より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

北国街道・米山三里を歩く

 先月24日と31日に、北国街道の米山三里と呼ばれる道を歩いてきた。米山(標高993m)の山脚が海岸までのびて、断崖となり峠となった難所である。
 なぜ米山三里を歩こうと考えたかというと、私は数年前から芭蕉奥の細道の旅で歩いた新潟県内の道を訪ねているが、米山三里は地図で調べても道がよく分からず、車では通れない道もありそうなので、現地を歩いてみるしかないと思ったからである。
 芭蕉は元禄2年7月5日(新暦1689年8月19日)に、この米山三里を歩いている。その日、芭蕉出雲崎を発ち柏崎の天屋弥惣兵衛に宿泊する予定であったが、面白くないことがあって天屋に泊るのを止めて先に進み、鉢崎の「たわらや」に宿泊した。米山三里は柏崎から鉢崎の間で、鯨波青海川笠島・上輪あたりの道を指すようである

 「曾良旅日記」には5日のことが、次のように書かれている。

五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎、天や弥惣兵衛ヘ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎、宿たわらや六郎兵衛。

 まず青海川あたりの地図をご覧いただきたい。

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 次に示す地図の赤の点線が、私の歩いた道である。➀~⑨の地図中の番号は、写真を撮った場所である。

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 私はホテルSEAPORTから出発した。(写真の左上の番号は地図中の番号と一致していて、その場所で写真を撮ったことを表している。)

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 8号線をほんの数十メートル歩くと、右側に青海川に下る道がある。次の写真はその入り口の様子である。海からの風が強いことが、樹形に現れている。

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  その道を少し下ると、道路の右側に青海川駅に下りていく崖路がある。次の写真はその入り口である。

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 この道は地図には表示されていない。現在は遊歩道になっているが、この崖路が旧北国街道・六割坂のようである。

 同じ場所から、JR青海川駅方面を撮ったのが次の写真。

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 上の写真の中央右に橋が見えるが、同じ場所からその橋をズームして撮ったものが次の写真である。

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 この崖路はその橋のところに下りていく。下りて橋の反対側から撮ったのが次の写真である。

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 ご覧の通り、この橋は壊れていて通行禁止で、橋を歩くことはできなかった。(崖の上に建っている建物は、ホテルSEAPORT。)

 次の写真はJR青海川駅

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 駅の左側の崖を上っていく道がある。この道も地図には表示されていないが、北国街道である。

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 崖路を上りきった所に茶屋があり、「米山三里 北国街道」の標識が立っていた。

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 この茶屋のところを右に折れ、少し歩くと明治天皇青海川行在所の碑が立っている。

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 道を先に進むと、8号線に突き当たる。しばらく8号線を歩いていく。笠島方面、田塚鼻が見えてくる。

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 次に示すのは笠島付近の地図である。

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 笠島地区を拡大したのが次の地図である。地図中の赤い点線、番号が示すことは前と同じ。

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 8号線を進んでいくと、右側に笠島方面に行く道がある。その道を少し下ると、笠島漁港に行く道とJR笠島駅に行く道に分かれる。

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 左の笠島駅に行く道を進む。しばらく崖の中腹の道を進んでいく。20軒か30軒くらいの集落もある。右手には美しい海の景色が広がっている。芭蕉は小雨が降る中を、腹立たしさと悔しい気持ちを抱いて歩き、この美しい景色に目を止めることはなかっただろう。
 JR笠島駅に行く道を下っていくと、お地蔵様が道の傍らに安置されていた。

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 このお地蔵様を少し下った所に、「米山三里 北国街道」の標識が立っていた。

 さらに少し下り、左に曲がる道を進んでいくとJR笠島駅である。

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 笠島駅から数軒先に「キッチン倶楽部もく」というお店があった。金・土・日の営業のようである。水曜日なので開店はしていなかった。

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 道をさらに進んでいくと、右側に網のある上り道になる。

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 その道は左に曲がり勾配は急になる。道を上りきり、三叉路になった所に多聞寺という真言宗のお寺があった。

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 三叉路を右折して、上輪方面に進んでいく。右手には田塚鼻が海に突き出ている。24日の日は田塚鼻を少し過ぎたところで引き返した。

 

 次の⑦の写真は出発点・ホテルSEAPORTに引き返す時に撮ったものである。

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 海からの強い風を防ぐもののようである。私が歩いた日は、暖かい春の陽射しが降り注ぐ、風のない日だったが、のどかで美しい光景なのでシャッターを切った。
 こういう見晴らしのいい、きれいな海の見える場所で育った人は、どういう性格になるのだろう。私の生まれ育った十日町は、見えるのは山ばかりである。いつも目にしている景色が、人の性格に影響を与えることはないのだろうか。ふとそんなことを考えた。
 出発点への帰りには、時間が短縮できるので、8号線の米山大橋を歩くつもりであった。しかし米山大橋の袂まで行ってみると、橋には歩道がないことが分かった。歩くのは危険なので、また青海川に下り、そして上ってホテルSEAPORTに戻った。

 次に示すのは上輪付近の地図である。

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 拡大したものが次である。

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 31日は田塚鼻を過ぎたとことから歩き出した。歩いていると道路の右側に「牛が首 北国街道」の標識が立っていた。矢印は私が歩いてきた、田塚鼻の方向を指している。

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 「牛が首」は、岬全体を田塚鼻と言い、田塚鼻の一部を指す地名ようである。牛が首は層内褶曲(上下の平行な泥岩層に挟まれている層が、曲がっていたり、途切れていたりする地層)で有名。
 この標識が立っていた場所は、「六宜閣」という名のある割烹だったらしい。今は店を閉じ、荒廃していた。

 次の写真は上輪集落に下っていく道路から、上輪集落を見下ろして撮ったものである。

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 この辺りは亀割坂と呼ばれる難所っだったようだ。地図に黒い線で示されている道は跡形もなかったが、その道も亀割坂の一部と考えられる。

 坂道を下っていくと、ぐるりと曲がって海の方に下って行く道と、真直ぐ山の方に向かって行く道とに分かれる。
 海の方に下っていく道に「上輪海水浴場 北国街道」の標識が立っていた。

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 山の方に向かう道には、上輪山 妙泉寺の方向を示す寺標が立っている。

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 妙泉寺は芭蕉が鉢崎で泊った「たわらや」の菩提寺なので、足を伸ばし訪ねることにした。次の写真が妙泉寺である。

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 妙泉寺から引き返し、上輪海水浴場の方に下っていくと、信越本線の高架下トンネルがある。

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 そのトンネルの向こう側に上輪の集落がある。道を下っていくと道は左に曲がり、払川に短い橋が架かるっている。その橋のそばに大きな岩があった。

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 呼び名のありそうな岩である。何時からここにあるのだろう。ずっと昔からここにあるのだろうか。尋ねてみたいものである。

 さらに進んでいくと、道はジグザグの上り道になる。

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 この道は米山トンネル入り口の手前で8号線にぶつかる。

 道順ではないが、帰宅するときに胞姫(よなひめ)神社に立ち寄った。上輪地区にある有名な神社なのでここで紹介する。胞姫神社は8号線の上輪大橋と胞姫橋の中間(橋と橋の間は2、30mしかない)にあり、駐車できるところもある。

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 私がお参りした31日には、参道の脇にも社殿の山側にも、たくさんのタラの木があって、食べごろの芽が出ていた。山菜好きの私は思わず手を出したくなったが、もちろん採ることはしなかった。神社の関係者の皆さんが食べるのだろうか。

 

 次の示すのは上輪、鉢崎(米山)付近の地図である。

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 拡大したものが次である。

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 上輪から上ってきた道は8号線にぶつかるが、少し先に進むと聖ケ鼻に通じる道の入り口が右側にある。

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 しかし、この道は入り口からほぼ廃道の状況である。平成19年(2007年)7月16日に起こった新潟県中越沖地震で、大規模の土砂崩れが発生し、以後復旧されていない。草や小さな木が生えていたが、行ける所まで行き写真を撮った。

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 奥に見えるのが聖ケ鼻である。私は中越沖地震が起こったその時、ちょうど南魚沼市の坂戸山(634m)を登っていた。歩いていたので揺れにほとんど気づかなかったが、山から下りてきた人が「大きな地震があったぞ」、と声をかけていったことを記憶している。
 今はこの道が通れないので、8号線の米山トンネルを通るしかない。米山トンネルを抜けると、右に入る道がある。その道を上り、聖ケ鼻に行く。聖ケ鼻にはきれいに整備された、広いスペースがあり、展望も素晴らしい。

 次の写真は前の写真とは逆に聖ケ鼻から上輪に向かって、土砂崩れの場所を撮ったものである。

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 聖ケ鼻には間宮林蔵樺太を踏査した、松田伝十郎の顕彰碑が立っている。

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 松田伝十郎は鉢崎の出身である。

 次の写真は聖ケ鼻から鉢崎(米山)の集落を撮ったものである。

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 鉢崎へとジグザグの細い道を下っていく。実はこの道は通行止めになっていた。危険ではなさそうに見えたので歩いてみると、ちょっと崩れているところはあったが難なく集落に下りることができた。

 道の下りきったあたりに鉢崎関所跡がある。

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 さらに数十メートル先の道の左側に、「たわらや」跡があった。

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 鉢崎(米山)は明治30年頃の鉄道の開通以来さびれる一方で、さらに大正9年1920年)の大火が追い打ちをかけた。「たわらや」は庄屋で代々宿屋を営んでいた。後裔は西村良作という人で、良作氏は昭和25年頃に70歳くらいで亡くなり、その息子の茂氏は独身で通し、昭和32年6月25日に55歳で亡くなり、「たわらや」は廃絶した。

 次の写真は、「たわらや」跡から写した鉢崎の様子である。

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 寂れてはいるが、とてもすっきりとした清潔さを感じる集落である。

 さらに道を先に進み、JR米山駅まで行って、私の北国街道・米山三里の散策は終了した。

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 24日、31日の2日間の散策で、歩いたのは約3万歩だった。

 雪の残る十日町から柏崎にやって来て、陽光を浴びながら右手に広がる海を眺め、早春の道を歩くのは、この上なく心地よかった。生き返ったような開放感を覚えた。特に笠島と聖ケ鼻からの眺めが印象に残る。
 青海川では道端にイチリンソウカタクリが咲いていた。ところどころに満開の桜の木もあった。妙泉寺は巨大な高速道路の橋の下にあるが、静寂そのもので、桜が満開だった。
 こうして北国街道・米山三里を歩いたからといって、「奥の細道」の理解が深まるわけでもない。そもそも芭蕉は「奥の細道」に、「文月や・・・」、と「荒海や・・・」の二句に他に新潟県のことは何も書かなかった。(市振は越中の国と書いている。)芭蕉がここを歩いたのは、今の暦でいえば8月19日で、季節も全く異なる。なるべく旧北国街道を歩いたつもりであるが、芭蕉が歩いた当時とは道も全くの別ものである。私が歩いた道はすべて舗装されていた。
 それでも芭蕉の姿を想像しながら歩くことは、楽しかったし、嬉しかったし、非常に心地よかった。全くの無駄ではないと思う。何か(何かは分からないが)、記憶に刻まれ心の奥に残るのだろう。
 「たわらや」は跡形もなかった。写真に撮った現在のJR青海川駅は、中越沖地震で被害を受け、翌年建て替えられたもののようだ。中越沖地震は大きな被害を与え、この地の姿を変容させた。
 北国街道には国道8号線が通り(米山大橋の完工は昭和41年)、現在はさらに高速道路が通っている。旧道は地元の人には掛け替えのない重要なものであっても、よそ人は私のようなもの好きがときたま通るだけになった。
 芭蕉奥の細道の旅から三百数十年経ち、全てのものが姿を変えた。しかしまた全てのものが姿を変えながら残っているとも言える。
 旧道を歩くと、不易なるものと流行なるものを感じることができる、そういえるかもしれない。