『日本霊異記』の正称は『日本国現報善悪霊異記』である。「現報」とは、現世の行為に対して現世においてその報いをうけること、「霊異」とは、人知でははかり知れないこと、という意味である。
筆者・景戒(きょうかい)が、人は自分の行為によって必ずその報いをうけることを、みんなに知らせたいと止むに止まれぬ思いで書いたことが、『日本霊異記』の上巻(『日本霊異記』は上・中・下の三巻から成る)の序から分かる。
景戒は序に次のように書いている。
あるいは寺の物を貪り、犢(うしのこ)に生れて債(もののかひ)を償(つくの)ふ。
あるいは法・僧を誹り、現身に災ひを被(かがふ)る。
あるいは道を殉(もと)め行を積みて、現に験(げん)を得たり。
あるいは深く信(う)け善を修めて、生きながらた祐(さいはひ)を霑(かがふ) る。
善悪の報は、影の形に随ふがごとし。
(中略)
因果の報を示すにあらずは、なにによりてか、悪心を改めて善道を修めむ。
昔、漢地にして冥報記(みやうほうき)を造り、大唐(もろこし)の国にして般若験記(はんにやげんき)を作りき。
なにぞ、唯し他国(ひとくに)の伝録をのみ慎みて、自土の奇事を信け恐りざらんや。
ここに起きて目に矚(み)るに、忍ぶること得ず。
寝(やす)み居て心に思ふに、黙(もだあ)ること能(あた)はず。
然(しか)あるがゆゑに、いささか側(ほのか)に聞けることを注(しる)し、号(なづ)けて日本国現報霊異記といふ。上・中・下の参巻(みまき)となして、季(すゑ)の葉(よ)に流(つた)ふ。
詳しい意味については、新潮日本古典集成などで確認していただければと思うが、景戒のみんなに知らせたいという止むに止まれぬ思い、みんなを救いたいという居ても立っても居られない思いが伝わってくる。そうでなければこういうものを書こうと思い立つはずがないし、書けるはずもない。現在の我々にはなかなか現報を信じることができないけれど、この本を読む時には景戒の篤い、熱い思いを汲んで読まなければならないと思う。
人にはそれぞれどうしても伝えたい、訴えたいと思うことがある。読んでその思いが伝わってくる本が私は好きである。読んでいる時に楽しめればそれでいいと考える人も多いと思うが、私にはそういう本は何か物足りない。