より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

コグトレ

 コグトレ(Cognitive Enhancement Training)とは、認知機能強化トレーニングのことである。

f:id:chikaratookamati:20200513110052j:plain 皆さんはご存じだろうか。私は宮口幸治氏(立命館大学産業社会学部教授。精神科医臨床心理士精神科病院医療少年院での勤務を経て2016年より現職)の『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)を読み、そこでコグトレという言葉を初めて知った。『ケーキの切れない非行少年たち』はベストセラーなので、皆さんの中にはすでに読んだ方もいるかもしれないが、私は一読してとても驚き、感心し、この本はこれからの教育(特に小学校低学年からの教育)に大きな指針を与えてくれる本であると思った。

 簡単に内容を紹介してみたい。

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 右の図1-1、図1-2をご覧いただきたい。宮口氏が医療少年院(特に手がかかると言われている発達障害・知的障害をもった非行少年が収容される、少年院版特別支援学校といった位置づけの少年院。窃盗・恐喝、暴行・傷害、強制猥褻、放火、殺人まで、ほぼ全ての犯罪を行った少年たちがいる)で、暴行・傷害事件を起こして入院し、少年院の中でも粗暴行為を何度も起こし、教官の指示にも従わず、保護室に何度も入れられている最も手のかかる少年に、Rey複雑図形の模写という課題、すなわち図1-1の図形を見ながら手元の紙にその図形を写すという課題させたところ、少年が写し取って書いたのが図1-2である。私は図1-2を見て、「何だこれは、こんな簡単なことができないのか。どうなっているんだ」と思った。多くの人はそう思うのではないだろうか。それに対し宮口氏は「このような絵を描いているのが、何人にも怪我を負わせるような凶悪犯罪を行ってきた少年であること、そしてReyの図の見本が図1-2のように歪んで見えているということは、”世の中のことが全て歪んで見えている可能性がある”ということなのです。そして見る力がこれだけ弱いとおそらく聞く力もかなり弱くて、我々大人が言うことが殆ど聞き取れないか、聞き取れても歪んで聞こえている可能性があるのです。」(P19~P21)と書いている。なるほどそうなのか。見方を変えればそうなるが、私には全く思いも掛けない見方であった。
 医療少年院に入っている少年には「・簡単な足し算や引き算ができない ・漢字が読めない ・簡単な図形を写せない ・短い文章すら復唱できない といった少年が大勢い」て、少年たちは「見る力、聞く力、見えないものを想像する力がとても弱く、そのせいで勉強が苦手というだけでなく、話を聞き間違えたり、周囲の状況が読めなくて対人関係で失敗したり、イジメに遭ったりしていたのです。そして、それが非行の原因にもなってい」た。少年たちの多くは「大体、小学校2年生くらいから勉強についていけなくなり、友達から馬鹿にされたり、イジメに遭ったり、先生からは不真面目だと思われたり、家庭内で虐待を受けていたりします。そして学校に行かなくなったり、暴力や万引きなど様々な問題行動を起こしたりし始めます。しかし、小学校では「厄介な子」として扱われるだけで、軽度知的障害や境界知能(明らかな知的障害ではないが状況によっては支援が必要)があったとしても、その障害に気づかれることは殆どありません。中学生になるともう手がつけられません。犯罪によって被害者を作り、逮捕され、少年鑑別所に入って、そこで初めて「障害があったのだ」と気づかれるのです。」(P25)。小学校の低学年の時から、子どもの発するサインを見逃さずに、勉強に対する適切な支援がなされていれば、多くの少年が犯罪を犯さないで済んだかもしれないのである。
 少年たちは勉強が嫌いなのではなく、「(宮口氏)はこれまで、少年院で見る力や聞く力を養うための、頭を使うグループトレーニングを何年も行ってきました。トレーニングは1回2時間ほどかかりますが、予想に反して彼らのほぼ全員が、2時間飽きることなく集中して取り組めたのです。彼らの中には落ち着きがなく、社会でADHD(注意欠陥多動症)と診断された少年たちもいました。私が気を遣って彼らをリラックスさせようと雑談などすると、「先生、時間がなくなるから早くしましょう」と逆に叱られたりすることもありました。外部から見学に来られた先生方に、「まさか2時間もじっと座っていられるなんて信じられない」と言われることもしばしばありました。少年院でのトレーニングの噂を聞いた他の非行少年たちが、「僕は馬鹿には自信があるんです。僕もぜひ仲間に入れてください」と頼んできたこともあります。実は、非行少年たちは学ぶことに飢えていたのです。認められることに飢えていたのです。やり方次第で、非行少年たちでもいくらでも変わる可能性があるのです。」(P29~P30)
 私は教員を長くやってきて、子どもたちは誰でも、勉強をしたいという気持ちを持っている、ということを確信している。以前のブログにもそのことを書いたと思う。人間は誰しも生まれながらにして学習意欲を持っている。その学習意欲を失わせないことが大切である。私は高校の教員をやっていたが、残念ながら力不足の私には高校生に失われた学習意欲を取り戻させることは難しかった。高校生にもなると、教員を敵としか見ない生徒がいる。高校生になるまで、さんざんテストで悪い点をつけられてくれば、教員を敵と見てしまうのもやむを得ない。高校生になる前に何とかならなかったのか、といつも思っていた。小学校の低学年から適切な支援を受けていれば、他の子どもより理解に時間がかかるとしても、学ぶことに対して意欲を失うことはなかっただろう。人にとって何かを学ぶこと、何かを知ることはかけがえのない喜びである。

 「認知機能とは、記憶、知覚、注意、言語理解、判断・推論といったいくつかの要素が含まれた知的機能を指します。人は五感(見る、聞く、触れる、匂う、味わう)を通して外部環境から情報を得ます。そして得られた情報を整理し、それを基に計画を立て、実行し、さまざまな結果を作りだしていく過程で必要な能力が認知機能です。」(P49)。「聞く力が弱ければ、例えば学校で先生が「算数の教科書の38ページをあけて5番の問題をやりなさい」と言ってもその指示が聞き取れず、何とか算数の教科書の38ページを開けたとしても、「5番の問題」までは聞き取れないかもしれません。そこでどうしていいのか分からず周りをキョロキョロしたり、ボーとしたりしていたら、不真面目に見えるかもしれません。」(P52)。認知機能が弱いと勉強についていけなくなる。その認知機能を強化するのがコグトレである。

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 コグトレは、認知機能を構成する5つの要素(記憶、言語理解、注意、知覚、推論・判断)に対する、「覚える」「数える」「写す」「見つける」「想像する」の5つのトレーニングからなっていて、「形さがし」(点々の中から正三角形に配置されているものを探して線で繋ぐ)や「まとめる」(無造作に並べられた☆を5個ずつ囲む)、「間違いさがし」(2枚の絵の違いを見つける)、「鏡映し」(図形を鏡像と水面像に置き換え、正確に写す)など様々なものがあるが、どれもワークシートを利用して手軽にで取り組める。現在では様々な本が出版されているようであるが、宮口幸治氏の『コグトレ みる・きく・想像するための認知機能強化トレーニング』(三輪書店)を見ると概要が分かる。どんどんこの分野の研究が進み、多くの子どもたちが救われることを願ってやまない。

 最後に、この本に長年矯正教育に携わってきた人の言葉として、「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない」(P153)という言葉が載っていたが、この言葉が目指す教育のあり方の全てを物語っているように思う。そのことについては、また改めて考えを述べてみたい。