昨年12月に奈良県立御所実業高校の男性教諭(57)が、テストで出題が予定されていた問題を事前に生徒に流出させたとして、停職6か月の懲戒処分を受けた。教諭は10月に、2学年の2学期中間テストに出題予定だった世界史の試験問題を同僚から借り、同じ内容の「対策プリント」を作って、自分が受け持つクラスの生徒に配付した。また、自分が出題を担当した1学年の日本史の1学期期末テストと2学期に中間テストでも、同様の「対策プリント」を配付していた。
数学などだと「対策プリント」と同じ解き方の問題でも数字をかえれば違う問題になるが、国語だとそうはいかないので、私は「対策プリント」を作ったことはなかった。しかし、私の経験では、多くの教科でテスト前に「対策プリント」を配付することが、低学力の高校ではごく普通に行われていた。「対策プリント」といっても、ほぼ本番のテスト問題そのままのプリントを、テスト前の最後の授業で解かせる教員もいた。懲戒処分を受けた教諭は「学力が厳しい生徒が何とか一定の点数を取れるようにとの思いだった」と話しているというが、真面目に授業を受けていても、テストでは点数が取れない生徒に点数を取らせてやりたいとの思いだったのだろう。この御所実業の教諭のまずいところは、自分の担当するクラスの生徒にだけ「対策プリント」を配付したことである。こうすると自分の担当するクラスの点数だけ上げることになってしまうので、これはやってはいけないことである。どうして彼は同じ科目を担当している教員と、全生徒に「対策プリント」を配付しようと相談しなかったのだろうか。考えが一致しなかったのか、それとも学力が厳しい生徒に点数を取らせてやりたかった、という言葉が嘘なのか。
「対策プリント」など邪道だと思うし、ただただ答えの丸暗記で、そんなことをすれば、一層学力が身につくはずもないことをしていいのかという思いもある。だが、そうでもしないと真面目にやっているが、点数の取れない生徒を救ってやれないことがあるのも確かである。悩ましい問題である。御所実業の教諭にはちょっとだけ同情する。
話は換わって、高校国語の選択科目の問題である。2022年4月から高校の国語が変わる。これまであった2年次からの「現代文」が、実用的文章を扱う「論理国語」と、小説・詩を扱う「文学国語」という新しい選択科目に解体される。多くの高校では大学入試を見据えて「論理国語」が選択されることになりそうである。そうなると芥川龍之介の「羅生門」、中島敦の「山月記」、夏目漱石の「こころ」、森鷗外の「舞姫」など、高校の「現代文」の定番で、これまでほとんどの日本人が読んできた国民的な文学作品を、多くの高校生が読まない事態が生ずることになる。
それに対して大東文化大学教授の山口謠司氏が、次のように話している。(AERAdot.より)
契約書や取扱説明書を読めるように「論理」を重視した結果、「文学」を軽視することになっていて、この流れは明らかにおかしい。「文学は論理的でなく、実社会に役立たない」という改革の背後にある考え方がまったく理解できません。・・・中略・・・「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つに違いありません。・・・以下省略
詳しくは「4月に変わる「高校国語」に学者から怒りの声「人の気持ちがわからない子が育つ”改悪”」(AERA dot.)をご覧いただきたいが、私も山口教授のお話しの通りだと思う。全くばかげた改革で、改悪にほかならない。そもそも文学も論理的でなければ成立するはずがなく、芥川龍之介にしろ、中島敦にしろ、漱石も鷗外も皆が論理的な文章を書いている。その上に彼らの作品は論理を超えた品格をも備えている。実用的な文章と文学作品との決定的な違いは、この品格にある。生徒は文学作品の文章が持つ品格に憧れ、自分もそんな品格のある文章を書いてみたいと思って勉強するのである。実用的な文章を読んで、そういう文章を書けるようになりたいと憧れる生徒などいるのだろうか。勉強の原動力は”憧れ”である。生徒はこんな文章を書ける人になりたいと思うから勉強する。そういう憧れを抱かせるのが文学作品である。高校で実用的な文章だけ教えていると、生徒は文章を書くことに憧れを持たなくなって、ますます勉強しなくなりそうである。