より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)

 新学習指導要領の目玉の一つが、アクティブ・ラーニングである。「主体的・対話的で深い学び」を目指し、教員が知識を教える一方的な授業ではなく、児童生徒が互いに意見を交わしながら理解を深める授業方法のことを言う。この文部科学省が推薦し、教育界でブームとなっているアクティブ・ラーニングについて考えてみたい。

 4月9日の新潟日報に「変わる学び」として特集記事が載っていた。

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  記事の左上「こんな授業をします」をご覧いただきたい。文部科学省が示した授業例を参考に、記者が考えた社会・日本史の授業例である。確かにこういう授業が文部科学省の考えている授業方法(アクティブ・ラーニング)なのだろう。
 しかし考えてみてほしい。教員が「1543年、鉄砲伝来。テストに出します。」と言い、「どうして1543年にポルトガル人が伝えたのだろう?」と発問することから生徒の対話は始まる。生徒は本当に鉄砲が種子島に伝わった歴史的背景に興味があるのだろうか。教員が調べてみようと言うから、調べてみようかというだけなのではないか。生徒が主体的に鉄砲伝来の歴史的背景を調べてみようと言いだしたわけではない。まずここが一つの疑問点である。
 生徒の対話が始まり、「どうして種子島に?」「なんでポルトガル人が日本に来たのか」「そのころのアジアの他の国は」「鉄砲を作る製鉄技術は」と疑問が出てくる。こういう疑問が生徒から出てくるのはいいが、知識のない生徒同士で「歴史的背景を子どもたちで議論し合」うことができるのか。議論するとなれば、教員が資料を用意してやるしかない。教員が用意した資料を基に議論するのであれば、それを主体的学びといえるのか。これが二番目の疑問点である。
 そもそもなぜ生徒同士で話し合わなければならないのか。なぜ対話的でなければならないのか。一人で考え、一人で調べたい生徒もいるのではないか、いていいのではないか。私はそういう生徒だった。生徒同士で話し合うとなると、その生徒がいい考えを持っているわけでもないのに、どうしても押しの強い生徒が中心になる。うっとうしいだけである。これが三番目の疑問点である。
 こういう授業は形はアクティブ・ラーニングであっても、「主体的で深い学び」になっているのだろうか。「対話的な深い学び」というのは、はたして浅学な者同士ができることなのだろうか。専門家同士が知識をぶつけ合って考えを深めていく、そんな場合にしか「対話的な深い学び」は成立しないのではないか。

 前回のブログで、長年矯正教育に携わて来た人の言葉「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない」(『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治著、新潮新書)を紹介した。子どもが自ら「心の扉」を開けるような授業であれば、それがアクティブ・ラーニングという形をとらない、知識を教える一方的な授業であってもそれでいい。授業の形などどうでもいいのである。知識を教えながら、その中で生徒の興味を引き出すようなエピソードを紹介したり、少しマニアックであっても教員が自分で面白いと思ったことを徹底的に調べて話してやったりすることで、生徒が「心の扉」開いて自分でも調べてみようと思ったとしたら、その授業は「主体的で深い学び」につながる授業で、成功なのである。
 例えば授業で中島敦の「山月記」を教えたとする。生徒が「山月記」を面白いと思い、中島敦の他の小説も読んでみようと思うようなら、その授業は「主体的で深い学び」につながるいい授業で、成功なのである。私はそう考えている。(「山月記」の場合には、教員の授業が興味を引き出すような面白い授業でなくても、「山月記」それ自体に、生徒が中島敦のほかの作品も読んでみたい思わせる力がある。それこそが名作の名作たるゆえんである。私は高校時代に「山月記」や鴎外の「舞姫」、漱石の「こころ」、賢治や光太郎の詩、啄木や茂吉、八一の短歌、「奥の細道」や「平家物語」、李白杜甫、王維の漢詩、そして司馬遷の「史記」などに感動して、どうしたら自分でも書けるようになるのだろう、書いてみたいと思い、それが主体的に学ぶきっかけになった。教員にはそれらの名作の持つ力が助けになる。この観点からも国語教育では詩歌にしろ小説にしろ、現代文であっても古文・漢文であっても、名作を取り上げることは極めて重要な意味を持っている。今回の学習指導要領の改定で、国語の授業で文学作品を教える機会が減りそうであるが、それは必ず生徒の主体的な学びを妨げることにことになるだろう。)

 この新潟日報の記事の中に、「源氏物語にある『やんごとなき思い』とは、誰の、誰に対する、どういう思いなのだろうか」「これまでの古典の授業では『やんごとなき』は『特別な』という意味」などと、現代語訳を中心に教えてきた。しかし、ALでは自分が登場人物だったらと生徒が想像し、物語の内容を理解していく」と書いてあるが、こんなことは無理やり形だけAL(アクティブ・ラーニング)にしただけで、無意味である。
 「やんごとなき思い」とは、桐壺帝が弘徽殿の女御との間にできた一の御子に抱く「おほかたのやむごとなき御思ひ」のことを指すと思われる。桐壺帝は更衣との間にできた若宮(光源氏)を「私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし」で、一の御子に対しては「おほかたのやむごとなき御思ひ」(一通り大切に思われるだけ)なのである。この箇所は正しく現代語訳ができさえすれば、何も問題になるような箇所ではない。「自分が登場人物だったらと」想像し、話し合わなくては理解できないようなところではない。(物語・小説を読むときには、誰しも無意識のうちに登場人物の気持ちを自分の経験に照らし合わせ、自分と登場人物を一体化させて読んでいる。ことさら「自分が登場人物だったらと」想像する必要はない。)話し合わせる必要などないところを、アクティブ・ラーニングの形にしようと、生徒に話し合わせているだけである。話し合わせてもいい箇所と必要のない個所とを、教員が見極めることができずにごっちゃにしていて、どこで話し合わせてもいいと思っているのである。

 文部科学省がアクティブ・ラーニングと言いだすと、自分でよく考えもせずに、すぐにそれ合わせようとする教員が出てくる。ブームに乗ろうとするだけで、自分では全く「主体的で深い学び」をしようとしない、そんな教員が実に多い。
 子どもが自ら内側についている取手に手をかけ、心の扉を開けるような授業をするにはどうしたらいいか、教員はいつもそのことを心にかけて授業をしていかなければならない。アクティブ・ラーニングなどという授業形式に飛びつく必要はない。