より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

文法重視が「古文嫌い」の原因なのか

 先日MA高校で同僚だった教員と、立ち話をする機会があった。その教員は今年、TU中等学校(中高一貫校)に異動していた。働き方改革は進んでいるかと尋ねると、現場は仕事が減るどころか、ますます忙しくなっているという。TU中等では授業のある平日が忙しすぎて、土曜、日曜に学校に来て仕事をしないと仕事がまわらないので、土日も出勤している教員が多いという。土日の勤務は部活動指導でもなければお金は出ない。その上、彼はいきなり3学年の担任を任され、土日の多くが模擬試験の監督で、休みが取れないというのである。前にもこのブログに書いた通り、文科省も県も全く本気で教員の仕事を減らそうとなどと考えてはいない。教員が一致団結して、現場から大胆な改革案を出して、それを認めさせていくしかあるまい。何とかしてくれるだろうと、上からの改革を待っていてはダメである。

 小学校の教員とも一言二言話す機会があった。平成28年に出された「常用漢字表の字体・字形に関する指針」を小学校の教員は読んで勉強しているか、研究会などで取り上げて話し合ったりしているか尋ねてみた。その教員は指針が出たことを知ってはいるようであったが、自分は読んではいないし、研究会でも取り上げられることはないと答えた。忙しくて、特に若い教員の関心は低いとも言っていた。私は指針が出て3年もたつのに読んでもいないこの中堅の教員が、若手の教員の関心の低さをあげつらうことに呆れてしまった。指針を精読しなくては、漢字を正しく教えることなどできない。そんな教員に若手のことをとやかく言う資格はない。忙しさを理由に勉強しないことを正当化してはいけない。指針は本として出版されてもいるし、文化庁のホームページからダウンロードすることもできる。読もうという気さえあれば、すぐにでも読める。私は腹立たしくもあり情けなくもあった。しかし教員個人の責任ばかりにしてはいけないとも思う。文科省は県教委に指針の研究会を指示するべきであるし、文科省から指示がなくとも県教委は研究会を開くべきであろう。文科省も県教委も全くやる気が見られないというか、何が大切なことなのかを理解することができていないのである。だから文科省は大学入試の英語に不公平な民間試験を導入しようとしたり、大学入学共通テストの国語に意味のない記述問題を導入しようとしたりすることになる。教育に対する見識がないのである。学校は小学校であってもアカデミックな場である。正しいことを教える場、正しい考え方を教える場である。何よりも教員が正しいことを教えることが学校では大切である。そのためには教員がどんな研修をしなければならないのか、しないならさせなければなるまい。小学校だけでなく中学校からも高校からも今の学校にはアカデミックな雰囲気がなくなっていることは残念で仕方ない。

 ここからは、文法を重視することが「古文嫌い」の原因かどうか考えてみたい。
 平成30年に告示された高等学校学習指導要領解説 国語編では「古典に対する学習意欲が低いことなどが課題となっている」と書かれている。その原因については、(古典の中でも古文に絞って話を進める)文法にこだわって現代語訳させるような授業をしているからと直截書かれているわけではないが、「文語のきまり」を「詳細なことにまで及ぶことなく、読むことの指導に即して扱うとする考え方は従前と同様である。したがって、文語のきまりなどを指導するために、例えば、文語文法のみの時間を長期にわたって設けるようなことは望ましくない」と述べられている。文法は深入りせずに解釈に必要なことに触れる程度に教えることが、古文嫌いの生徒をつくらないためには大切であると言われ続けてきた。しかし解釈に必要な程度とは、いったいどの程度なのだろう。用言と助動詞についてはほぼ完全の、助詞についても相当の知識がなければ、古文を正確に解釈することはできない。「読むことの指導に即して扱う」とは、文法を活用して古文を正しく読むことに他ならないのであるから、相当なまとまった文法の指導が必要なのである。一文一文を解釈するためだけの文法を、その都度教えていても、知識がばらばらな断片的なものとなって、まとまったものとはならず定着しない。それでは次の学習につながらない。
 私には文法にこだわらずに古文を教えることはできなかった。どうしたら文法にあまり触れることなく、古文を教えられるのだろう。ただ古文を現代語訳するのではなく、「作品や文章に表れているものの見方、感じ方、考え方を捉え、内容を解釈する」ことが大切であるといっても、正しく解釈できずにそんなことができるのだろうか。「注釈、傍注、解説、現代語訳などを適切に用い」て教えよと述べているが、確かに現代語訳されたものを用いて教えれば、「文章に表れているものの見方、感じ方、考え方」を教えることができるかもしれない。しかしそれではこの文章にはこういうことが書かれていると分かるだけであって、直接自分でその古文から読み取ることができなければ、生徒はもやもやして、すっきりと納得でたと思えるはずがない。そのもやもや感、もどかしさが古文嫌いの生徒をつくり出しているのであり、古典に対する学習意欲を低くしているのである。現代語訳されたものを通してしか理解できず、直接自分の学力で解釈できない隔靴掻痒の感が古文嫌いをつくり出しているのである。そう考えれば高校で古文教育をどうやればいいのか、おのずと答えは出てくる。高校生に自分の力で古文を解釈できる(もちろん注釈や傍注が必要になるが)くらいの学力をつけてやることが高校の古文教育の目的・目標なのである。
 2022年から高校では現代の国語(2単位)と言語文化(2単位)が必修になる。古典は言語文化で扱われるが、たった2単位で古文だけでなく漢文も含む内容が多い古典の学力を、生徒に身につけさせるなど不可能である。多くの高校が言語文化を3単位で教えるとしても、それでも足りない。私は高校1年生の時、4単位で古典を習ったと思う。週に古文の解釈が2時間、文法が1時間、漢文が1時間である。(私は高校で芸術科目を教わっていない。当時は芸術科目は必修ではなかったようである。だから1学年の時に週4時間の古典の時間がとれたのだと思う。)もちろん古典の授業は1学年で終わるわけではなく、2学年3学年と続いていくが、1学年の時に4単位は必要である。今1学年で週4時間、古典の授業をしている高校がどれほどあるだろうか。ほとんどの高校が他の教科との兼ね合いで、週に4時間も古典の授業をできないだろう。だから前にもブログに書いたが、高校は必修科目など無くして、自由に各高校がカリキュラムを組めるようにするべきなのである。そうすると高校で古典を教えない高校も出てくるであろうが、それで全く構わない。今どの高校でも一応古典を教えていることになっているが、古典の授業になっていない高校はいくらでもある。そういう高校で無理やり形だけの古典教育をする意味はない。古典の学力を身につけるには、相当地道な努力や忍耐力が必要である。地道な努力を重ねてでも古典を読みたいと思う者だけに、高校時代に、注釈・傍注を読み、辞書を引けば自力で古典を解釈できるくらい学力をつけてやれればいいのである。高校生全員に古典教育が必要とは考えられない。
 私は文法の時間、それ自体が大好きだった。そこで学んだことを使って古文を解釈していくことにも喜びを感じた。お前は好きだったから教員になったんだろうと言われるかもしれないが、文法(国語学)は実に興味深い学問だと思っている。