より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

給特法の抜本的な見直し

 現役高校教員や大学教授などでつくる有志の会が、3月16日に給特法の抜本的な改善を求める80,345筆のネット署名と要望書を文部科学省に提出した。給特法により時間外勤務を命じることができるのは、(1)生徒の実習、(2)学校行事、(3)職員会議、(4)災害など緊急事態、の「超勤4項目」に限られている。そのため「超勤4項目」以外の残業は教員の自主的なものとして残業代金が支払われない。
 高校の教員は皆が部活動の顧問をさせられる。土日の練習はもちろん、土日に生徒を大会に引率しても、お金は出ないし、代休もない。休日の大会引率は「超勤4項目」に入っていないから命令はできない。それなら引率を拒否できるかといえば、顧問である教員が引率をしなければ生徒は大会に出られなくなるから、引率を拒否できない。いやであっても引率するしかないが、引率すればそれは命令ではなく自主的にしたことになる。全く矛盾している。こういうしたくなくても拒否できないことを「したくなければしなければいい」と臆面も無く言いきれることが、管理職(校長、教頭)をめざす教員には求められる。矛盾を矛盾ではないと恥じることもなく言いきれるかどうかが、管理職になるための踏み絵になっている。だから現状では思考を停止した教員しか管理職になれない。まともな教員は管理職になれないし、なる気もしないのである。こうして管理職になるのだから、管理職はもともと教員の超過勤務などに関心がなく、超過勤務をどんどんして働いてくれる教員が彼らには都合のいい教員である。こう考えれば管理職も県教委も、教員の超過勤務を積極的に減らそうなどとするわけがないと理解できる。
 朝日新聞によると、自民党は(1)給特法を廃止し残業代を支給する、(2)教職調整額を引き上げる、(3)教職調整額を上げて役職手当をつける、の3案を検討しているというが、(2)、(3)全く解決にならない。(1)の「給特法を廃止し残業代を支給する」しかないが、それだけで全て解決するわけではない。教員を増やし、教員の業務を減らすことしか、根本的な解決策はない。
 これまで中央教育審議会とか教育再生実行会議とか、国の機関は、教員の仕事を増やすことしか提案してこなかった。現場は窒息しそうなのに、それでもこれでもかこれでもかと仕事を増やす。全く現場を見ていない。もうこういう政府に都合のいい人間だけを集めて作る審議会とか何々会議とかいうものは必要ない。害悪である。現場を熟知している教員で、しかも現状に批判的な考えを持つ教員を三分の二以上は入れた組織を作り、学校教育をどうしたらいいか考えていくべきである。

 前述したように、給特法には思考を停止した教員しか管理職になろうとしない状況を作り出しているという、悪影響もある。過労死ラインを超える残業があって、しかも残業代金が支払われず、自分のしたいような授業もさせてもらえず、管理職になるには思考停止を強制されるようでは、教職を志望する学生が減っていくのは当たり前である。このままで、落ちるところまで落ちていくしかないのだろうか。

高校の現状-新潟県と東京都

 『教師の仕事がブラック化する本当の理由』(喜入克 草思社)を読んだ。ブラック化する理由についてはなるほどと思ったが、そのことについてはここでは書かない。

 私がこの本を読んで一番に感じたことは、新潟県と東京都の高校の違いである。
 まず生徒の違いを述べる。

 下駄箱で上履きに履き替えずに、土足のまま校内に入ってきた生徒に対して、教師が「ダメじゃないか!」「上履きを履きなさい!」と大声で注意をすれば、教師はその生徒とトラブルになってしまうことがある。
 その生徒にしてみれば、「土足に気づかなかった自分が悪い」のは認めるが、それとは別に、大声で叱られることに「傷ついた」からである。子どもは、「まずは、その先生の言い方について謝ってください」と要求してくる。そして、その要求に教師が応えなければ、指導が始まらない。
 じつは、このようなことは、学校の中では、あちこちで起こっている。
チャイムが鳴っても教室に入らない生徒を注意するとき、授業中におしゃべりをやめない生徒を怒るとき、掃除をさぼった生徒を問いただすとき、同じように「先生のその言い方に傷つきました」という生徒がたくさんいる。(P25~P26)

 私は幸いにも、現役の教員の時に「傷つきました。謝ってください」などと言われたことはなかった。そう言われたら、実に指導しにくくなるだろう。自分で怒られることをしておきながら、まず先に教員に謝らせ、その後ですみませんでしたと形だけの謝罪をして、心の中ではざまぁみろと教員を嘲笑っているのだろう。とても腹立たしいことである。こんなことが全国に広がったら大変である。教員は毅然とした態度を取るべきであり、保護者からクレームがきた場合には、校長も怒られることをしたお子さんが悪いときっぱりと言うべきである。今では新潟県の高校でもこんなことが起こっているのだろうか。こんなたちの悪いことがどこから、どうして広がったのだろう。不愉快極まりない。

 また東京都の高校はこんなことになっているようだ。

 教材作成は非常に大切なものである。かつては、自分のパソコンやUSBメモリを用いて、学校でも、自宅でも、出張先でも、自由に教材を作成し、その教材を使用することができた。
 ところが、今では、個人パソコンの使用やUSBでのデータの持ち運びが禁止され、学校用のパソコンが用意されるようになった。しかし、東京都の場合、これがお粗末すぎて使い物にならない。
 例えば、国語の教師が、古文の題材となる絵巻物をインターネットで検索して、印刷する。あるいは、生物の教師が、細胞の絵図を検索して印刷する。こうしたごく基本的な操作が、学校用パソコンでは、ふつうのパソコンの数倍の時間がかかる。
 これは、学校外の一般の人々には、とても理解しがたいブラックな世界である。
 学校用パソコンで困るのは、インターネットで検索したものをすぐには保存できなことだ。
 インターネットのデータ保存のためには、東京都の場合、コンピュータウイルスなどの被害を防ぐための「無外化システム」を通さなければならない。このシステムを通すのに、非常に煩雑な手間暇がかかる。

 しかも、階層が「教諭」である教師は、この「無害化システム」を通すために、「主任教諭」以上の教師に承認をもらわなければならない。こうした作業は、「主任教諭」以上の教師の仕事をいったん中断させてしまうので、教諭の側は承認を気軽には言い出せない。
 学校用パソコンの使いづらさは、教材作成だけに限らない。例えば、教科書会社が出しているCD‐ROMを利用する、漢字検定のインターネット申し込みをするなども、「無害化システム」を通さなければならず、「教諭」は「主任教諭」以上の者に許可を得なければならない。(P134~P136)

 新潟県は導入していないが、東京都の場合、若手教師を「教諭」、中堅を「主任教諭」、ベテランを「主幹教諭」とする階層化が導入されている。そのことも驚きであるが、セキュリティーを重視するあまり、パソコンの使い勝手が悪くてはスピーディーに仕事ができない。ただでさえ仕事が多いのに、お話しにならない。成績や要録などごく限られたものだけは厳重に管理し、その他のものはもっと自由にするべきである。私は成績には学校のパソコンを使うことにして、テスト問題や教材は自分で作成した外字などを使うこともあるので、個人(自分)のパソコンで作成して、自宅のプリンターで印刷していた。持ち運びに注意して、紛失しなければいいだけのことである。USBなどを紛失した場合でも、個人の情報が入っていなければ特に問題も起きないだろう。教員が仕事をやりやすいことを一番に考えるべきである。

 また東京都ではこんなこともしているという。

 今の教師は、夏休みに休むときは年休(年次有給休暇)や夏季休暇をとっている。ところが、休暇期間中にプライベートな国内旅行をするのにも、管理職から「私事旅行届け」を出せと言われる。
 本来は、休暇をどう使うかは教師の自由であり、管理職に干渉される謂れはない。
 ところが、管理職は、世間の人々が、「教師はどうせ夏休みは勝手に遊んでいるのだろう」という目で見ているから、これらの届け出が必要であると言う。つまり、夏休みに勤務していない教師たちについて、「管理職がその動向を把握して、休暇の許可を与えています」「勝手に遊ばせていません」と世間の人々に説明する必要があるというのだ。(P150)

 もし「〇〇先生は今日はいないのですか」と学校に電話がかかってきたら、休暇を取っていますと言えばいいだけのことである。全くばかげている。教師は全員「私事旅行届け」の提出を拒否するべきである。新潟県でも夏休み中の動静表を提出させられたが、「私事旅行届け」など出せとは言われなかった。
 東京都の教員に対する締め付けは、想像以上と言ってもいい。こんな馬鹿げたことが全国に広がらなければいいのだが。こんなことをしていれば教職が魅力的でなくなり、ますます教員を志す学生が減っていくことだろう。

 高校の教員は各都道府県の公務員であるが、もっと情報交換を密にして、全国の教員の横のつながりを強化しなければならない。例えば「傷ついたので、先に謝ってください」などという生徒の言い分がまかり通るなら、もう教員は指導ができなくなる。そういう問題が先行して起こっている東京都で、芽を摘んでしまわなければならない。それには生徒や保護者のクレームに対する、東京都の校長・教員の毅然とした対応が重要である。そこで食い止めなければ全国に波及しかねない。東京都の校長・教員は自分たちの対応が全国の教員に影響することを自覚して行動しなければならない。
 ネット上に全国の高校の教員が情報を共有する場を設けてはどうだろう。「私事旅行届け」の提出が求められているか、といった質問に、各都道府県の教員が回答するのである。
 私は60歳で定年退職し、その後1年間、再任用で教員を続けた。私は65歳まで再任用で働けるとばかり思っていたが、11月になって突然、「翌年は再任用はありません。再任用は1年限りです」と言われた。びっくり仰天である。だがもうその時期になってはどうすることもできなかった。新潟県教委は定年退職する時に何もそのことを教員に知らせなかった。私だけではなく、ほとんどの再任用で働いていた教員が騙された、と思ったことだろう。これは後で知ったことであるが、私の高校時代の同級生は埼玉県で高校の教員をしていたが、埼玉県では再任用は65歳まで認められていた。同じ高校の教員でありながら、こんなに重要なことに対する対応が、都道府県で違っていていいのだろうか。私は実に腹立たしかった。

 全国の高校の教員は団結して、間違っていることには異議を申し立てよう。

漢字の字体について

 漢字の字体(文字の骨組)は「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の第1章常用漢字表「(付)字体についての解説」の考え方で「同じ文字として様々に肉付けされた数多い個別の文字の形状それぞれから抽出される共通した特徴であり、文字の具体的な形状を背後で支えている抽象的な概念」と説明されている。私はこのブログ(より良き教育を求めて)の記事「漢字の字体と字形」(2021年9月22日)で この字体(文字の骨組み)という考え方によって、字形と字体とを区別することができるようになって、漢字の正誤を説明することが格段に容易になり、しかも分かりやすい説明ができるようになった と書いた。
 指針は字形(手書き文字、印刷文字を問わず、具体的に出現した個々の文字の形状)の違いが字体の違いにまで及ばない限り、誤りであると判定することはできない、という考えを明示しているので、私がブログに書いた通り、確かに「それは字形の違いであって、字体の違いではないから、その字は正しい」とか、「その字は字体が違っているから、誤りである」と言って容易に説明できる。しかし字体が抽象的な概念であるために、その筆写(手書き)の漢字の字形が字体の違いに当たるのか、それとも単なる字形の違いであるのか、その判断が採点する人によって違ってしまう。
 こう言っても分かりにくいと思うので、具体的に示したい。

 左のJ、Kの「様」は、日本漢字学会が2021年3月~4月に実施した「漢字の書き方の指導についてのアンケート」で、黒い線のように「様」を書いたら、どう採点するかという質問に使われたものである。(このアンケートについては、私のこのブログの記事「漢字の正しい採点を広めるために必要なこと」(2022年4月12日)をご覧いただきたい。)Jの「様」は9.2%の教員が正答(〇)にすると答えているし、Kの「様」は21.5%の教員が正答にすると答えている。
 私ならJ,Kとも字体の違いと捉えて誤答(✖)にする。要するに「字体が違っているから✖」と即答する。しかしこのJ、Kを〇にする教員がいるということは、その教員は字体の違いと捉えずに、字形の違いと捉えているということになる。このように同じ手書きの漢字を見ても、その漢字を字体の違いと見るか、字形の違いと見るか、教員によって判断が分かれてしまう。私は この字体(文字の骨組み)という考え方によって、字形と字体とを区別することができるようになって、漢字の正誤を説明することが格段に容易になり、しかも分かりやすい説明ができるようになった と書いたけれど、いまだに教員の間に字体についての共通認識が形成されていないので、そうとも言えなかったのである。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」を読めば、例えば「木」(き、きへん)の縦画をハネて書いても誤りではないという共通認識は形成できる。(嘆かわしいことに教員なら誰しも熟読して理解しておかなければならない指針を読んでいない教員が実に多く、こんな「木」の縦画のハネについてさえ教員間に共通認識が完全には形成されていないのが現状である。)それは「木」が指針の第2章明朝体と手書き(筆写)の楷書との関係4手書き(筆写)の楷書では、いろいろな書き方があるもの(5)はねるか、とめるかに関する例ア縦画の終筆をはねて書くことも、とめて書くこともあるものに例示されているからである。しかしJやKの「様」については指針に例示されていない。
 だがKの「様」については、指針の第2章・3明朝体に特徴的な表現の仕方があるもの(2)点画の組合せ方に関する例に、次のように挙げられている。

 (2)点画の組合せ方に関する例は、明朝体の字形と手書きの楷書の字形との違いを例示したものであるが、構成要素の例に「」と「」が挙げられ、◇上記を含め、同様に考えることができる漢字の例に「」が例示されている。ここから指針でも、「水」と「氺」とを違う字体と捉えていると推測することができる。「水」と「氺」を構成要素に持つ漢字は例示されているように数多くあって、「水」と「氺」を同じように書いてもいいとすると、「水(みず)」を「氺」と書いてもいいことになり、「泉」の下部を「氺」と書いてもいいことになるなど様々な漢字に影響してくる。Kの「様」を字形の違いと捉えて、正答(〇)とすることはできない。Kの「様」は誤答(✖)にしなければならない。
 Jの「様」については、このブログの「漢字の正しい採点を広めるために必要なこと」にも書いたが、Jのように「様」を書くと画数が違ってくるし、「果」を「田」と「木」と書いてもいいということになり、「棄」の真ん中を1本の縦画として書いてもいいということになってしまう。これを単なる字形の違いとすることはとてもできない。字体の違いと捉えなければならないから、当然誤答(✖)である。
 指針は指針の見方及び使い方に「常用漢字表では画数や筆順を定めていないが、説明において、一般に広く用いられている画数や筆順に従い、「〇画目」といった言い方等を便宜的に用いる場合がある」と述べているように、画数のことはほんの数個所でしか触れていない。その内の一個所だけを次に示す。
 指針の第2章3(1)に次のように書かれている。

 「収」の左側部分は2画で、「叫」と「糾」の右側部分は3画であると説明している。

それなのに指針の「字形比較表」には右のような手書き文字の字形が示されていて、一番右側に示されている「叫」の右側部分は3画ではなく、明らかに2画で書かれている。もともと「収」の左側部分と「叫」「糾」の右側部分は字源的には同じで、しかも旧字体では「収」の左側部分も「叫」「糾」の右側部分も同じ形で2画である。それが当用漢字字体表(昭和24年)から別の形になり、画数も違うようになってしまった。同じ2画の形にするべきであったのに、とんでもない改悪である。
 私は基本的にはJやKの「様」のように画数が変わってしまう字は、字体の違いと捉えて誤答(✖)にする。しかし、「収」「叫」「糾」のように例外もある。その例外については、丸山力のホームページ「漢字の採点基準」・正しく採点するために3をご覧いただきたい。

 どんな文字を書いたら字体の違いになるのか、その共通認識ができていない限り、どの教員が採点しても同じ採点結果になるということにはならない。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」でほぼ共通認識の基盤は示されたが、指針には抜け落ちているところがある。字体の違いと判断するにはどこがポイントになるのか、その共通認識を形成するために書いたのが、私(丸山力)のホームページ「漢字の採点基準」である。是非ご覧いただきたい。
 教員の間に共通認識を形成しなければ、いつまでたっても教員によって採点がばらばらになって、とんでもない採点をする教員がなくなることはない。字体についての明確な基準を作り、それを共通認識として教員全員が共有しなければならない。