より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

漢字を知らない議員同士の国会討論ー参議院文教科学委員会「学校教育における漢字指導の在り方」

 ネットで「漢字の採点」や「漢字の正誤」などと検索すると、平成28年2月29日に出された「常用漢字表の字体・字形に関する指針」について、同年3月10日に参議院赤池誠章議員と馳浩文部科学大臣のあいだでなされた討論を記録した「学校教育における漢字指導の在り方について」という次の文書が表示される。

 

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 赤池誠章議員は自民党参議院議員文教族議員の一人である。「日々勉強、結果に責任」の姿勢で議員活動をしているという。馳浩氏は自民党参議院議員で当時は文部科学大臣。大学卒業後に母校の星稜高校で短期間であるが、国語科の教員をしていたことがあるようだ。

 まず赤池議員の質問について書いてみたい。
 何を言いたいのか分かりにくいのであるが、「木」の縦画をとめてもはねてもどちらでもいいとか、「天」の二本の横画は上下どちらが長くても誤りではないとかでは、教育現場が混乱するし、保護者からも懸念の声が上がっているから、活字(印刷文字)の通りに書くように決めるべきだ、ということのようだ。赤池議員は「日々勉強」をモットーにしていると言っているが、この質問から全く漢字について勉強していないことが読み取れる。書体字典(書道字典)をちょっとでも見れば、こんな馬鹿げたことを言えるはずがない。そんな容易にできることさえしていない。質問するなら、その前にしっかりと勉強しておくべきであろう。漢字の細部にこだわった指導が、学校ではもう100年以上も続いていて、漢字嫌いの子どもを作りだし、教育に多大な弊害をもたらしていることを知らないのだろうか。
 書体字典の決定版『大書源』(二玄社)で、「木」を見てみたい。

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 ご覧の通り、「木」の縦画が多くの字でははねて書かれている。活字では「木」の縦画をとめているが、それは活字のデザインである。「木」の場合には縦画は2画目なので、次の3画目を書くために筆(筆記用具)を横画と縦画の交差するところまで持ち上げなければならない。だから「年」の最終画の縦画のように、縦画の端をぬくようなデザインにすることはできず、とめるかはねるかどちらかの形にするしかない。「木」の縦画はそこで、はねた形ではなく、とめた形にデザインしただけなのである。「木」の縦画をとめて書かなければバツなどしたら、過去に書かれたものはほとんど誤字になってしまう。
 木偏も「木」と同じことである。「木」も木偏も活字で縦画がとめてあるのは、直

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接的には当用漢字字体表(昭和24年)にそう書かれていたからであるが、その当用漢字字体表の元になったのは日本の活字の字体の基準となる康煕字典であり、そこでは「木」と木偏の縦画がとめた形で示されている。しかし、字典の字形が縦画をとめた形であっても、手で書くときにははねて書いてもよい。それは陳邦彦という人が康熙帝が書いた文を勅命を受けて楷書で書いた、康煕字典の序文の字を見ると分かる。康熙帝が木偏の縦画をとめて書かなければならないと考えていたなら、陳邦彦がはねて書けるはずがない。康熙帝も活字と手書きの字が同じ字形ではないと考えていたことは明らかである。(そもそも康熙帝は「木」や木偏の縦画をとめて書くか、はねて書くかなど、考えもしたことがなかっただろう。)
 『大書源』の「相」を見てみよう。

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 やはり木偏の縦画がはねて書かれている字が多い。だが、はね跡といっても縦画から次の画へと筆を運ぶ際に、毛筆の筆先には弾力性があるので跡がついたというだけのことである。現在我々が文字を書く時に使用する鉛筆やボールペンは、筆先に弾力性がないから、意識してはね跡を付けようとしなければ、はね跡がつかないこともある。「木」や木偏の縦画をとめる、はねるなど全く気にする必要がない。

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 『漢字字形の問題点』(天来書院)という素晴らしい本がある。野﨑邦臣氏の労作である。この本と江守賢治氏の『字体辞典』(三省堂)は、私の研究に最も影響を与えてくれた本である。二冊の本は私のバイブルと言っていい。ところがこの『漢字字形の問題点』を読んでいると、野﨑氏は江守氏を認めながらも、江守氏に何か含むところがあるようである。
 『漢字字形の問題点』の140ページに次のような記述がある。

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 これを読むと、木偏、のぎ偏、こめ偏、のごめ偏、らいすき、うし偏は活字では縦画がとめた形になっていて、て偏、けもの偏では縦画がはねた形になっているが、手書きの文字(筆写体)では縦画のとめはねなど全く気にする必要がないことが分かるだろう。(「相」の部首は木偏ではなく、目である。)ここに例示した偏の活字の縦画がとめた形になっていたり、はねた形になっていたりするのは、活字のデザインにすぎない。

 次に「天」である。「天」を『大書源』で見てみよう。

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 ご覧の通り「天」はほとんどの字で上の横画が短く、下の横画が長く書かれてい

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る。現在の日本の活字の「天」は上の横画が下の横画より長い形になっているのは、これも直接的には当用漢字字体表で上の横画の方が長い字形が示されたからである。しかしその元をたどるとやはり康煕字典で、上の横画の方が長い字形が示されていることが影響していると考えられる。この場合も「木」、木偏と同じで、康煕字典では「天」は上の横画の方が長い字形で示されているが、やはり陳邦彦の序分では「天」は上の横画が短く、下の横画が長い字形で書かれている。活字と手書きでは字形が違うのである。

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 「天」は甲骨文では右に示す形である。「人の頭部を大きく強調して示し、うえ・いただき・そらの意味を表」している(『漢語林』)。字源から考えても、上の横画の方を長く必然性はない。
 「天」は当用漢字字体表(昭和24年)で上の横画の方が長い字形が示されたが、教科書では昭和35年までは上の横画の方が短い字形であった。それが昭和36年の教科書体の改定で全社そろって上の横画の方が長い字形に改変された。詳しく知りたい方は『漢字字形の問題点』をお読みいただきたい。
 日本の活字の「天」は上の横画が下の横画より長い形になっていると前述したが、わざわざ「日本の活字」と書いたのは台湾や中国の活字では上の横画の方が短い字形になっているからである。台湾では繁体字、中国では簡体字が使われていて、日本の

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漢字とは異なる字体の漢字が多いが、「天」は同じ字体である。それなのに台湾と中国の活字では「天」は上の横画の方が短く、日本の活字では上の横画の方が長い。このことからも「天」の上の横画を下の横画より長く書かなければ誤りであるなどとすることが、間違いであることが分かる。右に台湾の国民小学、国民中学の教科書で使用される国字標準字体の「天」を示しておく。

 赤池誠章議員は「令」も例に挙げて、説明を求めているが、何を質問しているのか非常に分かりにくい。多分教科書体は手書きに沿った形で字形が示されているのだから、明朝体のような字形で「令」を書くのは誤りである、と言いたいのだろう。確か

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に教科書体と明朝体では「令」の字形がかなり違っていて、教科書体では下部が片仮名の「マ」のような形になっている。手書きの場合は「マ」のように書くのが一般的だが、明朝体のように書いたら誤りというのは、暴論としか言いようがない。小学校の教科書では教科書体が使われているが、中学高校大学、それに一般社会では主に明朝体が使われている。それなのに教科書体のように書かなければ誤りだというのであれば、中学高校大学・一般社会で使われている字は誤字ということになってしまう。我々は毎日毎日、誤字で書かれた新聞雑誌を読んでいることになる。
 「令」と同じような例として、「女」が挙げられる。「女」は現行の教科書体では

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2画目の頭が3画目の横画の上に出ているが、明朝体では出ていない。私は小学校の校長をしていた知り合いから、「2画目の頭が横画の上に出ていない字はバツにしてきた」と聞いたことがある。日ごろ目にしていたはずの、2画目の頭が横画の上に出ていない明朝体の「女」を、誤字と思っていたのだろうかと不思議に思った。赤池議員は明朝体の「令」や「女」を誤字と考えているのだろうか。それならどうして誤字が一般的に使用されているのか、その理由を考えてみなければなるまい。
 教科書体の「女」は現行では2画目の頭が3画目の横画の上に出ている字形になっているが、そうなったのは昭和55年の改訂からである。昭和36年から昭和54年までは2画目の頭が3画目の横画の上に出ていない。だが昭和35年以前は2画目の頭が3画目の横画の上に出ている字形であった。小学校の教科書の「女」の字形はこのように変化している。これについても詳しく知りたい方は『漢字字形の問題点』をお読みいただきたい。
 「令」を『大書源』で見てみよう。

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 「令」の下部を「マ」のように書いている字が多いが、明朝体ように短い縦棒のように書いている字もある。「マ」のように書くのが一般的だとしても、明朝体のように書いてもいいのである。私は以前このブログで新しい元号が発表されたときに、「令」を教科書体のような字形で書いてほしかったと書いたことがある。なぜそう書いたかというと、20代と思われる高校の国語科の女性教員に、「令」の下部をどう書いたらいいのか分からないので教えてほしい、と言われたことがあったからである。小学校で「令」の下部を「マ」のように書くと習っても、以後の中学高校大学の教科書はほとんど明朝体の「令」だろうし、書籍・雑誌・新聞等でも明朝体の「令」ばかり見ているので、小学校で「マ」のように書くと習ったことを忘れたり、覚えていても「マ」と書く理由までは教えてもらっていないので迷ってしまう人が多い。手で書く場合は「マ」の字形に書くのが一般的で、明朝体のような字形は活字の字形といえるけれども、どうしても「マ」と書かなければならないということではない。明朝体のような字形で書かなくてもいいことを、確認してほしかったのである。
 赤池誠章議員はあまりに不勉強である。保護者の懸念の声は、保護者が子どものころに学校で正しいことを教わってこなかった証左であり、教育現場の混乱はまた教員の不勉強の証左でもある。混乱するから、正しくもなく大きな弊害でもあった、漢字の細部にこだわる指導を続けろというのは、ひどい間違いである。教員がしっかり漢字のことを勉強し、教え方をちょっと工夫さえすれば正しい教育ができる。教員に勉強と工夫を促すべきである。

 馳浩文部科学大臣の答弁で問題の箇所は、「文字を一点一画、丁寧に書く指導が行われる場合など指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もあることは勿論であります」のところである。この言葉については、このブログの「「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について」(2020.11.6)で詳しく説明してあるのでご覧いただきたい。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」は、指導した字形に沿った評価が行われる(具体的な例に言い換えると、教員が「木」の縦画をとめて書くように指導したなら、子どものはねて書いた字をバツと評価してもよいということ)ことが、漢字教育の大きな弊害となっていたので、その誤りを正すために出したものである。それなのに、この答弁で指針を出した目的が失われてしまった。この答弁が未だに続くでたらめな漢字教育の拠り所になっている。このことについては「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育」(2021.4.11)、「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育(2)」(2021.7.5)をお読みいただきたい。
 「木」の縦画をはねて書いても誤りではないことは前述した。「木」の縦画がとめてあるのは活字のデザインにすぎない。「木」の縦画をはねて書いた字をバツにすれば、漢字について間違った認識を子どもたちに植え付けることになる。絶対にあってはならないことである。繰り返して言うが、教員がちょっと教え方を工夫しさえすれば正しい指導ができる。教員に工夫を促すべきなのである。
 馳大臣は「児童生徒が、標準的な字体による漢字習得を通じて、生涯にわたる漢字学習の基礎を培う」と言っている。「木」は縦画がとめてあっても、はねてあっても、字体(文字の骨組み)は同じである。縦画をとめてあるか、はねてあるかは、字形の相違である。馳大臣は字体と字形の違いが分かっているのだろうか。抽象的な概念である字体と、具体的な文字の形状である字形との違いが、多くの教員を始め、一般の方にも理解されていない。字体と字形の違いを理解してもらうことが、正しい漢字教育を広めていく鍵になりそうだ。

 最後に馳文科大臣の答弁を受けての、赤池誠章議員の言葉についてである。「基本があって応用ですから、基本が大事ということで 」と言っているが、漢字の形を覚えるうえで、「応用」とはどういうことなのだろう。前掲の赤池議員の質問から考えると、「木」の縦画をとめて書くのが基本で、はねて書くのが応用、「天」の上の横画を下の横画より長く書くのが基本で、下の横画の方を長く書くのが応用ということになる。算数・数学なら新しい考え方や定理を学んで、それを使ってより高度な難しい問題を解くようなことを応用というのだろうが、「木」の縦画をとめて書くという基本を習って、縦画をはねて書くことが応用になるのだろうか。そんなことを応用というはずがない。赤池議員は自分の言葉が何を意味するのかを全く考えずに話している。自分の言葉の意味することをわからない者が、どうして結果に責任を持てようか。
 前回のブログに書いたが、漢字の基本(漢字の形を覚える基本)は、字体を覚えることにある。字体に影響のない(漢字の正誤に関係しない)漢字の細部にこだわることではない。教員は正しい字体を子どもたちに教えればいいのであって、正誤に影響しない漢字の細部にこだわることは、間違った漢字に対する認識を押し付ける害悪でしかない。

 漢字を知らない議員同士が国会で討論して、大切な大切なことが間違ったかたちで決められていく。あってはならないことである。

未だに続くめちゃくちゃな漢字教育(2)

 7月5日に出版された「AERA」(朝日新聞出版)に、「厳しい採点には家庭でフォロー」という記事が載っていた。(ネットでも紹介されている。)その記事の初めの部分を紹介する。

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 「小学校のテスト、採点が厳しすぎじゃない?」
 保護者の間で毎年のように繰り広げられるこんな会話。特に、入学したての小学校1年生の保護者にとっては、点数がつけられたテストを受け取るのは初めてという家庭も。担任の厳しい採点に驚く親も多い。
「漢字のテストはとめ、はね、はらいができていないと全て✖。そこまで厳しい必要ってあります?」
 ネット上にはこのとめ、はね、はらいの細かなミスで「0点をもらった」という家庭もあった。こうした厳しい採点は漢字のテストに限られたことではない。保護者が理解に苦しむのが他教科での採点だ。低学年の子をもつある保護者は言う。
 「『正しい絵に〇をつけましょう』みたいな問題がありますよね。あれの〇がひしゃげてゼロに見えるというので✖にされていました。選んだ絵は合っているのにです。これでは子どものやる気が無くなりそうで心配です」
 容赦なく✖になるテスト。子どもの気持ちを萎えさせない方法はあるのだろうか。
 実は漢字の表記については数年前に物議を醸した一件があった。手書きの文字と印刷文字との違いが理解されにくくなったとして、文化庁が2016年に「常用漢字表の字体・字形に関する指針について」という文書を出したのだ。

大人は曖昧表記OK

 例えば、令和の「令」の字などを手書きで書く際、人によって若干表記のゆれがあるが、銀行などに提出する書類を書く際には、明朝体など印刷される字形通りに書くよう指示されるケースがあった。
 文化庁では手書き文字と印刷文字の表し方には習慣の違いがあることを考慮し、細部に違いがあっても字体の枠組みから外れていなければ、その字として認めるという方針だった。
 具体的には、「木」という漢字の場合、2画目の縦棒の最後がたとえ少しはねていようと、「木」という字の形を崩してはいないため、「木」として認めるというのだ。
 しかし、小学校では2画目はとめで習うため、もしもはねてしまえば✖になる。当時、学校での指導との関連性を問われた文化庁は「これまでの学校における漢字指導の考え方が変更されるわけではありません」とし、「教科書体を標準として指導を行うことを求めていく」と回答した。
 つまり子どもについては別問題で、以前と変わらず学習指導要領に示される「学年別漢字配当表」を標準として指導するというのだ。基本の型を知らずに我流を通すのはただの「形無し」。確かに、基本を押さえることの大切さも分かる。

褒めてやる気をアップ

 長年、塾などで幼児から低学年の子どもの教育に携わる子育てアドバイザーの中山淳子さんは「学校で✖をもらった時には家庭でのフォローが大切です」と話す。
 「学年が上がるにつれて学習内容も増えるので、教員がここまで丁寧に教えられるのは低学年のうちくらいです。その後に迎える中学受験や大学受験でも、厳しく採点されるので、低学年のうちにしっかりと基本を身につけておくのは大事なことだと思います」(以下省略。この後には子どものやる気を無くさないための、中山さんの適切なアドバイスが掲載されている。)

 文化庁は2016年(平成28年)2月29日に「常用漢字表の字体・字形に関する指針」を出し、その後、「指針」は4月30日には三省堂から236ページもある本として出版された。AERAの記事では「物議を醸した」と記述されているが、「指針」に対して漢字の研究者は反対するはずもないが、それまでとめ、はねなどにこだわってきた教員たちからの反発の声も聞かれなかった。ただし子どもを持つ親などからは戸惑いや反対意見が出された。「指針」はもっと明確な判断を示して欲しいところが若干あるものの、内容的には画期的で、妥当な考えを明示した素晴らしいものであり、とめ、はねなどにこだわって教えてきた無知な教員などが反対意見を出せるものではない。
 漢字研究で著名な阿辻哲次氏は『漢字を楽しむ』(講談社現代新書)で、とめ、はねなどにこだわって教えている教員を「その先生は教育に「きびしい」のでもなんでもなく、漢字に関する正確な知識がなく、どのように書くのが正しいのか自信をもって指導できないから、単に教科書や辞書などに印刷されているとおりでないと、安心して「正解」とできないだけのことです」と以前から痛烈に批判していたし、教員が反発の声を上げないので、私は100年以上も続いたこの誤った漢字教育(このブログの「漢字の細部にこだわった採点は戦前にもあった」(2020.7)や「筆順について」(2019.12)を参照)も、ついにこの「指針」によって解決されると考え、このブログのリンクから見ることのできるホームページ「漢字の採点基準」の「現状」に、これからは教員に「指針」を徹底的に勉強してほしいとの思いで「これまで学校で正しく教えてこなかったつけを、今後教員は支払っていかなければならない」「親が納得できるように正しいことを説明できる学力、見識が教員には求められる」と書いた。この時は教員を信じたいという気持ちが強かったのである。
 しかしである(案の定と言った方が適切かもしれない)、やはりとめ、はねなどの漢字の細部にこだわった、でたらめで、有害な漢字教育は続いていたのである。そもそも常用漢字を教えていながら、多くの教員が常用漢字表(付)字体についての解説(「指針」は(付)字体についての解説をより分かりやすく具体的に説明したもの)すら見ずに、自分の思い込みだけでめちゃくちゃな漢字教育をしていたのだから、そんな教員が「指針」が出されたとはいえ、「指針」を徹底的に勉強して、自分の過ちを正していくと期待することが間違っていたのである。一般的には日本の教員は真面目でレベルが高いと思われているが、決して知的なレベルは高くない。私はまだ現役の教員だった時に研修会などに出席して、教員が漢字以外でも間違った発表をしているのを度々目にした。教員は仕事量が多くそれをこなすだけで精一杯で(教員が多くの仕事をこなしていることについては、私も大いに評価している。教員はよくやっていると思う。教員の仕事を減らすことは急務である。教員の多忙化は教員の学力低下につながり、それは当然子どもたちの学力低下につながっていく)、十分な勉強ができていない。

 また記事には「学校での指導との関連性を問われた文化庁は「これまでの学校における漢字指導の考え方が変更されるわけではありません」とし、「教科書体を標準として指導を行うことを求めていく」と回答した」とある。平成20年の小学校学習指導要領解説国語編・第4章指導計画の作成と内容の取扱いには次のような記述がある。(文頭の(ウ)とは、「(ウ)漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること。」を指す。)

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  ここに児童の書く文字を評価する場合には考慮することが望ましいと書かれている常用漢字表の、「前書き」にある活字のデザイン上の差異、活字と筆写の楷書との関係、とはどういうものかと言うと、常用漢字表前書きには前述したように(付)字体についての解説があり、その第2明朝体と筆写の楷書との関係についてに、字体としては同じものであっても、「明朝体の字形と筆写の楷書の字形との間には、いろいろな点で違いがある。それらは、印刷文字と手書き文字におけるそれぞれの習慣の相違に基づく表現の差と見るべきものである」という記述があり、「木」が次のようにはねるかとめるかに関する例に挙げられている。

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 要するに「木」の2画目の縦棒は、とめて書いても、はねて書いてもどちらでもいいということが明示されているのである。「木」の縦棒は活字(印刷文字)ではとめて書かれているが、それは活字のデザインであって、手で書くときははねて書いてもいいのである。「木」の縦棒は活字としてはとめて表すか、はねて表すかしかなく、活字のデザインにはとめて表す方が採用されているというだけである。歴史的に見ても名筆といわれる作品の「木」はほとんど全て縦棒がはねて書かれている。それは紙に筆先に弾力性のある毛筆で書かれているので、2画目の縦棒から次の3画目に筆が移動するときに跡がついてはねたように見えるのであって、現在のように紙に筆先に弾力性のない鉛筆で書けば、意識して縦棒にはねをつけようとしなければ、ほとんどとめて書いたように見えてしまう。「木」の縦棒をとめて書くか、はねて書くかなど、正誤(〇か✖か)に何の関係もない。これについても詳しくはホームページ「漢字の採点基準」の現状をご覧いただきたい。
 次に平成29年に告示された現行の小学校学習指導要領解説国語編・第4章指導計画の作成と内容の取扱いでは、同じ個所がどう変更されたかを示す。

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 上に示した平成29年の学習指導要領解説の、最初から「児童の書く文字を評価する場合には、こうした考え方を参考にして、正しい字体であることを前提とした上で、柔軟に評価することが望ましい」までは、表現は違っているが前掲の平成20年の学習指導要領解説の内容と全く同じである。繰り返しになるが「常用漢字表の字体・字形に関する指針」は常用漢字表の前書きの(付)字体についての解説をより分かりやすく具体的に説明したものであって、その文字特有の骨組み(字体)が読み取れ、誰が見てもその字であると判断できれば、漢字の細部のとめ、はねなどで✖にしてはいけないという国(文化庁)の考えは、「指針」が出される以前から全く変わっていない。だから文化庁「これまでの学校における漢字指導の考え方が変更されるわけではありません」と回答したのは当然のことなのである。AERAの記事では、文化庁が「指針」の内容が行き過ぎだったので、元に戻したかのように受け取られる文章になっているが、そうではない。「指針」で示した考えは、以前と全く同じなのである。
 記事には「基本の型を知らずに我流を通すのはただの「形無し」。確かに、基本を押さえることの大切さも分かる」とあるが、このよく言われる考えは、漢字について基本ということがどういうことなのか分かっていない人の妄言である。「木」について言えば縦棒をとめて書くのが基本の型で、はねて書くのを我流と言っているのだろうが、「木」の縦棒をとめて書いた字も、はねて書いた字も、どちらも全く同じ正しい字で、その二字に優劣の差はない。「木」の縦棒をとめて書いた字が基本の型で、はねて書いた字は許容の型、とめて書いた字のほうがより良いなどということでもなく、はねて書いた字もとめて書いた字も全く同等に正しいのである。この同等に正しいということが、なかなか理解されにくいようだ。漢字には絶対的に正しいという字形は存在しない。全ての辞書に親字として示されている字も、全く同じ字形というものはなく、少しずつ全てが違っているし、誰の手書きした字でも全く同じ字形ということはあり得ない。ただ我々はそれらの字のどこかに共通点を見つけて、同じ漢字であると認識しているのである。学習指導要領解説で、「学年別漢字配当表」に示された漢字の字体を標準として指導することを示している。しかし、この「標準」とは、字体に対する一つの手掛りを示すものであり、これ以外を誤りとするものではない、と「標準」という言葉が使われているのは、絶対的な字形は存在しないから、「標準」と言っているのである。「木」という字を教えるには形として示すしかないから、縦棒をとめた形で示しただけであって、それは活字のデザインなのである。しかし学校では(特に小学校の低学年では)、「木」なら活字の縦棒がとめてあるのだから、活字のとおりとめて書くように指導するのが基本のはずだと主張する人がいるだろう。もちろん「木」の縦棒をとめて書くように指導するのは基本だろうが、だからといって縦棒をとめて書いた字が基本の型で、はねて書いた字が我流ということではない。とめて書いた字もはねて書いた字も、字体(文字の骨組み)としては違いがないのだから、どちらも基本の型なのである。どちらの字も優劣のない基本の型で、正しい字である。だから児童の書いた字が縦棒をはねて書いてあるように見えても、決して✖にしてはならない。教員が活字では「木」の縦棒がとめた字形になっているのは、デザインなのだということを念頭に置けば(デザインなんだと理解していれば)、縦棒をとめて書くように指導したのに、児童がはねて書いてしまったとしても、✖にはできないはずである。✖にしてしまえば、縦棒をはねて書いた「木」は誤字なのだという、間違った考えを児童たちに植え付けてしまう。
 「子どもの頃にしっかりと漢字の基本を身に付けさせるのが大切だ」などと言い、とめ、はねなどの細部にこだわった漢字指導を肯定する教員や保護者がいるけれども、もう一度繰り返して言うが、これは漢字の基本を分かっていない人の妄言である。漢字の基本とは字体(文字の骨組み)をしっかり身に付けさせることにある。とめ、はねが字体の違いに影響を及ぼさない場合には、とめ、はねにこだわる必要はない。とめ、はねはほとんどの漢字で字体の違いに影響を及ぼさないが、とめ、はねの違いで異なる字体になる(違う字種になる、言い換えると違った字になること)漢字として、「指針」は「干」と「于」を挙げている。例示されているのは「干」と「于」だけである。干(カン)は常用漢字であるが、于(ウ)は常用漢字ではない。「干」の縦棒がとめてあって、「于」の縦棒がはねてあるのはデザインではない。これは字体(文字の骨組み)である。この「干」と「于」の二字は縦棒のとめ、はねで見分けるのである。とめ、はねをしっかり教えなければならない漢字というのは、こういう漢字だけである。こういう漢字以外のとめ、はねにこだわることは、漢字教育にとって有害この上ない。漢字は意思を伝えるための手段なのであるから、誰が見てもその文字であると認識できれば、とめ、はねなどの細部にこだわる必要はない。例えば「木」(きへん)、「扌」(てへん)、「禾」(のぎへん)、「牛」(うしへん)の漢字などの、その偏の縦棒がとめて書かれていても、はねて書かれていても、決して他の漢字に見誤れることはない。そういう偏のとめ、はねにこだわる必要は全くないのである。では常用漢字で必ずはねなければならない漢字はというと、「芋」「宇」「越」の三字だけである。この三字だけは必ずはねなさいと教えればいいのである。詳しくはホームページ「漢字の採点基準」をご覧いただきたい。

 漢字の基本は字体(文字の骨組み)を身に付けること。漢字の細部にこだわることではない。

 このことを肝に銘じてほしい。
 次に前掲した平成29年の学習指導要領解説の上から11行目以下(一方、漢字の学習と書写の学習とを考えたとき~配慮することが重要である。)については、このブログの「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育」(2021.4.11)と「「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について」(2020.11.6)で詳しく説明してあるので、そちらをご覧いただきたいが、一言でいうなら「指導の場面や状況に応じて一定の字形を元に学習や評価が行われる場合もある」としても、それには「字体についての考え方を十分理解した上で」という前提がある。国(文化庁)は字体(文字の骨組み)が違っていなければ誤りとはしないという考えであるから、例えば「木」なら、たとえ縦棒をとめて書くように指導したとしても、児童がはねて書いたからといって✖にしてはならない。これからは、とめて書こうねと注意すればいいだけのことである。

 もう一箇所AERAの記事で気にかかるところ(間違っているところ)がある。それは中山さんの次の言葉である。「その後に迎える中学受験や大学受験でも、厳しく採点されるので、低学年のうちにしっかりと基本を身につけておくのは大事なことだと思います」。「中学受験や大学受験でも、厳しく採点される」とは、中学受験や大学受験ではとめ、はねなど活字のとおりに書かなければ✖にされるという意味なのだろうが、それは全くの思い違いである。こういう根も葉もない妄信が疑心暗鬼を生み、漢字の細部にこだわるめちゃくちゃな漢字教育を容認することにつながっている。
 「指針」の第1章常用漢字表「(付)字体についての解説」の考え方には、次のような記述がある。
 字体は骨組みであるから、それが実際に印刷されたり、手で書かれたりする場合は、活字独特の装飾的デザインや、人それぞれの書き方の癖や筆勢などで肉付けされた形で表れる。したがって、ある一つの字体が印刷されたり書かれたりして具体的に出現する文字の形は一定ではなく、同じ文字として認識される範囲で、無数の形状を持ち得ると言える。仮に、文字の形の整い方が十分でなく、丁寧に書かれていない場合にも、また、美しさに欠け稚拙に書かれている場合にも、その文字が備えておくべき骨組みを過不足なく持っていると読み取れるように書かれていれば、それを誤った文字であると判断することはできない。
 この「その文字が備えておくべき骨組みを過不足なく持っていると読み取れるように書かれていれば」誤字ではないという考え、言い換えると字体の違いに影響を及ぼさない細部の相違で誤字としてはならないという考えは、戦後国が当用漢字字体表、常用漢字表で一貫して示してきた考えである。この考えがなかなか浸透しなかったのは確かであるが、「指針」で初めて示された考えではない。
 また「指針」の第3章字体・字形に関するQ&AQ26には、「なお、改定後の常用漢字表においても、「(付)字体についての解説」の「第1 明朝体のデザインについて」や「第2 明朝体と筆写の楷書との関係について」の記載があることを踏まえ、児童生徒が書いた漢字の評価については、指導した字形以外の字形であっても、指導や場面の状況を踏まえつつ、柔軟に評価すること。」という記述のある文部科学大臣政務官通知「常用漢字表の改定に伴う中学校学習指導要領の一部改正等及び小学校、中学校、高等学校等における漢字の指導について」が、平成22年に常用漢字表が内閣告示として実施されると同時に示されたことが載っている。
 そしてQ27には、この文部科学大臣政務官通知を踏まえ大学入試に関連して、各国公立私立大学長・独立行政法人大学入試センター理事長宛に、前掲の「常用漢字表の改定に伴う中学校学習指導要領の一部改正等及び小学校、中学校、高等学校等における漢字の指導について」と同趣旨の文部科学大臣政務官通知「大学入学者選抜における常用漢字表の取り扱いについて(通知)」がこれも平成22年に発出されたと記されている。
 この二つの文部科学大臣政務官通知から、現在は中学入試でも、高校・大学入試でも常用漢字表の「(付)字体についての解説」及び「常用漢字表の字体・字形に関する指針」に示された基準で採点が行われている。「その後に迎える中学受験や大学受験でも、厳しく採点される」というのは全くの誤解である。
 さらにQ27には「不特定多数の人が受験する入学試験や採用試験については、何らかの理由により、正誤に関して特別な判断基準を必要とし、かつ、あらかじめ採点の基準を詳細に公開できるような場合を除いて、常用漢字表の「字体についての解説」及び当指針の考え方に沿った評価が行われることを期待します」記述されているが、「不特定多数の人が受験する」代表的な漢字検定でも、次のように採点の基本的な考え方を示している。

 その文字特有の骨組み(字体)が読み取れ、誰が見てもその字であると判断できれば、漢字の細部のとめ、はね、はらいなどの書き方によって不正解とすることはありません。
漢検では、
・平成22年内閣告示「常用漢字表」の「(付)字体についての解説」
文化審議会国語分科会報告「常用漢字表の字体・字形に関する指針」
などの公的資料に拠り採点しています。

 このように、現在では入試でも検定試験でも、漢字が出題される試験では全て「(付)字体についての解説」及び「常用漢字表の字体・字形に関する指針」に示された考え方で採点が行われている。「(付)字体についての解説」、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」に示された考えは妥当、正当な考えであるから、その考え方で採点するのは極めて当然のことである。

 未だに漢字の細部にこだわった、でたらめな漢字教育が行われているという記事を見ると、悲しくなる。とめて書いてあっても、はねて書いてあっても、別字に見えるわけでもないのに、とめやはねにはどういう意味があるのだろうと、どうして教員たちは考えないのだろうか。不思議である。
 学校でのでたらめな漢字教育に終止符が打たれることを切に願う。

三好京三『俺は先生』

 三好京三の『俺は先生』(昭和57年 文藝春秋)を読み、感じたことを書いてみたい。

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 三好京三昭和6年(1931年)岩手県に生まれ、平成19年(2007年)に亡くなっている。直木賞を受賞した『子育てごっこ』が特に有名である。三好は助教諭として種市町(現洋野町)立の小学校に勤務後、昭和37年(1962年)から衣川村(現奥州市)立衣川小学校大森分校に14年間勤務し、昭和53年(1978年)に教員を辞めて文筆に専念するが、生涯岩手県で暮らしている。

 『俺は先生』は「不死身の哲つぁん」と皆から呼ばれる小学校教師・郷内哲也が主人公の小説である。不死身と呼ばれることから想像されるように、哲也はバイタリティーにあふれ、人一倍(私から見れば超人的)教育に熱心でよく働く教師である。(こんな教師は現実的ではないと思われるところが、この小説の欠点かもしれないが、この教師の活動ぶりこそが終戦直後の混乱と活気に満ちた教育状況を教えてくれるようにも思える。)
 郷内哲也は昭和22年から国民学校の高等科を出た者たちが通う、村の実業学校の教師として勤務を始める。その後新しい学制がしかれ新制中学ができるが、校舎がないので元の分教場を手直した分室で、中学一年生から三年生まで27人を一人で教えることになる。教員は分室に一人であるから社会、国語、数学、理科、英語、音楽、体育、家庭など全教科を哲也一人で教えるのである。このあたりは終戦後間もない時期の状況が書かれていて実に面白い。
 哲也はその後、岩手県北部の僻地の小学校に勤務する。そこで教育こんわ会(教育研究サークル)を作り活動を始める。毎日毎夜子どもの文集、学級だより、教育こんわ会の機関誌などのガリ切りを超人的な精力とスピードでこなしていく。(ガリ切りとはガリ版印刷で原紙に鉄筆で書くことであるが、現在現役の小中高の教員でガリ切りをしたことがある者は皆無と言っていいだろう。私も小中の頃に先生がやっていたのを見て、一二度やったことがある程度である。ガリ切りはパソコンで打つことより、数倍も時間がかかり、労力がいることは言うまでもない。)
 子どもの文集は生活綴り方運動の継承から生まれたものだが、当時は学級のほぼ全員が貧乏な家の子であったから、子どもたちは自分の家の生活を見つめ、その貧しさを書いても恥ずかしくなかったのだろう。現在も子どもの7人に1人が貧困状態にあるといわれ、ヤングケアラーなどの問題も顕在化して、貧困の問題はなくなってはいないものの、経済格差の拡大した今、果たして貧しい家の子どもたちは自分の家の実状を隠さずに書くことができるだろうか。書けばいじめや蔑みにもつながりかねない。教員はそのようなプライバシーに関わる作文を書かせることに躊躇するのではないだろうか。私は高校の教員であったが、ほとんど生徒に作文を書かせたことがない。作文を書かせるとしたら現代文の時間だろうが(表現は履修科目にしていない学校が多い)、とにかく授業を先に進めなければならず、作文に割ける時間などなかった。
 学級だよりというと、私は昭和60年(1985年)に当時新潟県で最も荒れていると言われていたk高校に赴任したが、k高校の教員の多くが競って学級だよりを毎日のように出していたことが思い出される。教員は学級だよりを卒業の時に製本して生徒に渡していた。その教員たちの熱意には感心させられるばかりであった。しかし私は感心するばかりで自分にはできそうもないと考えて、クラス担任になった時には端からが学級だよりを出すことを諦めた。
 教育こんわ会の活動は組合教研につながるものだが、私が昭和60年に新潟県の教員になったころは新潟県の高教組では、支部教研が10月の2学期中間テストの午後に会場は支部内の高校の持ち回りで開催され、そこで選ばれた者が県教研で発表した。そのころからすでに教研はかなり形骸化していたが、それでも最近まで支部教研も開催されていた。今はどうも支部教研はなくなり県教研だけになったようである。組合に加入する者が少なくなり、あまりにも仕事が忙しくなって、教研が成り立たないような状況になっている。
 お互いの教員としての成長を促す教研こそ、組合の最重要活動であると思う。組合が組合員であることを理由に不勉強な教員でも助け、教員の生活を守るだけの組織になってはほしくない。

 私が『俺は先生』を読んで一番に感じたことは、教員が自由だったということである。教材や教具など全てのものが不足していたが、学校には教員が自分のやりたいと思うことをやれる自由があった。だからこそそこに素晴らしい実践活動が生まれたのである。今の学校は物はそろっていても教員に自由がない。だから活気もない。教員は手に余るほどの仕事を押し付けられて、それをこなすだけで精一杯。その上自由がなければ疲弊するだけである。これをやりたいと思い、それをやれる自由があれば、そこに活気が必ず生まれるはずである。
 『俺は先生』は小説である。事実の記録ではない。しかし小説はその時代を背景にして書かれている。だからそこには記録性が備わっている。単なる記録より、小説の方がグッと時代の香りが伝わってくる。記録性は小説の重要な要素である。ぜひ多くの教員や教員を目指す若い人、教育に興味のある人にこの本を読んでほしい。そして今の教育に欠けているものは何かを考えてほしいものである。

 最後に『俺は先生』の第九章「かなづかい」は、とても興味深かった。昭和21年に「現代かなづかい」が告示される。(ちょうど40年後の昭和61年には、その改訂版である現行の「現代仮名遣い」が告示される。)「現代かなづかい」は歴史的仮名遣いからの歴史的大変換である。「現代かなづかい」に批判があったことは知っていたが、そのかなづかいが定着するまでに、様々な取り組みがあったことを私は全く知らなかった。これもこの小説が持っている優れた記録性の一例である。