より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

「授業準備1コマ5分」

 10月1日にさいたま地裁(石垣陽介裁判長)で、埼玉県の公立小学校教員の田中まさお(仮名)さんが、時間外労働に対して残業代が支払われないのは労働基準法違反だとして、県に未払い賃金の支払いと国家賠償を求めた裁判の判決がでた。請求は棄却されたが、裁判長は主文の言い渡しの後で、現在の教育現場について「多くの教員が一定の時間外勤務に従事せざるを得ない状況」にあると指摘し、公立学校の教員に時間外勤務手当を支給しないと定めた給特法は「もはや教育現場の実状に適合していない」と述べた。賠償責任までは認められなかったものの、最大月15時間と短いながらも、労働基準法が定める労働時間を超える残業があったことを認定した。過去の訴訟では労働基準法上の時間外労働はないとされてきたので、一歩前進したとは言える。

 田中さんが提出した残業の内容を、地裁が労働時間か否かに仕分けしたものが次の表である。( AERA 11月29日発行に掲載されたものを転載した。)

f:id:chikaratookamati:20211202085620j:plain

 この表は判決文の別紙によって作成されたものであるが、なんと労働時間として認められる授業準備の時間は、1コマにつき5分だという。わずか5分でどんな準備ができるというのか。しかも教材研究は労働時間として認められていない。これでは、教員は全く勉強せずに出たとこ勝負で授業をしろ、と言っているのと同じである。教員の仕事をどう考えているのだろう。侮辱しているとしか言いようがない。
 そもそも教材研究と授業準備は一体のものであり、教材研究をしないで授業準備ができるはずもない。教材研究をして、ここではこんなプリントを用意しよう、こんな説明が必要だと考えて準備するのである。
 授業準備は労働時間になるが、教材研究は労働時間にはならない理由を、判決文の別紙では次のように説明している。

f:id:chikaratookamati:20211202093045j:plain

 教材研究が労働時間に当たらないのは、校長が教材研究を義務付けていた事情が見受けられないからというのがその理由である。言い換えると、校長が命令していないから教材研究は労働時間にはならないということである。
 しかし教職にある者にとって、教材研究はまさに生命線である。命令されなければしないというものではない。教育公務員特例法の第十九条に「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」とあるように、教員にとって研究は職責を遂行するための義務である。だから第二十条に「教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない。」と、研修を受ける権利を認めているのである。研究を義務付けておきながら、校長が命令しない研究は労働時間には当たらない自発的行為であるとは何とも矛盾している。
 その他にも、作文のペン入れ、提出ドリルの内容確認、ドリル・プリント・小テストの採点など、どう考えても教員の労働時間に当たるものが、労働時間として認められていない。これは労働時間を少なく見なすために、無理やり理屈をこじつけて労働時間から外したとしか考えられず、公正であるべき司法までが、県や国という行政機関に忖度していることは残念としか言いようがない。
 しかし裁判官も人の子である。裁判官に行政に不利な判決を出して、自身の出世を棒に振ってまで良心に従えとはなかなか言えない。15時間でも残業があったことを認めることで、せめてもの良心を示したのだろう。
 教員の過剰労働は給特法に問題がるのではない。給特法に合うように、教員の超過勤務が月8時間ほどでおさまるように、教員の仕事を減らさないこと、教員の数を増やさないことにこそ問題がある。その方策をいつまで経ってもとらないから、給特法を改訂せよということになるのである。
 いつまでも教員に無償の過剰労働を強いることはできない。一クラスの児童生徒の人数削減などを含め、教員の仕事の見直しと教員の増員を早急に進めなければならない。教材研究という教員の生命線を自発的行為とするようであるならば、教員の質が低下することは必然である。