より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

「無名抄」の数寄者

 「無名抄」(久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)を読んだ。私には「無名抄」といえば、「方丈記」の作者・鴨長明の歌論書(和歌に関する理論および評論の書)というくらいの知識しかなかった。しかし読んでみると、「歌論的部分と肩のこらない随想的乃至は説話的部分とがないまぜになっている作品」「歌論書というよりはむしろ和歌随筆または歌話とでも呼ぶほうがふさわしいとすら思われる」と訳注を書いた久保田淳氏がいう通りの作品だった。
 私が特に面白いと思ったのは、数寄者(風雅なこと、とくに和歌を好む人)たちのエピソードである。16段「ますほのすすき」にはこう書かれている。

 雨の降りける日、ある人のもとに思ふどちさし集まりて、古きことなど語り出でたりけるついでに、「ますほのすすきといふは、いかなるすすきぞ」など言ひしろふほどに、ある老人のいはく、「渡辺といふ所にこそ、このことを知りたる聖はありと聞き侍りしか」と、ほのぼの言ひ出でたりけり。
 登蓮法師その中にありて、このことを聞きて、言葉少なになりて、また問ふこともなく、主に、「蓑・笠しばし貸し給へ」と言ひければ、あやしと思ひながら取り出でたりけり。物語りをも聞きさして、蓑うち着、藁沓さし履きて、急ぎ出でけるを、人々あやしがりて、そのゆゑを問ふ。「渡辺へまかるなり。年ごろいぶかしく思ひ給へしことを知れる人ありと聞きて、いかでか尋ねにまからざらむ」と言ふ。驚きながら、「さるにても雨やめて出で給へ」と諫めけれど、「いで、はかなきことをものたまふかな。命はわれも人も、雨の晴れ間など待つべきことかは。何事も今静かに」とばかり言ひ捨てて、往にけり。いみじかりける数寄者なりかし。さて、本意のごとく尋ね逢ひて、問ひ聞きて、いみじう秘蔵しけり。

 「ますほのすすき」の他に、「まそをのすすき」、「まそうのすすき」というすすきもあって、登蓮法師はその違いがずっと気になっていたのだろう。知っている人がいると聞いたら、雨が降っていようと、居ても立ってもいられなくなってすぐに訊きに出かけていく。登蓮法師の和歌に対する執着は常軌を逸しているようにもみえるが、私には感動的である。
 鴨長明自身ももちろん数寄者で、18段「関の清水」では、「逢坂の関の清水といふは、走り井と同じ水ぞと、なべて人知り侍るめり。しかにはあらず。清水は別の所にあり。今は水もなければ、そことも知れる人だになし。三井寺に円実房の阿闍梨といふ老僧ただ一人、その所を知れり。かかれど、さる跡や知りたると、尋ぬる人もなし。『われ死なむ後は、知る人もなくてやみぬべきこと』と、人に会ひて語りける」と伝え聞いた長明は三井寺に出かけ、阿闍梨から昔の「関の清水」の場所を教えてもらっている。

 百人一首「思ひわびさてもいのちはあるものを憂きにたへぬは涙なりけり」の作者・道因の和歌に対する執着・志は特に凄まじい。63段「道因歌に志深きこと」には、「七、八十になるまで、「秀歌詠ませ給へ」と祈らむため、徒歩より住吉へ月詣でしたる」とあり、また「九十ばかりになりては、耳などもおぼろになりけるにや、会の時はことさらに講師の座のきはに分け寄りて、脇元につぶと添ひゐて、みづはさせる姿に耳をかたぶけつつ、他事なく聞きける」とある。九十歳なって耳が遠くなっても、道因は歌会に出て講師(歌会で和歌を読み上げて披露する役)の傍により、一心に耳を傾ける。その道因の志の深さに感動して、「千載集撰ばれ侍りしことは、かの入道失せてのちのことなり。されどなきあとにも、さしも道に心ざし深かりし者なりとて、優して十八首を入れられたりけるに、夢の中に来たりて、涙を落としつつよろこびいふと見給ひたりければ、ことにあはれがりて、今二首を加へて、二十首になされたりける」というように、俊成は千載和歌集に道因の歌を20首載せている。道因はあの世でも歌を詠んでいるのだろう。死んだ後でも夢の中に姿を現す。道因の和歌への志は鬼気迫るものがある。
 800年前の数寄者も、現在の数寄者も、その心根は全く変わっていない。