすれば家庭訪問もするが、欠席気味というだけでは家庭訪問にも行きにくい。授業の合間に行くとしても2時間3時間授業が空いていることなどほとんどないし、放課後も色々と仕事がある。そもそも問題行動を起こしたわけでもないのに、勤務時間中に学校を抜け出して家庭訪問することが許されたかどうか。家庭訪問するとしたら勤務が終わってからか休日になる。進級できたからよかったものの、一度も家庭訪問をしなかった私は実に怠慢な教員だったとしか言いようがない。
 私がまだ新米の教員で担任をしたKU高校のクラスには、養護施設から通っている生徒がいた。施設の職員が来て一度話をしたことがあった。「あなたは生徒がどこから通っていてもいいのか」と言われたが、私に何ができるのか、私にいったい何をしろというのだろう、と思ったものである。ただ学校での彼の様子をよく見て、見守ることしかできなかった。
 私はKU高校とSI高校の2校の教育困難校に勤務した。その2校で担任をしたクラスは、2クラスとも母子家庭や父子家庭のひとり親の家庭が3割ほどあった。現状ではひとり親世帯の2人に1人が相対的貧困状態にあり、その85%が母子世帯であるというから、金銭的に苦しい家庭が多かったはずである。お年玉を親から一度ももらったことのない生徒もいた。

 生徒指導の大原則は、頭髪・服装から入ること。つまり、「見かけ」をまず攻める。化粧にピアス、髪を染めるなんてもってのほか。規則を厳しくして生徒をガシガシ締めて、従わない生徒には学校から出ていってもらう。そうすれば地域の評判がよくなって、中学での評価も高くなり、必然的に「いい子」が入ってくる。これが従来の生徒指導の王道だ。
 だけど厳しい頭髪指導をして、生徒をガンガン締め付けて、一体、何が残る?教員への警戒心と不信感を強めるだけだ。生徒は表面だけ従順になるかもしれないが、もう、教員には心を開かない。殻にこもるだけだ。家に居場所がなくて、小中でも疎外されてきた子を、高校で厳しい頭髪指導をして、最終的に学校という場所から追い出すって?じゃあ、彼らはどうなるの?
 彼らは何も持っていないんだよ。身一つで裸のまま、社会に放り出して、それでわれわれ教員はお役目を果たしましたって?その子は生まれてきてよかったとか、オレの人生もなかなかだなーって一度も思えないまま、一生を終えるかもしれないんだよ。それを、われわれ教員はヨシとするの?絶対に違うだろう! (P61)

 本当にこの通りである。学校から追い出された生徒は、その後どうなるのか。しかし問題の生徒が学校を辞めていくと、ホッとしたことがあったのも確かである。自分の担任しているクラスではなく、授業だけ出ているクラスで生徒と良い関係性を作り上げるのは容易ではない。生徒の家庭環境などは分からないし、授業以外での様子も分からないので、どうしても自分が担当する授業中の行動でしか生徒を見られなくなくなる。授業中に妨害などを繰り返すような生徒であれば、生徒も嫌な思いをしたのだろうが、こちらもさんざん嫌な思いをしたので、もう関わりあわなくてもいいと思うと、退学してこれで縁が切れると思ったこともあった。だが私は教室に入り授業を始めると全く生徒の頭髪や服装には目がいかなかったので、頭髪・服装指導を厳しくすることについては感覚的に受け入れられなかった。毎時間授業を始める前に頭髪・服装を検査することになっても、検査をして生徒ととの間に隔たりを作ることが嫌であり、できれば和やかな雰囲気の中で授業に入りたかったので、検査をしなかった。頭髪や服装などどうでもいい、とにかく授業に取り組んでくれることが私には重要だった。だがKU高校でもSI高校でもやはり頭髪・服装指導に熱心な教員が多く、そういうふりをしなければ頭髪・服装指導もできない「使えない」教員と見なされる。それが嫌なら頭髪・服装指導をするしかなかった。(本当は心の中では頭髪・服装指導など重要なことではないと思っていた教員が多かったのかもしれない。)
 槙尾高校で、生徒を「身一つで裸のまま、社会に放り出して、それでわれわれ教員はお役目を果たしました」とは言えないという考えを、教員が共有できたことは、実に素晴らしいことであると思う。放り出した方が楽であるから、この考えを教員の共有のものとするのはそう容易なことではない。この考えを共有できずには、再チャレンジ高校は成り立たないであろう。

 この本の中に書かれている教員の奮闘ぶりには頭が下がる。皆がよくやっている、立派であると思う。この奮闘する教員をもっともっと支援していかなければならない。よくやっている、感心する、それで済ましてはいけない。
 ぜひ『県立!再チャレンジ高校』と『ルポ 教育困難校』を合わせ読んで、今高校で起こっていることに関心を持ち、支援の声を上げていただきたい。実に教育困難校・再チャレンジ高校を支援する態勢を作り上げていくことが、日本の教育の喫緊の課題である。