より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

未だに続くめちゃくちゃな漢字教育(2)

 7月5日に出版された「AERA」(朝日新聞出版)に、「厳しい採点には家庭でフォロー」という記事が載っていた。(ネットでも紹介されている。)その記事の初めの部分を紹介する。

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 「小学校のテスト、採点が厳しすぎじゃない?」
 保護者の間で毎年のように繰り広げられるこんな会話。特に、入学したての小学校1年生の保護者にとっては、点数がつけられたテストを受け取るのは初めてという家庭も。担任の厳しい採点に驚く親も多い。
「漢字のテストはとめ、はね、はらいができていないと全て✖。そこまで厳しい必要ってあります?」
 ネット上にはこのとめ、はね、はらいの細かなミスで「0点をもらった」という家庭もあった。こうした厳しい採点は漢字のテストに限られたことではない。保護者が理解に苦しむのが他教科での採点だ。低学年の子をもつある保護者は言う。
 「『正しい絵に〇をつけましょう』みたいな問題がありますよね。あれの〇がひしゃげてゼロに見えるというので✖にされていました。選んだ絵は合っているのにです。これでは子どものやる気が無くなりそうで心配です」
 容赦なく✖になるテスト。子どもの気持ちを萎えさせない方法はあるのだろうか。
 実は漢字の表記については数年前に物議を醸した一件があった。手書きの文字と印刷文字との違いが理解されにくくなったとして、文化庁が2016年に「常用漢字表の字体・字形に関する指針について」という文書を出したのだ。

大人は曖昧表記OK

 例えば、令和の「令」の字などを手書きで書く際、人によって若干表記のゆれがあるが、銀行などに提出する書類を書く際には、明朝体など印刷される字形通りに書くよう指示されるケースがあった。
 文化庁では手書き文字と印刷文字の表し方には習慣の違いがあることを考慮し、細部に違いがあっても字体の枠組みから外れていなければ、その字として認めるという方針だった。
 具体的には、「木」という漢字の場合、2画目の縦棒の最後がたとえ少しはねていようと、「木」という字の形を崩してはいないため、「木」として認めるというのだ。
 しかし、小学校では2画目はとめで習うため、もしもはねてしまえば✖になる。当時、学校での指導との関連性を問われた文化庁は「これまでの学校における漢字指導の考え方が変更されるわけではありません」とし、「教科書体を標準として指導を行うことを求めていく」と回答した。
 つまり子どもについては別問題で、以前と変わらず学習指導要領に示される「学年別漢字配当表」を標準として指導するというのだ。基本の型を知らずに我流を通すのはただの「形無し」。確かに、基本を押さえることの大切さも分かる。

褒めてやる気をアップ

 長年、塾などで幼児から低学年の子どもの教育に携わる子育てアドバイザーの中山淳子さんは「学校で✖をもらった時には家庭でのフォローが大切です」と話す。
 「学年が上がるにつれて学習内容も増えるので、教員がここまで丁寧に教えられるのは低学年のうちくらいです。その後に迎える中学受験や大学受験でも、厳しく採点されるので、低学年のうちにしっかりと基本を身につけておくのは大事なことだと思います」(以下省略。この後には子どものやる気を無くさないための、中山さんの適切なアドバイスが掲載されている。)

 文化庁は2016年(平成28年)2月29日に「常用漢字表の字体・字形に関する指針」を出し、その後、「指針」は4月30日には三省堂から236ページもある本として出版された。AERAの記事では「物議を醸した」と記述されているが、「指針」に対して漢字の研究者は反対するはずもないが、それまでとめ、はねなどにこだわってきた教員たちからの反発の声も聞かれなかった。ただし子どもを持つ親などからは戸惑いや反対意見が出された。「指針」はもっと明確な判断を示して欲しいところが若干あるものの、内容的には画期的で、妥当な考えを明示した素晴らしいものであり、とめ、はねなどにこだわって教えてきた無知な教員などが反対意見を出せるものではない。
 漢字研究で著名な阿辻哲次氏は『漢字を楽しむ』(講談社現代新書)で、とめ、はねなどにこだわって教えている教員を「その先生は教育に「きびしい」のでもなんでもなく、漢字に関する正確な知識がなく、どのように書くのが正しいのか自信をもって指導できないから、単に教科書や辞書などに印刷されているとおりでないと、安心して「正解」とできないだけのことです」と以前から痛烈に批判していたし、教員が反発の声を上げないので、私は100年以上も続いたこの誤った漢字教育(このブログの「漢字の細部にこだわった採点は戦前にもあった」(2020.7)や「筆順について」(2019.12)を参照)も、ついにこの「指針」によって解決されると考え、このブログのリンクから見ることのできるホームページ「漢字の採点基準」の「現状」に、これからは教員に「指針」を徹底的に勉強してほしいとの思いで「これまで学校で正しく教えてこなかったつけを、今後教員は支払っていかなければならない」「親が納得できるように正しいことを説明できる学力、見識が教員には求められる」と書いた。この時は教員を信じたいという気持ちが強かったのである。
 しかしである(案の定と言った方が適切かもしれない)、やはりとめ、はねなどの漢字の細部にこだわった、でたらめで、有害な漢字教育は続いていたのである。そもそも常用漢字を教えていながら、多くの教員が常用漢字表(付)字体についての解説(「指針」は(付)字体についての解説をより分かりやすく具体的に説明したもの)すら見ずに、自分の思い込みだけでめちゃくちゃな漢字教育をしていたのだから、そんな教員が「指針」が出されたとはいえ、「指針」を徹底的に勉強して、自分の過ちを正していくと期待することが間違っていたのである。一般的には日本の教員は真面目でレベルが高いと思われているが、決して知的なレベルは高くない。私はまだ現役の教員だった時に研修会などに出席して、教員が漢字以外でも間違った発表をしているのを度々目にした。教員は仕事量が多くそれをこなすだけで精一杯で(教員が多くの仕事をこなしていることについては、私も大いに評価している。教員はよくやっていると思う。教員の仕事を減らすことは急務である。教員の多忙化は教員の学力低下につながり、それは当然子どもたちの学力低下につながっていく)、十分な勉強ができていない。

 また記事には「学校での指導との関連性を問われた文化庁は「これまでの学校における漢字指導の考え方が変更されるわけではありません」とし、「教科書体を標準として指導を行うことを求めていく」と回答した」とある。平成20年の小学校学習指導要領解説国語編・第4章指導計画の作成と内容の取扱いには次のような記述がある。(文頭の(ウ)とは、「(ウ)漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること。」を指す。)

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  ここに児童の書く文字を評価する場合には考慮することが望ましいと書かれている常用漢字表の、「前書き」にある活字のデザイン上の差異、活字と筆写の楷書との関係、とはどういうものかと言うと、常用漢字表前書きには前述したように(付)字体についての解説があり、その第2明朝体と筆写の楷書との関係についてに、字体としては同じものであっても、「明朝体の字形と筆写の楷書の字形との間には、いろいろな点で違いがある。それらは、印刷文字と手書き文字におけるそれぞれの習慣の相違に基づく表現の差と見るべきものである」という記述があり、「木」が次のようにはねるかとめるかに関する例に挙げられている。

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 要するに「木」の2画目の縦棒は、とめて書いても、はねて書いてもどちらでもいいということが明示されているのである。「木」の縦棒は活字(印刷文字)ではとめて書かれているが、それは活字のデザインであって、手で書くときははねて書いてもいいのである。「木」の縦棒は活字としてはとめて表すか、はねて表すかしかなく、活字のデザインにはとめて表す方が採用されているというだけである。歴史的に見ても名筆といわれる作品の「木」はほとんど全て縦棒がはねて書かれている。それは紙に筆先に弾力性のある毛筆で書かれているので、2画目の縦棒から次の3画目に筆が移動するときに跡がついてはねたように見えるのであって、現在のように紙に筆先に弾力性のない鉛筆で書けば、意識して縦棒にはねをつけようとしなければ、ほとんどとめて書いたように見えてしまう。「木」の縦棒をとめて書くか、はねて書くかなど、正誤(〇か✖か)に何の関係もない。これについても詳しくはホームページ「漢字の採点基準」の現状をご覧いただきたい。
 次に平成29年に告示された現行の小学校学習指導要領解説国語編・第4章指導計画の作成と内容の取扱いでは、同じ個所がどう変更されたかを示す。

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 上に示した平成29年の学習指導要領解説の、最初から「児童の書く文字を評価する場合には、こうした考え方を参考にして、正しい字体であることを前提とした上で、柔軟に評価することが望ましい」までは、表現は違っているが前掲の平成20年の学習指導要領解説の内容と全く同じである。繰り返しになるが「常用漢字表の字体・字形に関する指針」は常用漢字表の前書きの(付)字体についての解説をより分かりやすく具体的に説明したものであって、その文字特有の骨組み(字体)が読み取れ、誰が見てもその字であると判断できれば、漢字の細部のとめ、はねなどで✖にしてはいけないという国(文化庁)の考えは、「指針」が出される以前から全く変わっていない。だから文化庁「これまでの学校における漢字指導の考え方が変更されるわけではありません」と回答したのは当然のことなのである。AERAの記事では、文化庁が「指針」の内容が行き過ぎだったので、元に戻したかのように受け取られる文章になっているが、そうではない。「指針」で示した考えは、以前と全く同じなのである。
 記事には「基本の型を知らずに我流を通すのはただの「形無し」。確かに、基本を押さえることの大切さも分かる」とあるが、このよく言われる考えは、漢字について基本ということがどういうことなのか分かっていない人の妄言である。「木」について言えば縦棒をとめて書くのが基本の型で、はねて書くのを我流と言っているのだろうが、「木」の縦棒をとめて書いた字も、はねて書いた字も、どちらも全く同じ正しい字で、その二字に優劣の差はない。「木」の縦棒をとめて書いた字が基本の型で、はねて書いた字は許容の型、とめて書いた字のほうがより良いなどということでもなく、はねて書いた字もとめて書いた字も全く同等に正しいのである。この同等に正しいということが、なかなか理解されにくいようだ。漢字には絶対的に正しいという字形は存在しない。全ての辞書に親字として示されている字も、全く同じ字形というものはなく、少しずつ全てが違っているし、誰の手書きした字でも全く同じ字形ということはあり得ない。ただ我々はそれらの字のどこかに共通点を見つけて、同じ漢字であると認識しているのである。学習指導要領解説で、「学年別漢字配当表」に示された漢字の字体を標準として指導することを示している。しかし、この「標準」とは、字体に対する一つの手掛りを示すものであり、これ以外を誤りとするものではない、と「標準」という言葉が使われているのは、絶対的な字形は存在しないから、「標準」と言っているのである。「木」という字を教えるには形として示すしかないから、縦棒をとめた形で示しただけであって、それは活字のデザインなのである。しかし学校では(特に小学校の低学年では)、「木」なら活字の縦棒がとめてあるのだから、活字のとおりとめて書くように指導するのが基本のはずだと主張する人がいるだろう。もちろん「木」の縦棒をとめて書くように指導するのは基本だろうが、だからといって縦棒をとめて書いた字が基本の型で、はねて書いた字が我流ということではない。とめて書いた字もはねて書いた字も、字体(文字の骨組み)としては違いがないのだから、どちらも基本の型なのである。どちらの字も優劣のない基本の型で、正しい字である。だから児童の書いた字が縦棒をはねて書いてあるように見えても、決して✖にしてはならない。教員が活字では「木」の縦棒がとめた字形になっているのは、デザインなのだということを念頭に置けば(デザインなんだと理解していれば)、縦棒をとめて書くように指導したのに、児童がはねて書いてしまったとしても、✖にはできないはずである。✖にしてしまえば、縦棒をはねて書いた「木」は誤字なのだという、間違った考えを児童たちに植え付けてしまう。
 「子どもの頃にしっかりと漢字の基本を身に付けさせるのが大切だ」などと言い、とめ、はねなどの細部にこだわった漢字指導を肯定する教員や保護者がいるけれども、もう一度繰り返して言うが、これは漢字の基本を分かっていない人の妄言である。漢字の基本とは字体(文字の骨組み)をしっかり身に付けさせることにある。とめ、はねが字体の違いに影響を及ぼさない場合には、とめ、はねにこだわる必要はない。とめ、はねはほとんどの漢字で字体の違いに影響を及ぼさないが、とめ、はねの違いで異なる字体になる(違う字種になる、言い換えると違った字になること)漢字として、「指針」は「干」と「于」を挙げている。例示されているのは「干」と「于」だけである。干(カン)は常用漢字であるが、于(ウ)は常用漢字ではない。「干」の縦棒がとめてあって、「于」の縦棒がはねてあるのはデザインではない。これは字体(文字の骨組み)である。この「干」と「于」の二字は縦棒のとめ、はねで見分けるのである。とめ、はねをしっかり教えなければならない漢字というのは、こういう漢字だけである。こういう漢字以外のとめ、はねにこだわることは、漢字教育にとって有害この上ない。漢字は意思を伝えるための手段なのであるから、誰が見てもその文字であると認識できれば、とめ、はねなどの細部にこだわる必要はない。例えば「木」(きへん)、「扌」(てへん)、「禾」(のぎへん)、「牛」(うしへん)の漢字などの、その偏の縦棒がとめて書かれていても、はねて書かれていても、決して他の漢字に見誤れることはない。そういう偏のとめ、はねにこだわる必要は全くないのである。では常用漢字で必ずはねなければならない漢字はというと、「芋」「宇」「越」の三字だけである。この三字だけは必ずはねなさいと教えればいいのである。詳しくはホームページ「漢字の採点基準」をご覧いただきたい。

 漢字の基本は字体(文字の骨組み)を身に付けること。漢字の細部にこだわることではない。

 このことを肝に銘じてほしい。
 次に前掲した平成29年の学習指導要領解説の上から11行目以下(一方、漢字の学習と書写の学習とを考えたとき~配慮することが重要である。)については、このブログの「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育」(2021.4.11)と「「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について」(2020.11.6)で詳しく説明してあるので、そちらをご覧いただきたいが、一言でいうなら「指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」としても、それには「字体についての考え方を十分理解した上で」という前提がある。国(文化庁)は字体(文字の骨組み)が違っていなければ誤りとはしないという考えであるから、例えば「木」なら、たとえ縦棒をとめて書くように指導したとしても、児童がはねて書いたからといって✖にしてはならない。これからは、とめて書こうねと注意すればいいだけのことである。

 もう一箇所AERAの記事で気にかかるところ(間違っているところ)がある。それは中山さんの次の言葉である。「その後に迎える中学受験や大学受験でも、厳しく採点されるので、低学年のうちにしっかりと基本を身につけておくのは大事なことだと思います」。「中学受験や大学受験でも、厳しく採点される」とは、中学受験や大学受験ではとめ、はねなど活字のとおりに書かなければ✖にされるという意味なのだろうが、それは全くの思い違いである。こういう根も葉もない妄信が疑心暗鬼を生み、漢字の細部にこだわるめちゃくちゃな漢字教育を容認することにつながっている。
 「指針」の第1章常用漢字表「(付)字体についての解説」の考え方には、次のような記述がある。
 字体は骨組みであるから、それが実際に印刷されたり、手で書かれたりする場合は、活字独特の装飾的デザインや、人それぞれの書き方の癖や筆勢などで肉付けされた形で表れる。したがって、ある一つの字体が印刷されたり書かれたりして具体的に出現する文字の形は一定ではなく、同じ文字として認識される範囲で、無数の形状を持ち得ると言える。仮に、文字の形の整い方が十分でなく、丁寧に書かれていない場合にも、また、美しさに欠け稚拙に書かれている場合にも、その文字が備えておくべき骨組みを過不足なく持っていると読み取れるように書かれていれば、それを誤った文字であると判断することはできない。
 この「その文字が備えておくべき骨組みを過不足なく持っていると読み取れるように書かれていれば」誤字ではないという考え、言い換えると字体の違いに影響を及ぼさない細部の相違で誤字としてはならないという考えは、戦後国が当用漢字字体表、常用漢字表で一貫して示してきた考えである。この考えがなかなか浸透しなかったのは確かであるが、「指針」で初めて示された考えではない。
 また「指針」の第3章字体・字形に関するQ&AQ26には、「なお、改定後の常用漢字表においても、「(付)字体についての解説」の「第1 明朝体のデザインについて」や「第2 明朝体と筆写の楷書との関係について」の記載があることを踏まえ、児童生徒が書いた漢字の評価については、指導した字形以外の字形であっても、指導や場面の状況を踏まえつつ、柔軟に評価すること。」という記述のある文部科学大臣政務官通知「常用漢字表の改定に伴う中学校学習指導要領の一部改正等及び小学校、中学校、高等学校等における漢字の指導について」が、平成22年に常用漢字表が内閣告示として実施されると同時に示されたことが載っている。
 そしてQ27には、この文部科学大臣政務官通知を踏まえ大学入試に関連して、各国公立私立大学長・独立行政法人大学入試センター理事長宛に、前掲の「常用漢字表の改定に伴う中学校学習指導要領の一部改正等及び小学校、中学校、高等学校等における漢字の指導について」と同趣旨の文部科学大臣政務官通知「大学入学者選抜における常用漢字表の取り扱いについて(通知)」がこれも平成22年に発出されたと記されている。
 この二つの文部科学大臣政務官通知から、現在は中学入試でも、高校・大学入試でも常用漢字表の「(付)字体についての解説」及び「常用漢字表の字体・字形に関する指針」に示された基準で採点が行われている。「その後に迎える中学受験や大学受験でも、厳しく採点される」というのは全くの誤解である。
 さらにQ27には「不特定多数の人が受験する入学試験や採用試験については、何らかの理由により、正誤に関して特別な判断基準を必要とし、かつ、あらかじめ採点の基準を詳細に公開できるような場合を除いて、常用漢字表の「字体についての解説」及び当指針の考え方に沿った評価が行われることを期待します」記述されているが、「不特定多数の人が受験する」代表的な漢字検定でも、次のように採点の基本的な考え方を示している。

 その文字特有の骨組み(字体)が読み取れ、誰が見てもその字であると判断できれば、漢字の細部のとめ、はね、はらいなどの書き方によって不正解とすることはありません。
漢検では、
・平成22年内閣告示「常用漢字表」の「(付)字体についての解説」
文化審議会国語分科会報告「常用漢字表の字体・字形に関する指針」
などの公的資料に拠り採点しています。

 このように、現在では入試でも検定試験でも、漢字が出題される試験では全て「(付)字体についての解説」及び「常用漢字表の字体・字形に関する指針」に示された考え方で採点が行われている。「(付)字体についての解説」、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」に示された考えは妥当、正当な考えであるから、その考え方で採点するのは極めて当然のことである。

 未だに漢字の細部にこだわった、でたらめな漢字教育が行われているという記事を見ると、悲しくなる。とめて書いてあっても、はねて書いてあっても、別字に見えるわけでもないのに、とめやはねにはどういう意味があるのだろうと、どうして教員たちは考えないのだろうか。不思議である。
 学校でのでたらめな漢字教育に終止符が打たれることを切に願う。

三好京三『俺は先生』

 三好京三の『俺は先生』(昭和57年 文藝春秋)を読み、感じたことを書いてみたい。

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 三好京三昭和6年(1931年)岩手県に生まれ、平成19年(2007年)に亡くなっている。直木賞を受賞した『子育てごっこ』が特に有名である。三好は助教諭として種市町(現洋野町)立の小学校に勤務後、昭和37年(1962年)から衣川村(現奥州市)立衣川小学校大森分校に14年間勤務し、昭和53年(1978年)に教員を辞めて文筆に専念するが、生涯岩手県で暮らしている。

 『俺は先生』は「不死身の哲つぁん」と皆から呼ばれる小学校教師・郷内哲也が主人公の小説である。不死身と呼ばれることから想像されるように、哲也はバイタリティーにあふれ、人一倍(私から見れば超人的)教育に熱心でよく働く教師である。(こんな教師は現実的ではないと思われるところが、この小説の欠点かもしれないが、この教師の活動ぶりこそが終戦直後の混乱と活気に満ちた教育状況を教えてくれるようにも思える。)
 郷内哲也は昭和22年から国民学校の高等科を出た者たちが通う、村の実業学校の教師として勤務を始める。その後新しい学制がしかれ新制中学ができるが、校舎がないので元の分教場を手直した分室で、中学一年生から三年生まで27人を一人で教えることになる。教員は分室に一人であるから社会、国語、数学、理科、英語、音楽、体育、家庭など全教科を哲也一人で教えるのである。このあたりは終戦後間もない時期の状況が書かれていて実に面白い。
 哲也はその後、岩手県北部の僻地の小学校に勤務する。そこで教育こんわ会(教育研究サークル)を作り活動を始める。毎日毎夜子どもの文集、学級だより、教育こんわ会の機関誌などのガリ切りを超人的な精力とスピードでこなしていく。(ガリ切りとはガリ版印刷で原紙に鉄筆で書くことであるが、現在現役の小中高の教員でガリ切りをしたことがある者は皆無と言っていいだろう。私も小中の頃に先生がやっていたのを見て、一二度やったことがある程度である。ガリ切りはパソコンで打つことより、数倍も時間がかかり、労力がいることは言うまでもない。)
 子どもの文集は生活綴り方運動の継承から生まれたものだが、当時は学級のほぼ全員が貧乏な家の子であったから、子どもたちは自分の家の生活を見つめ、その貧しさを書いても恥ずかしくなかったのだろう。現在も子どもの7人に1人が貧困状態にあるといわれ、ヤングケアラーなどの問題も顕在化して、貧困の問題はなくなってはいないものの、経済格差の拡大した今、果たして貧しい家の子どもたちは自分の家の実状を隠さずに書くことができるだろうか。書けばいじめや蔑みにもつながりかねない。教員はそのようなプライバシーに関わる作文を書かせることに躊躇するのではないだろうか。私は高校の教員であったが、ほとんど生徒に作文を書かせたことがない。作文を書かせるとしたら現代文の時間だろうが(表現は履修科目にしていない学校が多い)、とにかく授業を先に進めなければならず、作文に割ける時間などなかった。
 学級だよりというと、私は昭和60年(1985年)に当時新潟県で最も荒れていると言われていたk高校に赴任したが、k高校の教員の多くが競って学級だよりを毎日のように出していたことが思い出される。教員は学級だよりを卒業の時に製本して生徒に渡していた。その教員たちの熱意には感心させられるばかりであった。しかし私は感心するばかりで自分にはできそうもないと考えて、クラス担任になった時には端からが学級だよりを出すことを諦めた。
 教育こんわ会の活動は組合教研につながるものだが、私が昭和60年に新潟県の教員になったころは新潟県の高教組では、支部教研が10月の2学期中間テストの午後に会場は支部内の高校の持ち回りで開催され、そこで選ばれた者が県教研で発表した。そのころからすでに教研はかなり形骸化していたが、それでも最近まで支部教研も開催されていた。今はどうも支部教研はなくなり県教研だけになったようである。組合に加入する者が少なくなり、あまりにも仕事が忙しくなって、教研が成り立たないような状況になっている。
 お互いの教員としての成長を促す教研こそ、組合の最重要活動であると思う。組合が組合員であることを理由に不勉強な教員でも助け、教員の生活を守るだけの組織になってはほしくない。

 私が『俺は先生』を読んで一番に感じたことは、教員が自由だったということである。教材や教具など全てのものが不足していたが、学校には教員が自分のやりたいと思うことをやれる自由があった。だからこそそこに素晴らしい実践活動が生まれたのである。今の学校は物はそろっていても教員に自由がない。だから活気もない。教員は手に余るほどの仕事を押し付けられて、それをこなすだけで精一杯。その上自由がなければ疲弊するだけである。これをやりたいと思い、それをやれる自由があれば、そこに活気が必ず生まれるはずである。
 『俺は先生』は小説である。事実の記録ではない。しかし小説はその時代を背景にして書かれている。だからそこには記録性が備わっている。単なる記録より、小説の方がグッと時代の香りが伝わってくる。記録性は小説の重要な要素である。ぜひ多くの教員や教員を目指す若い人、教育に興味のある人にこの本を読んでほしい。そして今の教育に欠けているものは何かを考えてほしいものである。

 最後に『俺は先生』の第九章「かなづかい」は、とても興味深かった。昭和21年に「現代かなづかい」が告示される。(ちょうど40年後の昭和61年には、その改訂版である現行の「現代仮名遣い」が告示される。)「現代かなづかい」は歴史的仮名遣いからの歴史的大変換である。「現代かなづかい」に批判があったことは知っていたが、そのかなづかいが定着するまでに、様々な取り組みがあったことを私は全く知らなかった。これもこの小説が持っている優れた記録性の一例である。

未だに続くめちゃくちゃな漢字教育

 西日本新聞(4月5日、ウェブ版)の「0点は厳しすぎ?小1『とめ、はね、はらい』で✖ 文科省の見解は」という記事で、「習字のような「とめ、はね、はらい」ができていないと、漢字ドリルは全てやり直し。テストは0点ー。」にする教員がいて、保護者から「厳しすぎる」という悩みが届いたと紹介している。
 これに対し脳科学者の茂木健一郎氏は、YouTubeに動画を公開し、そんな指導は虐待であり、犯罪行為だと批判した。真っ当な批判である。

 私は記事を読んで、未だにそんな指導をしている教員がいることに、あきれ、どこまで不勉強なんだ、と怒りを覚えた。
 というのは、平成28年(2016年)2月29日に文化審議会国語分科会から「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が出され、「文字の形に関しては、文字がその文字特有の字体を表しているかどうか、その文字に特有の骨組みが読み取れるかどうかを漢字の正誤の判断基準としています。つまり、別の文字と見分けられなかったり、紛れてしまったりすることがなく、その文字であると判別でき、その文字としての働きをするのであれば、誤りとはしない、という考え方です。ですから、漢字の細部のとめ、はね、はらいなどが、字体の違いに影響し、文字の判別に関わってこないのであれば、その有無によって正誤を分けることはしません」(Q21)という見解が示されていて、その問題はすでに決着がついているからである。字体(文字の骨組み)に影響しない場合には、とめ、はね、はらいなど気にしなくていい。そんなことでバツにしたら、教員は自分の間違った考えを、子どもたちに押し付けていることになる。

 もう一つ記事で気になった個所がある。それは「福岡県の小学校教員は「とめ、はね、はらい」を基準に減点することは「誤り」だと投稿した。根拠とするのは学習指導要領解説の国語編だ。字体は骨組みであるため、実際に書かれた場合は無数の形状があり、「正しい字体であることを前提とした上で、柔軟に評価することが望ましい」と書かれている。だが文部科学省教育課程課の見解は異なる。「国語ではなく、社会や理科など他教科で書いた字は『とめ、はね、はらい』ができていないからといって、減点はしないという柔軟な評価を意味する」と説明する」という箇所である。本当に文科省教育課程課の職員がこんなでたらめなことを言ったのであろうか。信じられないことである。文科省教育課程課に問い合わせて、質すべきである。もし本当にこう答えたとすれば、文科省文化審議会国語分科会)が出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の内容を、文科省自身が否定することになる。ありえないことである。文科省教育課程課の職員は役人であって、教員でもなければ、漢字の専門家でもないので、漢字について良く知っているとは限らない。しかしこんな重要なことについて、漢字について良く知らない職員が不用意にでたらめな答えをしたとしたら、それはそれで大問題である。文化庁には「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の作成にかかわった、漢字に精通した職員もいる。そういう職員に責任を持って解答させるべきである。文科省教育課程課の職員の不勉強さも許し難い。自身の回答が、教育にどういう影響を与えるか、肝に銘じて仕事をしてほしい。

 どうして、とめ、はね、はらいなど漢字の細部にこだわる指導がなくならないのだろうか。どうしたら、そんな誤った漢字指導を改めることができるのだろうか。このブログや私の「漢字の採点基準」というホームページで説明してきたが、ここで改めて書いてみたい。

 とめ、はね、はらいなど漢字の細部にこだわった、でたらめな漢字指導をしている教員が拠り所としているのは、学習指導要領解説・国語編の第4章 指導計画の作成と内容の取扱いの次の記述であろう。

 (エ)漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること。

 その(エ)について、また次のように解説している。

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 でたらめな漢字指導をしている教員が、自身の指導が誤ってはいないと主張する根拠は、上の記述の内「学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準と」し、「文字を書く能力を学習や生活に役立てるために、文字を正しく整えて書くことができるよう、指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」という記述であると考えられる。(実際はこの記述を根拠とするより、根拠など考えることなく、正しいと思い込んで、何の疑いもなくそうしているのが実態かもしれない。)
 だが学年別漢字配当表に示す字形はあくまで標準であって、絶対的に正しく、これしかないというような字形ではない。漢字の字形には、1たす1が2というような、絶対的に正しい字形は存在しない。なぜなら学年別漢字配当表に示す字形と各種漢字辞典に表示されている字形とが同じではないように、同じ字体を表す字形は無数に存在するからである。絶対的に正しい字形など存在しないから、「標準」と言っているのである。だから学年別漢字配当表に示されている字形を、絶対的に正しい字形として、細部までその通りに書かなければバツとする指導は正しくない。
 また「指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」としても、「正しい字体であることを前提とした上で、柔軟に評価することが望ましい」とあるのだから、とめ、はね、はらいなどが字体の違いに影響せず、文字の判別に関わってこないのであれば、細部において、子どもが書いた字形が標準の字形と異なっていてもバツにしてはならない。あくまでもバツにしていいのは、とめ、はね、はらいが字体に影響して、別の字体になる場合である。どうしてもとめ、はね、はらいに注意させたいと思うのなら、子どもたちに返却するときに、ここはこう書いた方がいいよ、と赤ペンで書いて教えてやればいいのである。
 西日本新聞の記事には「とめ、はね、はらい」が不完全な字に丸を付けた担任に「小学生は基本が重要。習っていないのと、知って省くのでは意味が違う」などと訴え、指導を変えさせたという保護者もいたことが書いてあるが、こういう保護者は漢字の「基本」がどういうことか分かっていないのだから、教員が分かりやすく保護者に教えてやらなければならない。そんな漢字について知識もない保護者に、説明ができる知識を、教員が持っていないことが問題である。私は「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が出されるとき、その冊子を全小学校教員に配付するという話を聞いた気がするのだが、間違っていたのか配付はされなかった。今からでも遅くはないから、文科省は全小学校教員に配付し、説明会、勉強会を開き、指針の趣旨を周知し、数十年も続く馬鹿げた問題に終止符を打つべきである。できれば小学校の教員だけでなく、中学校と高校の国語科の教員にも配付してほしいが、配付が予算的にできないのなら、1000円くらいで強制的に買わせてもいいと思う。
 その際であるが、「指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」という、この誤解(曲解)を生みやすい表現の元になっている、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の「なお、学校教育では、漢字の読み書きの指導と書写の指導とが一体となって行われる場合がある。特に、小学校段階では、日常生活や学習活動に生かすことのできる書写の能力を育成するため、文字を一点一画、丁寧に書く指導も行われており、指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もあることを十分に踏まえる必要がある」(「常用漢字表の字体・字形に関する指針」第1章 常用漢字表『(付)字体についての解説』の考え方・3 漢字の字体・字形に関して、社会で起きている問題・(2)学校教育における漢字指導に関する意見聴取の内容)という記述は訂正するべきである。書写ではとめ、はね、はらいを教えることも必要だろうし、きれいな字を書けることは望ましいことであるが、「きれい」と「正しい」は全く別の問題である。「きれい」と「正しい」を混同してはならない。このことについては、このブログの「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について」(2020年11月6日)に詳しく書いたのでお読みいただきたい。

 どうしてとめ、はね、はらいが気になってしょうがない教員がなくならないのだろう。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」には、次のような記述がある。

 

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 ここには、「学習者の発達の段階に応じた教育上の配慮等から、一方の書き方を指導する場合にも、本来は、どちらも適切な書き方であるということ、また、はねの有無は、それが漢字の字体に影響しない場合には、正誤の判断基準にならないということをしっかりと踏まえておくことが望ましい」と、明確な判断が示されている。それでもとめ、はねが気になってしょうがない 、という教員の気持ちは分からないでもない。なぜなら、とめ、はねが字体の違いに影響を与え、とめ、はねで別の字になる漢字があるからである。その漢字がどの漢字なのか分からないから(どの漢字か明確に示されていないから)、とりあえず全ての漢字のとめ、はねを標準の字形として示された字とおりに教えなければならないと考えるのである。だから、必ずはねなければならないのは、この漢字であると明示する必要がある。これをしなければ、とめ、はねにこだわる教員がなくなることはない。常用漢字で必ずはねなければならない漢字は、「宇」「芋」「越」の3字だけである。(このことは私のホームページ「漢字の採点基準」に書いてあるのでご覧いただきたい。)とめ、はねにこだわる教員を批判することは容易であり批判したくもなるが、必ずはねなければならない漢字が3字であることを明示すれば、そういう教員もとめ、はねにこだわらなくなるに違いない。

 とめ、はね、はらいなどに明確な基準がないことは、次のことからも分かる。
 台湾は日本と同じく、漢字を使用している。台湾の使用している漢字はいわゆる旧字体であるが、日本と同じ字体の漢字もある。日本の小学校、中学校にあたる台湾の国民小学、国民中学で使われている常用国字標準字体と、学習指導要領の学年別漢字配当表に示されている漢字の字形を比較してみたのが、次の表である。

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 このように、とめ、はね、はらいが違っている漢字が多数ある。ここに示したのはその一部である。(ダウンロードして打ち出し、それをスキャンして拡大したので、例示した字がきれいでなくて申し訳ない。)同じ字であるのに、台湾と日本では字形が違っていることから分かるように、とめ、はね、はらいは、おおかたは文字のデザインの違いにすぎないのである。

 漢字は意思を伝達する道具である。誰もがその書かれた漢字を見て、その字だと分かるなら、細部にこだわる必要はない。細部にこだわる、間違った漢字指導が、早急になくなることを期待したい。