より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

漢字の細部にこだわった採点は戦前にもあった

 「木」(木・木偏)の縦画をはねると✖、というような細部にこだわった採点は、戦後、それも受験戦争が激しくなった昭和40年代に始まると言われることが多い。受験生の学力レベルが上昇し、以前と同じでは差がつかなくなったので、有名私立中学の入試でそのような漢字の細部にこだわった採点を始めると、まず進学塾がそれに対応し、たちまち塾だけでなく学校にも広がっていった。漢字の場合は小学校で習う漢字の範囲は決まっているので、難しい漢字を出題することができないという事情があり、そこで書かれた漢字の細部を見て、差をつけようとしたのである。確かに受験戦争の激化でエスカレートしたということはあったのだろうが、実は漢字の細部にこだわった採点は戦前から行われていた。

 前回のブログ「常用漢字表について」に書いたが、昭和6年にも常用漢字表が発表されている。その常用漢字表1858字の字体を整理したのが、昭和13年に答申された「漢字字体整理案」である。この「漢字字体整理案」は保科孝一の漢字字体整理案、凡例、第一種文字 第二種文字、漢字字体整理案ノ説明、常用漢字表中字典体ヲ採用スル文字 から成っているが、その保科孝一の漢字字体整理案に次のように書かれている。(保科孝一明治30年代から約50年間もの間、国の国語国字問題研究調査の中心にいた人物。上田萬年の弟子で東京文理科大学教授。)

 現在の新小学読本は「木」の縦線ははねて居ないが、旧小学読本では「【Ⅰ】」のごとくはねて居る。そこではねる方が正しいか、はねない方が正しいかについて、兄と弟が相争ふことも珍しくない。「【Ⅱ】」は日の上に点があるのだが、社会の慣用は大概この点を省いて居る。その点の存在すら気づかぬ人も多いのであるが、小学児童が書取の際、木の縦線をはねたり、【Ⅱ】の点を忘れたりすると、罰点をつけられる。

f:id:chikaratookamati:20200711082205j:plain また次のようにも書いている。

 現今わが国民教育における漢字教育は、すこしく厳正に過ぎる傾がある。書取の考査において、一点一画の微といへども康煕字典や国語読本所掲の字体にそむくことが許されない。もちろん、一点一画がその生命になつている文字もあるが、社会の慣用から顧みられない様になつて居るものまで、厳重に考査するのはどうかと思ふ。たとへば、【Ⅱ】【Ⅲ】【Ⅳ】等における日の上の点は、社会の慣用からほとんど忘れられて居るものであるのに、この点を忘れたからといつて、罰点を附することは、すこしく酷ではなからうか。【Ⅴ】を「朝」と書き、記を「【Ⅵ】」と書くと罰点になるのも同様で、これらをすこしく緩和することが、今日の国民教育上もつとも必要であると信ずる。社会にひろく慣用されて居るものを無視して、ひたすら康煕字典体か国語読本体に拠らしめ、一点一画の微といへども、寛容しない現在の漢字教育は、すこしく行き過ぎて居る感がある。小学児童が書取の為に、いかに苦しむか、これが為に、かれらの精神的に、はた生理的に蒙る痛手は、神経衰弱や近視眼となつてあらはれて居るので、これはおそらく早晩教育審議会の重要な議題となるのであらうが、国語審議会としても黙過するに忍びない問題であるから、同会の総意として、これに対する善処方を南会長から荒木文部大臣にしたしく要望されたのである。これは文部省としても真剣に考慮されて然るべき重要な問題であると思ふ。

 この保科孝一の記述から、戦前にも学校で漢字の細部にこだわった採点がなされていたことが分かるが、戦前には現在と違って様々な字体の漢字が使われていたという問題もあったから、学校の先生がどんな基準で書き取りテストの採点をしていたのか想像することさえも難しい。
 保科孝一は「国語読本所掲の字体にそむくことが許されない」と書いているが、その国語読本所掲の字体が実に様々なのである。次に示すのは6年生用の尋常小学校読本(第二期 国定国語教科書、明治末から大正初期に使用された)から抜き出したものである。

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 ➀は「陰」、②は「隔」、③は「稽」、④は「構」、⑤は「別」、⑥は「察」、⑦は「點」(点の旧字体)、⑧は「亂」(乱の旧字体)、⑨は「對」(対の旧字体)である。ここに示したのはほんの一部である。これが本当に同じ教科書で使われている字体なのである。この時期の国語読本は活版ではなく、木版であったせいもあるのだろうが、このように実に様々な字体の漢字が使われていて、先生はどれを基準に採点したらいいのか迷ったことだろう。保科孝一が書いているように、漢字の細部にこだわった採点をしている先生もいたのだろう。しかし、多くの先生は何を基準にしたらいいのか分からずに、子どもたちから不満の声が上がらないように、経験を頼りに採点していたのではないだろうか。

常用漢字表について

 現行の常用漢字表を2代目の常用漢字表だと思っている人が多いだろうが、実は大正12年昭和6年にも同じ常用漢字表という名称で官報に漢字表が公示されているので、現行の常用漢字表は4代目の常用漢字表ということになる。4つの常用漢字表は次の通りである。

1、常用漢字表・・大正12年5月9日の官報に公示された。

2、常用漢字表・・昭和6年6月3日の官報に公示されたもので、大正12年常用漢字表を修正したもの。1858字。

3、常用漢字表・・昭和56年10月1日に内閣告示されたもので、1945字。

4、常用漢字表・・平成22年11月30日に内閣告示されたもので、昭和56年の常用漢字表を改定したもの。2136字。

 大正12年常用漢字表の字数を明示しなかったが、その字数が幾つなのかが、このブログで述べたいことである。

 大正10年に文部省に設けられた臨時国語調査会(会長は森鷗外)は、大正11年11月16日の総会で常用漢字表(1963字)を決定し、翌大正12年5月1日の総会で略字表(154字)を決定した。これを文部大臣に報告し、常用漢字表大正12年5月9日の官報に、略字表を次の5月12日の官報に公示した。5月9日の官報には常用漢字表の前に、「本会は、昨年一月から数回各特別委員会を開いて常用漢字及び略字を選定し、五月二日の総会でその決定を見た。所定の常用漢字総数一九六三字(内二字は略字採用)略字数一五四字である」との説明(総会の日時が5月1日ではなく、5月2日になっている)があり、また5月12日の官報には略字表の前に、臨時国語調査会幹事・保科孝一の「決定された常用漢字及び略字について」という常用漢字表・略字表を説明した文が載っていて、そこには「「辨」「辯」が「弁」となり、「餘」「余」が「余」になるために、常用漢字の一千九百六十三字が一千九百六十一字になるわけである」と書かれている。

 この大正12年に公示された常用漢字表を修正したのが、昭和6年6月3日の官報に公示された常用漢字表(1858字)である。と言っても官報に公示されたのは大正12年常用漢字表から削る漢字147字と新たに常用漢字表に加える漢字45字で、1858字全てが示されているわけではない。臨時国語調査会幹事・保科孝一は、その公示された漢字の後に「本案は常用漢字表一千九百六十字中より百四十七字を削り、更に新に四十五字を加えたので、結局百〇二字減じて総数一千八百五十八字になった」と書いている。

 保科孝一常用漢字の数を大正12年5月12日の官報には一千九百六十一字(1961字)と書いていたのに、昭和6年6月3日の官報には一千九百六十字(1960字)と書いていて、1字数が違っている。どちらが正しいのだろうか。削る漢字が147字で、加える漢字が45字、結局102字減るのが正しいことは、昭和6年6月3日の官報を調べるとすぐに分かる。すると102字減じて1858字になるのだから、大正12年常用漢字表は1960字というのが正しいようである。

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 今野真二氏の『常用漢字の歴史』(中公新書、2015年発行)には、「この臨時国語調査会は、漢字の調査から着手し、大正十二年五月九日に、一九六三字種から成る「常用漢字表」を発表した。また同月十二日には一五四字を載せた「略字表」を発表した。「略字表」において、「辨」「辯」二字種の略字として「弁」を認め、「餘」「余」二字種の略字として「余」を認めているので、これらの略字を使うとすれば、この「常用漢字表」に載せられている字種は、一九六〇字種ということになる」(P62,P63)と書かれているが、この説明は納得できない。なぜなら「餘」と「余」が「余」になるので1字減り、「辨」と「辯」を「弁」にすると2字減って1字増えるのであるから、3字減るのではなく、2字減るだけで 、1963字引く2字で1961字のはずである。

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 納得できる説明を見つけることができなかったので、『明治以後の漢字政策』(井之口有一日本学術振興会)に掲載されている大正12年常用漢字表と照らし合わせながら、大正12年5月9日の官報に載っている常用漢字表を直接調べてみた。(官報は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。)下に官報の画像を載せるが、鮮明ではないので、直接国立国会図書館デジタルコレクションを見ていただきたい。しかし、残念ながらその国立国会図書館デジタルコレクションで見ることのできる画像も、それほど鮮明なものではない。

 大正12年5月9日の常用漢字表を掲載している部分の官報である。

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 この2枚目の右下の部分を拡大する。

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 一番右端の列の一番下の漢字と、次の列の一番上の漢字をご覧いただきたい。鮮明ではないので分かりにくいが、共に「障」に見える。
 また(魚)の列の4番目と5番目の漢字をご覧いただきたい。これも鮮明ではなく分かりにくいが共に「鯛」に見える。
 なんと大正12年5月9日の官報に公示された常用漢字表には、2か所で同じ漢字が2回掲載されいて、総字数は1964字なのである。(総字数は何度も何度も確認した。)
 1964字の内、2字が同じ漢字なので、1964字引く2字で1962字となり、さらに「辨」「辯」が「弁」となり、「餘」と「余」が「余」になるので、1962字引く2字で1960字となるのである。本当にこういう事実は、資料に直接あたって、調べてみなければ分からないことである。調べてみると、こうした面白いこと(面白いと思える人は少ないかもしれないが)に出会えることもある。

 さて、この大正12年常用漢字表であるが、凡例に「一、本表にない漢字は仮名で書く。」とあって、政府機関から発表された漢字制限案として、最初のものである。東京、大阪の20の新聞社は、紙上に常用漢字表に従って漢字制限を実行する予定であったが、関東大震災のために実施することはできなかった。

アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)

 新学習指導要領の目玉の一つが、アクティブ・ラーニングである。「主体的・対話的で深い学び」を目指し、教員が知識を教える一方的な授業ではなく、児童生徒が互いに意見を交わしながら理解を深める授業方法のことを言う。この文部科学省が推薦し、教育界でブームとなっているアクティブ・ラーニングについて考えてみたい。

 4月9日の新潟日報に「変わる学び」として特集記事が載っていた。

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  記事の左上「こんな授業をします」をご覧いただきたい。文部科学省が示した授業例を参考に、記者が考えた社会・日本史の授業例である。確かにこういう授業が文部科学省の考えている授業方法(アクティブ・ラーニング)なのだろう。
 しかし考えてみてほしい。教員が「1543年、鉄砲伝来。テストに出します。」と言い、「どうして1543年にポルトガル人が伝えたのだろう?」と発問することから生徒の対話は始まる。生徒は本当に鉄砲が種子島に伝わった歴史的背景に興味があるのだろうか。教員が調べてみようと言うから、調べてみようかというだけなのではないか。生徒が主体的に鉄砲伝来の歴史的背景を調べてみようと言いだしたわけではない。まずここが一つの疑問点である。
 生徒の対話が始まり、「どうして種子島に?」「なんでポルトガル人が日本に来たのか」「そのころのアジアの他の国は」「鉄砲を作る製鉄技術は」と疑問が出てくる。こういう疑問が生徒から出てくるのはいいが、知識のない生徒同士で「歴史的背景を子どもたちで議論し合」うことができるのか。議論するとなれば、教員が資料を用意してやるしかない。教員が用意した資料を基に議論するのであれば、それを主体的学びといえるのか。これが二番目の疑問点である。
 そもそもなぜ生徒同士で話し合わなければならないのか。なぜ対話的でなければならないのか。一人で考え、一人で調べたい生徒もいるのではないか、いていいのではないか。私はそういう生徒だった。生徒同士で話し合うとなると、その生徒がいい考えを持っているわけでもないのに、どうしても押しの強い生徒が中心になる。うっとうしいだけである。これが三番目の疑問点である。
 こういう授業は形はアクティブ・ラーニングであっても、「主体的で深い学び」になっているのだろうか。「対話的な深い学び」というのは、はたして浅学な者同士ができることなのだろうか。専門家同士が知識をぶつけ合って考えを深めていく、そんな場合にしか「対話的な深い学び」は成立しないのではないか。

 前回のブログで、長年矯正教育に携わて来た人の言葉「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない」(『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治著、新潮新書)を紹介した。子どもが自ら「心の扉」を開けるような授業であれば、それがアクティブ・ラーニングという形をとらない、知識を教える一方的な授業であってもそれでいい。授業の形などどうでもいいのである。知識を教えながら、その中で生徒の興味を引き出すようなエピソードを紹介したり、少しマニアックであっても教員が自分で面白いと思ったことを徹底的に調べて話してやったりすることで、生徒が「心の扉」開いて自分でも調べてみようと思ったとしたら、その授業は「主体的で深い学び」につながる授業で、成功なのである。
 例えば授業で中島敦の「山月記」を教えたとする。生徒が「山月記」を面白いと思い、中島敦の他の小説も読んでみようと思うようなら、その授業は「主体的で深い学び」につながるいい授業で、成功なのである。私はそう考えている。(「山月記」の場合には、教員の授業が興味を引き出すような面白い授業でなくても、「山月記」それ自体に、生徒が中島敦のほかの作品も読んでみたい思わせる力がある。それこそが名作の名作たるゆえんである。私は高校時代に「山月記」や鴎外の「舞姫」、漱石の「こころ」、賢治や光太郎の詩、啄木や茂吉、八一の短歌、「奥の細道」や「平家物語」、李白杜甫、王維の漢詩、そして司馬遷の「史記」などに感動して、どうしたら自分でも書けるようになるのだろう、書いてみたいと思い、それが主体的に学ぶきっかけになった。教員にはそれらの名作の持つ力が助けになる。この観点からも国語教育では詩歌にしろ小説にしろ、現代文であっても古文・漢文であっても、名作を取り上げることは極めて重要な意味を持っている。今回の学習指導要領の改定で、国語の授業で文学作品を教える機会が減りそうであるが、それは必ず生徒の主体的な学びを妨げることにことになるだろう。)

 この新潟日報の記事の中に、「源氏物語にある『やんごとなき思い』とは、誰の、誰に対する、どういう思いなのだろうか」「これまでの古典の授業では『やんごとなき』は『特別な』という意味」などと、現代語訳を中心に教えてきた。しかし、ALでは自分が登場人物だったらと生徒が想像し、物語の内容を理解していく」と書いてあるが、こんなことは無理やり形だけAL(アクティブ・ラーニング)にしただけで、無意味である。
 「やんごとなき思い」とは、桐壺帝が弘徽殿の女御との間にできた一の御子に抱く「おほかたのやむごとなき御思ひ」のことを指すと思われる。桐壺帝は更衣との間にできた若宮(光源氏)を「私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし」で、一の御子に対しては「おほかたのやむごとなき御思ひ」(一通り大切に思われるだけ)なのである。この箇所は正しく現代語訳ができさえすれば、何も問題になるような箇所ではない。「自分が登場人物だったらと」想像し、話し合わなくては理解できないようなところではない。(物語・小説を読むときには、誰しも無意識のうちに登場人物の気持ちを自分の経験に照らし合わせ、自分と登場人物を一体化させて読んでいる。ことさら「自分が登場人物だったらと」想像する必要はない。)話し合わせる必要などないところを、アクティブ・ラーニングの形にしようと、生徒に話し合わせているだけである。話し合わせてもいい箇所と必要のない個所とを、教員が見極めることができずにごっちゃにしていて、どこで話し合わせてもいいと思っているのである。

 文部科学省がアクティブ・ラーニングと言いだすと、自分でよく考えもせずに、すぐにそれ合わせようとする教員が出てくる。ブームに乗ろうとするだけで、自分では全く「主体的で深い学び」をしようとしない、そんな教員が実に多い。
 子どもが自ら内側についている取手に手をかけ、心の扉を開けるような授業をするにはどうしたらいいか、教員はいつもそのことを心にかけて授業をしていかなければならない。アクティブ・ラーニングなどという授業形式に飛びつく必要はない。