「とはずがたり」をご存じだろうか。鎌倉中期の宮廷で、後深草院(第89代天皇、在位1246~1259)に仕えて、「二条」と呼ばれた女性の回想自伝である。
作者は院の愛を受けている間に、二人もしくはそれ以上の男性とも関係を持ち、少なくとも院を含めて三人の男性の子を産むという人生を送っている。「とはずがたり」(全5巻)のうち1~3巻に、そのことが書かれている。
作者は二歳で母を亡くし、父・久我大納言雅忠の手で育てられるが、四歳の時から後深草院の御所に出入りし、院にかわいがられる。作者が十四歳になると、光源氏が紫の上を妻としたように、院は作者と男女の関係を結んで愛人にしてしまう。院の子を懐妊中に、父・雅忠が亡くなる。雅忠が亡くなるとその直後から、「雪の曙」と呼ばれる男が毎日のように作者に手紙を送ってきて、ついに四十九日が過ぎた頃に作者は曙と関係を結ぶ。作者はその後皇子を産むが、皇子を産んだ後に今度は曙の子を懐妊する。作者と曙は善後策に苦慮し、作者は重病のふりをして院の御所を退出して女子を出産するが、流産と称して曙がすぐさまその女子を連れ去る。
曙は「まづ、大事に病む由を申せ。さて、人の忌ませ給ふべき病なりと陰陽師が言ふ由を、披露せよ」(重病で、院にとって憚りある病〔近づいてはならない病気〕に罹っていると陰陽師が言っているように世間に広めよ)などと作者に言い、生まれた子は、曙がすぐさま「そばなる白き小袖に押し包みて、枕なる刀の小刀にて臍の緒をうち切りつつ、かき抱きて、人にも言はず」外に連れ出して、作者は「また二度その面影見ざりしこそ」(二度とその子を見ることができなかった)。この辺の描写は切迫していて実に生々しく、読者に迫ってくる。
このように「とはずがたり」には、後深草院や作者の男女関係が様々書かれていてとても興味深い。
「とはずがたり」は昭和15年に宮内省図書寮(今日の宮内庁書陵部)にあったものを、山岸徳平氏が発見し、『増鏡』の資料としても注目すべき日記文学である、と「とはずがたり覚書」と題して報告した。しかし「とはずがたり」には後深草院の好色ぶりなども書かれていて皇室の尊厳を冒すので、戦時中は研究不可能だった。注目を浴びるようになったのは戦後のことである。