より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

教員不足と最低倍率の教員採用試験

 学校では若い世代の割合が増えて産休・育休の取得者が増加し、病気の休職者も多くなって、代わりの教員が見つからずに欠員が生じている。その実態をつかもうと文科省は初めて全国調査を実施し、結果を先月31日に公表した。それによると昨年(2021)4月の年度当初時点で全国の公立小中高校・特別支援学級では2558人の教員が不足していたことが明らかになった。文科省は、欠員が生じた学校では教頭などの管理職が担任を兼務するなどして対処し、「授業が停滞するといった深刻な事態は把握していない」としているが、広島県呉市では2018年に私立中学校で必要な講師を採用できず、理科と国語で4月分の授業を実施できない事態に陥るなど、学校現場では教員不足による深刻な影響が出ている。
 また文科省は先月31日に、都道府県教育委員会などが2020年度に実施した教員採用試験(2021年度採用)の倍率を公表した。小学校の全国平均は前年度より0.1ポイント低い2.6倍で、3年連続で過去最低の倍率となり、中学校は4.4倍、高校は6.6倍だった。小学校で最も低いのは佐賀県長崎県の1.4倍で、教育県として知られる秋田県でも1.8倍だった。
 教育評論家の尾木直樹氏は2月1日のブログで、「3倍以下になると質の担保は出来ないと言われていますから」と教員の質の低下を危惧し、教職の人気の低下の原因として「過酷な労働現場 行き過ぎた管理主義と上意下達 持ち帰る仕事の多さ」をあげ、「如何に子どもたちが可愛くて共に学ぶのが楽しくても 教職の魅力は薄れます 最早危機の吃水を超えています なんとか緊急に手を打たないと公教育が崩壊してしまいます」と訴えている。
 また前屋毅氏は文科省の調査で教員不足の定義が、「臨時的任用教員等の確保ができず、実際に学校に配置されている教師の数が、各都道府県・指定都市等の教育委員会において学校に配置することとしている教師の数(配当数)を満たしておらず欠員が生じる状態を指す」となっており、臨時的任用教員すなわち非正規教員の不足を教員不足としていることにも問題があると指摘している。非正規教員の労働環境は厳しく、非正規教員でも学級担任を任されるケースも少なくないし、正規教員と同様の過重労働を強いられてもいる。それでいながら正規教員に比べて低賃金で、将来的な保証がない。調査では非正規教員の名簿登録者数が減少していることも教員不足の要因としているが、低賃金で都合よく働かされる非正規教員の希望者が減るのは当然であり、非正規教員の労働環境を根本的に変え、非正規教員を正規教員にしていく施策が必要だ、と前屋氏は述べている。

 まず非正規教員について考えてみたい。非正規教員にはフルタイムで勤める常勤講師と授業だけを受け持ち、授業の時間にだけ勤務する非常勤講師とがある。非常勤講師はハローワークの募集では時給2500円くらいになっている。この時給は授業1コマ、つまり授業1時間で2500円ということである。週に10コマの授業を持っているとすると、1月はだいたい4週間であるから1月の給料は10万円ということになる。新潟県の高校では正規教員の平均持ちコマ数・16コマを超えないように、非常勤講師は15コマを持つのが限度である。(このコマ数については正確でないかもしれないが、ほぼこの通りである。)だから最高でも月15万円で、もちろんここから税金が差し引かれるから、この給料ではとても生活は困難である。時給2500円とすると高いように感じるが、授業は教室に行けばできるというものではない。教えるためには入念に教材研究をし、必要ならプリントを作成して印刷するなどの準備をしなければならない。課題のチェック(課題は自分では出したくないと考えても、学年共通でやることになっていればそれに従わざるを得ない)やテストの作成、採点などもある。それらの時間は無給であるから、非常勤講師の時給は最低賃金にも達していないのが実情である。この賃金で働けというのが間違っている。
 常勤講師の仕事は正規教員と同じである。授業だけでなく分掌も部活指導も受け持つ。給料は正規教員に比べれば少ないが、生活が出来るくらいはもらえるようである。(私は常勤講師をしたことがないので、どのくらいの給料をもらえるのか分からない。)高校の正規教員の平均持ちコマ数は16コマであると前述した。平均するとだいたい16コマであるが、科目の単位数が決まっているので、各教員がぴったり16コマずつ持つことにはできずに、17コマ、18コマ持たなければならない教員が出てくることがある。進んで授業を多く持とうという教員はいない。授業を多く持ちたいという教員は見たことがない。誰もが本心では授業を多く持ちたくないから、持ちコマを決めることに関与できない常勤講師に御鉢が回っていくことになる。正規教員だけの学校が多いので、常勤講師が新年度から配置される場合などにそうなるということである。私も常勤講師に申し訳ないとは思ったが、私ともう一人の正規教員が15コマずつで、常勤講師には17コマ持ってもらったことがある。
 常勤講師は若い人が多い。つまり教員採用試験に合格できずに、教員採用試験に合格するまでの間、常勤講師をする若者が多いということである。考えてみると、ここには根本的矛盾がある。不合格となったということは、学力が足りなかったのか、何が足りなかったかは分からないが、正規教員になるには何かが足りないと判定されたのである。(教員採用試験は2次試験まであり、1次試験は学力試験である。その1次試験に落ちた者も常勤講師として採用される。)それなのに合格した者と全く同様に、教員として授業を担当するのである。常勤講師になる若者は教員としては不十分と判定されたのだから、教員として授業を担当する前に研修などして、合格して正規教員に採用された者と同等の力を付けてから教壇に立たせるべきなのである。それなのに合格して正規教員に採用された者には研修があり、指導教員がつくが、常勤講師には研修もないし、指導教員もつかない。これでは力の足りない常勤講師に授業を放り投げて、させていることになる。無責任というほかはあるまい。
 産休・育休や病休の代替教員としてだけでなく、本来は正規教員が配置されなければならないのに常勤講師が配置される場合も多い。そういうことは絶対に無くして、できるだけ非正規教員を少なくし、さらに非正規教員の待遇を改善しなければならない。教員に長時間労働をさせていることも、非正規教員が多いことも、教育にかけるコストを下げるためである。これではいい教育ができるはずがない。

 尾木直樹氏が言うように、「過酷な労働現場 行き過ぎた管理主義と上意下達 持ち帰る仕事の多さ」が原因で教職の人気が低下して、教員採用試験の倍率が下がり、教員不足が起こっているのだろう。教職がブラックな労働であることがこれほどまでに広く知れ渡っているのに、国はいっこうに抜本的な解決策を立て、実行しようとはしない。これでは教員採用試験の倍率が上がり、教員不足が解消されることは全く望めない。

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 ここに教職の現状を教えてくれる本がある。それは2021年6月に出版された前屋毅氏の『教師をやめる 14人の語りから見える学校のリアル』(学事出版)という本である。前屋氏が教師をやめた14人にその理由を尋ねて書いた本である。そこには「夜の10時を過ぎても、半分くらいの先生たちが残っているんです。『これが普通なのか』と、ビックリしましたね。子育てとかある人は、仕事を持ち帰っていました」「警備システムの関係で夜中の0時に学校全体が施錠されてしまうんですが、その直前まで毎日残業していました。その時間まで残っている人が3~4人いて、『12時だ、急げ~』という調子で帰る毎日でした」という異常な職場(中学校)の実態が語られている。また小学校の教員は「従来の指導の枠には収まらない子どもたちが急速に増えてきています。そういう子たちを40人も担当するなんて、とても無理な状況になっています。問題を抱えているのは、子どもだけでなく保護者も同じです。教員を責めることしかできない保護者が増えています。指導が足りない、教え方が悪い、うちの子の成績が悪いのは担任のせいだ、なんでもかんでも教員の責任にして、病的なくらい攻撃してくる。そんな状況にもかかわらず、仕事はどんどん増えるばかりです。英語だとか道徳だ、防災教育だ、減る仕事はなくて、どんどん積み重ねられていくだけ。それでいて、残業代もつかない」と何ら改善されずに厳しくなる一方の状況を語っている。
 毎日夜の10時まで半数の教員が居残り、夜中の0時まで働いている教員がいる異常な状況を見て、校長は内の学校の教員はよく働いてくれる、としか思わないのだろうか。何とか皆を早く帰宅させてやりたいと考えないのだろうか。異常な長時間労働をなくすために、手を尽くすのが校長の仕事であろう。こんな絶望的な労働環境を改善できない校長は、責任を放棄しているとしか言いようがない。
 校長・教頭といった管理職のパワハラを、教員を辞めた理由に挙げている人もいる。教員は聖人君子ではない、ただの人間であるから、職場(学校)での軋轢はつきものである。どの教員も児童・生徒の学力向上や人間的成長をその目標としているが、目標は一つであっても、その目標を達成するためにどうするか、やり方は一つではない。そのやり方をめぐって、学校のやり方(学校の方針)、自分のやり方を押し付けてくる教員(管理職を含む)がいる。そのことで教員同士がギクシャクした関係となって、弱い立場の教員は押しつぶされ、やめざるをえなくなる。こういう理由で辞める教員は、特に小学校で多いようである。『教師をやめる』には「子どもたちの死んだような目を気にしながらも、学校の方針に合わせようとガチガチにやっている。『なにやっているんだろう』と反省する日が続きました。自分がやりたくないスタイルの授業をやっていることが、すごく嫌でした。そんなことをやっている自分は子どもが好きではないのかもしれない、とまで考えました。だから、辞めることにしたんです」(20代女性小学校教員)、「学校は上からのプレッシャーが強すぎて、やらなければいけないことが決まっている。マニュアル化されていました。そこにモヤッとしたものを感じていたのは事実です」(30代男性小学校教員)という声が載っている。私は高校の教員だったので、小学校の教員と比較すると、かなり自由だったと思われるが、授業の進度を合わせ、共通のテストをさせられることだけでも非常に苦痛だった。私が生徒だった時はもちろんだが、教員になってからも20年近くは生徒全員に同じ教科書はもたせても、どの箇所を教えるかはそのクラスを担当する教員に任されていた。教えるところが違うのであるから、テストが違うのも当然のことである。どこの高校でも進度を合わせテストを共通のものにするようになるのは、20世紀が終わろうとする頃からだろう。生徒の様子を見て、必要だと判断したことを教える自由が、各教員に与えられなければ、教員はやりがいを奪われ、授業も教員も活気を失う。「子どもたちが分かった、できるようになったというのを実際に感じられるのが教員としての『やりがい』だと思っています。その『やりがい』のために教員になったんですから、型にはめた教え方で、『わからない』とか『できない』で放っておくのは、『やりがい』を放棄すると同じでしかありません」(20代男性小学校教員)。この想いは当たり前のことではないだろうか。「最近では話題にもなっている『スタンダード』と呼ばれるものが、その小学校にもありました。たとえば学校に持ってくる鉛筆の数は何本と決められているし、座っているときは手はグーで、ピンと背筋を伸ばしてピタッと足はそろえる、と決まっている」「型って必要な部分もあると思うんですけど、私が学校で経験した型は、あそこまでやるのは、やりすぎだなと感じるものでした。ただ聞くところによると、私の勤務校はまだマシなほうで、もっとすごい学校がたくさんあるようですから、私のように型どおりにやるのが好きではない人間にしてみれば、学校自体が務まらない職場なのかもしれません」(20代男性小学校教員)。
 教職が長時間勤務を強いられるブラックな労働であることは知れ渡っているが、教えることに教員の自由がなくなっていることは、まだそれほど知れ渡っていないように思う。これを誰もが知ることになれば、ますます教員を志す若者は減っていくだろう。根本から教育に対する考えを改める、その時期に来ていることは間違いない。