より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

北国街道 柏崎~鯨波を歩く

 芭蕉は元禄2年7月5日(新暦1689年8月19日)に出雲崎を発ち、柏崎の天屋弥惣兵衛に宿泊する予定であったが、面白くないことがあって天屋に泊るのを止めて先に進み、鉢崎の「たわらや」に宿泊した。

 「曾良旅日記」には5日のことが、次のように書かれている。

五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎、天や弥惣兵衛ヘ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎、宿たわらや六郎兵衛。

 このブログの昨年の4月1日の記事に米山三里を歩いたことを書いたが、今回は椎谷のことに少し触れて、柏崎~鯨波を書いてみたい。
 芭蕉の5日の行程は、出雲崎→石地→椎谷→宮川→荒浜→悪田川(渡船)→柏崎→鯨波→米山三里→鉢崎である。
 椎谷の位置を地図で示す。

 椎谷は出雲崎から柏崎への途中にある。現在国道352は椎谷観音堂のところはトンネルになっている。海沿いの旧道は出雲崎方面からは通行止めになっていて通れないが、柏崎方面からは観音堂まで車で行くことができる。椎谷観音堂では先月38年ぶりの御開帳があった。それについては「ちからのブログ雪国十日町から」の記事をご覧いただきたい。
 次の写真は観音堂付近から柏崎方面を撮ったものである。

 奥に見えるのは米山である。中央の左に見えるのが柏崎刈羽原発であるが、その手前が小高い丘になっている。そこは現在松林になっているが、元禄時代には標高70mを越す大砂丘だった。

 柏崎刈羽原発は地図で分かるように、荒浜に建設されている。

 さてここから、柏崎~鯨波に話を進める。
 私は鯖石川改修記念公園に車を止め、安政橋から歩き始めた。(私の歩いたところを赤い点線で示した。)

 安政橋は名前の通り安政年間に鯖石川(悪田川)に架けられた橋で、芭蕉奥の細道の旅で通ったころは船で渡った。下の写真は現在の安政橋である。(番号は上の地図の場所で写真を撮ったことを表す。)

 その橋のたもとに石碑が立っている。

 これは柏崎の民謡、盆踊り唄の「三階節」の一節である。荒浜は前記の通り柏崎刈羽原発の建設さているところである。荒砂も恐らくその辺りを指すものと思われる。椎谷から柏崎までは相当な悪路だったようである。
 次の➁の写真は橋を渡ったところで撮ったものである。

 今は椎谷から柏崎まで快適な国道352になっていて、昔の苦労は想像できなくなっている。
 安政橋からの続きは、次の地図の通りである。

 安政橋から真っすぐに南に下り、東本町の交差点で左折する。すると右側に閻魔堂ある。現在の建物は1896年に、柏崎の名棟梁・四代目篠田宗吉が建てたものという。

 旧北国街道は今も柏崎の中心になっている。次の写真はその通りを撮ったものである。

 通りはきれいだが、人通りはあまりない。
 次は石井神社である。

 石井神社の西隣に天屋跡の標識がある。

 芭蕉の宿泊を断った天屋弥惣兵衛は、市川家8代目市川弥惣兵衛(大庄屋、元禄10年に43歳で歿)。市川家19代与一郎の父は旅館をしていたが、明治末十年間に2回の大火に合い旅館を廃業。与一郎は北海道小樽にわたり昭和20年に歿。今日この名家も全く柏崎から消えている。
 次の写真は立地蔵である。

 立地蔵と呼ばれているが、向かって左に日光菩薩、右に月光菩薩を脇侍とする薬師三尊像である。以前は北国街道の道の真ん中に立っていたが、明治11年(1896年)の明治天皇北陸御巡幸の際に現在の地に遷座された。
 次はねまり地蔵である。

 ねまり地蔵とは延命地蔵菩薩のことで、古くは北国街道の道の真ん中に立っていたが、明治天皇北陸御巡幸の際に近くの桜屋(元柏崎週報社)の庭に移され、明治33年(1900年)に現在の地に遷座された。芭蕉は立地蔵、ねまり地蔵を見ているのだろうか。
 ねまり地蔵の近くに次の説明看板があった。

 私が歩いてきたメイン通りの両脇には、昔の名前を残す小路があるようだ。
 次は八坂神社である。全国の八坂神社は、全て京都市東山祇園町の八坂神社を本社とし、各地に勧請したものらしい。

 現在は八坂神社から鵜川に橋が架かっているが、ここには元禄の頃は橋がなかったようである。八坂神社から左折する。

 八坂神社から少し下ると鵜川橋がある。(国道8にも鵜川橋があるようだが、その橋ではない。)

 橋を渡り少し上ると、柏崎陣屋、県庁跡がある。

 陣屋には明治になると柏崎県庁が置かれたが、柏崎県は明治6年6月に新潟県に統合された。
 次は良寛の弟子・貞心尼が剃髪した寺の跡。

 説明看板は相当設置されていて、ここにも説明看板が設置されてはいるが、ご覧のように読めないところもある。看板が設置されていても読めなくては役に立たない。定期的に新しくしてほしいものである。
 次は番神堂である。

 番神堂のすぐ北側下に突き出た番神岬は、佐渡配流を赦された日蓮上人が、佐渡を出て寺泊へ向かう途中暴風雨に遭い、流されて着岸したところ。
 信越本線鯨波駅の横の道を歩く。

 トンネルを通って線路の反対側の道に行く。しばらく進むと道は国道8と合流する。
 次の写真は合流する手前から、米山方面を撮ったものである。

 この先は米山三里に続いていく。続きは昨年の4月1日の記事をご覧いただきたい。

 私はこの記事を書くにあたり、3回柏崎を歩いた。1回目は安政橋から八坂神社まで。2回目は友人と二人で、車を1台は鯖石川改修記念公園に、もう1台を港公園に止めて安政橋から鯨波駅まで。3回目は椎谷観音堂の御開帳に行った後、御野立公園(鯨波駅の近く)から国道8との合流地点まで歩いた。一人で車で行って、今回紹介した安政橋から国道8との合流地点まで歩くとなると、往復しなければならないから、相当な距離になる。1日では大変である。
 天屋跡の標識は民家の駐車スペースにあり、2回目に訪れた時には、ゴールデンウィーク中だったこともあり、若いご主人がバーベキューの用意をしていた。時が流れ、街の姿は変わっても、歴史ある街を歩くことは実に楽しい。現在の街並みと芭蕉曾良の姿をオーバーラップして歩くと、感銘は一層深まる。気持ちの通じ合う友人と二人で歩くと、さらに楽しい。リュックを背負い、地図を手に持って歩くオジサンの姿は、何をしているのかと不思議に見えるかもしれないが、来年は上越の方を歩いてみたいと思う。