より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

『教えるということ』(大村はま著)に学ぶ (二)

 大村はまは『教えるということ』で、次のように述べている。

 私は今日、「教えるということ」を題にしました。なぜかと申しますと、「教える」ということをしない先生がたくさんいて、困るからなんです。それでは、「教えない」っていうのはどういうことなんでしょうか。

 例えば、国語の場合、よくこういうことがありますね。

 まず、教室に子どもを入れて、開口一番、「読んできましたか。」という人がありますね。これは何も教えないということになりませんか。学校はあくまで「学校」で、学習するところですね。教室は学習室なんです。「家庭」は学校の勉強をするところじゃないんです。「生活の場所」であって、勉強は、もしあるにしても、片隅に存在しているでしょう。ないかもしれないんです。とにかく、「家庭」は勉強室でないことは確実なことです。生活の場なんです。そこは子どもにとりまして、勉強をもちこむこと自体、多少の問題があるところなんです。

 ところが、本来の学習室である学校を、学習室にしないで、「読んできましたか。」というのは、「読む」といういちばん大事なことは家庭でやるわけですから、それでは家庭が勉強の場所になり、学校は検査室ですね。読んできたかどうかをみる検査室ですね。読めるかどうか調べる所、おっかない場所ですね、学校は。私は、そういう先生が多いということを、たいへん強く感じます。

 みなさんはいかがですか。みなさんの学校時代に、「読んできたか。」って言われませんでしたか。「よく読んで、上手に読めるようにしてこい。」って言われたでしょう。

 ‶先生に読み方を習おう‶ ‶先生に字を教えてもらおう‶ と思って、一生懸命になって、「先生、おはようございます。」って教室にはいってきた子どもたち…。それなのに、「読んできたか。」と検査するというのは、‶先生の面目いづこにありや‶ と私は言いたくなります。 (P29~30)

 これは耳の痛くなる話である。私は宿題を出す方ではなかったが、私も教室を検査室にしていたことは多々あった。

 私は古文・漢文の新しい文章に入るときには、必ず自分自身が範読して生徒に正しい読み方を示した。しかし文章の解釈になると、高1で古典文法を一通り教えるので、高2からはその知識を活用して予習してくることを前提に授業を進めた。もちろんこれは大学進学を目指している生徒に教える場合である。低学力の高校では古典文法を一通り教えるなどということはとてもできないし、予習をしてこいと言ってもできないし、してくるはずもないので、(生徒に申し訳なかったが)何とかごまかして時間をつぶすしか私にはできなかった。

 授業の足かせになったのは、共通進度・共通テストである。今の高校ではほとんどの学校で、同じ教科なら複数の教師で担当していても進度を合わせ、テストを共通にしている。(私が共通進度・共通テストで教えるようになったのは、1999年からである。それまでは教師が各自、自分で進度を決め自分が教えているクラスのテストを作っていた。)こうなると自分だけゆっくりと教えていくようなことはできない。授業をしていて、生徒は習ってはいるはずだが、ほとんどの生徒が良くは分かっていないから、大切なことだし復習して理解させようと思っても、進度が決まっているのでその時間的余裕がない。個々の教師に自分の良いと思うことをする裁量が与えられていない。私は今の高校でこのことが最も問題であると思う。共通テストにすれば確かに評価は公正になるかもしれないが、教えることの目的は公正に評価することではなく、生徒に良く理解させること、生徒の学力をつけることにある。そのためには教師それぞれが、こうやったら学力がつくだろうと思うことを、実施できなければならない。今の高校では教師に自由がなく、通り一遍の授業をすることしかできない。通り一遍の授業をするしかないので、それができればもう勉強をする必要がないと教師は思いこんでしまう。自由にすると誰もが楽をしようとさぼってしまうから、共通にしていたほうがいい、などと馬鹿げたことを言う、自分で自分のことを信頼できない教師がいる。自分を信頼し、他の教師も信頼することでしか力を十分に発揮することはできない。大村はまは独自の授業をしていたのだから、共通テストをしていたはずがない。自分の考える最高の授業をできる自由があったから、大村はまは素晴らしい授業ができたのである。

 すこし教室を検査室にしてはいないかというところから、話がそれてしまったが、共通進度・共通テストが教室を検査室にしていることの大きな原因になっている。学年全員に古文単語帳を持たせ、週に1回は必ず小テストをし、その点数を成績を付ける際に平常点に加えるとか(もちろん古文単語帳は生徒が自分で勉強するだけで、授業で説明することはない)、夏休み・冬休み・春休みには持たせている問題集の範囲を指定して学年共通の宿題とし、休み明けの最初の日に共通テストをするとか(生徒は問題集についている解答を見て自己採点する。もちろん授業で教えることはない)、自分はそんなことはしたくないと思っても学年共通といえばしないわけにもいかず、教えてもいないことをやってきたか検査せざるを得ない。こういうことはほとんど学力に結びつかない(こんなことがあった。夏休みに古典文法の問題集の範囲を指定して宿題にした。生徒は範囲の問題を全て解き、解答を見て〇✖を付け、間違ったところは赤ペンで訂正して提出する。その進学校の生徒は全員がその通りにやってきた。しかもほとんど〇が付けられていて、自分で解いてみてできたことになっていた。それなのに休み明けに問題集と同じ問題のテストすると、なんと平均点は30点にも届かなかった。解答を見て答えを写しただけだったのである)と思っても、教師に私はテストはしないという自由はない。不本意であっても教室を検査室にしてしまう。成績の振るわない生徒は、教師から教えてもらってもいないのに教師にわるい点数を付けられ、自信を無くし、やる気もなくしていく。

 授業で教えないで、教室を検査室にすることは、できるだけ避けなければならない。私はそう考えている。そのためにはそうしないで済むように、教師は互いに裁量を認めあい、自分の思う最良の授業が自由にできるように、共通進度・共通テストをやめなければならない。共通進度・共通テストを続けていけば、どんどん教師のレベルが下がっていくだけである。