より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

ネット上の「常用漢字表の字体・字形に関する指針」について

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 平成28年(2016年)2月29日に文化審議会国語分科会から、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が出された。これが現在の日本における手書き(筆写)の漢字の正誤基準である。
 私は平成28年4月30日に三省堂から書籍として出版されるとすぐに購入した。目を通すと、次のような誰でも気づきそうな間違いが見つかった。

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  上は42ページの第2章・4・(2)・アにあった間違いである。(私が文化庁文化部国語課に電話して、ネット上の「常用漢字表の字体・字形に関する指針」では「隹」「言」の箇所は、令和2年(2020年)の9月末に正しく修正されている。「座」はまだ修正されていない。)

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 上は46ページの第2章・4・(3)・アにある間違いである。

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  上は41ページの第2章・4・(1)・オにある間違いである。「読」は間違いではないが、後の説明に関係してくるので、「読」がここにあることに注意していただきたい。他にも修正してほしい箇所はたくさんあるが、特に目立つのはこの3箇所である。

 私は3年ほど前に文化庁文化部国語課に電話して、間違いが見つかったら修正するのかと尋ねたことがあった。すると修正しているということであった。私は具体的にここが間違っているので、修正してほしいということは何も言わなかった。その時はただ修正しているのかを尋ねただけである。こんな目立つ箇所だから、すぐに気づいて修正するだろうと考えていた。
 しばらくして、ネットで ”常用漢字表の字体・字形に関する指針”と検索すると、上に示した3箇所が次のようになっている「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が見つかった。

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 「座」は修正されていないが、「隹」「言」の箇所は修正されている。

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 間違いは修正されている。

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 「読」がなくなって、「待 調」は修正されていない。

 私はこれを見て、このネットに表示された「常用漢字表の字体・字形に関する指針」を、てっきり修正された最新の指針と思ってしまった。他の2箇所は正しく修正されているので、「待 調」の箇所は、「待 調」が間違いであると気づきながら、誤って「読」を削除してしまった(間違いを修正して、また間違えてしまった)と思ったのである。
 修正されたのだと思って、他の箇所を見てみると、他にもかなり修正されていて、しかも修正が改悪になっている個所があるのに気が付いた。そこで私は、私が2年半ほど前に作成したホームページ・「漢字の採点基準」に次のように書いた。

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 指針の第3章・Q54の「離」に関する部分である。「離」の左側の部分「离」はムの部分を3画に数えるので、10画ではなく11画になる。赤い点線で囲まれている説明がいいと思うのに、そこが削除されて書き替えられ、「実際の画数よりも多く見える」例として「離」が挙げられている下のようになったと書いたのである。「離」は「実際の画数よりも多く見える」例ではなく、「実際の画数よりも少なく見える」例に挙げなくてはならない字なので、なぜこんな改悪をしたのだろうと思いはしたが、ホームページで指摘し、批判した。

 今年の9月(先月)、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」について少し書くことがあり、久しぶりにネット上の「常用漢字表の字体・字形に関する指針」を見直した。すると今まで気づかなかった箇所に、相当な修正があることに気が付いた。そこで文化庁文化部国語課に電話し、相当な修正があったかどうか尋ね、最新の(正しい)「常用漢字表の字体・字形に関する指針」はどこに表示されているのか(どうたどっていくと見ることができるのか)、改めて質問した。

 すると、文化庁→国語施策・日本語教育文化審議会国語分科会→報告・答申等→常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)(平成28年2月29日)とたどっていくと表示されるのが、最新の(正しい)「常用漢字表の字体・字形に関する指針」であるということであった。私は間違っている個所を指摘し、こんな誰にも間違いと分かる箇所が修正されていないのだから、最新のものであるはずがないと言ったが、やはりそれが最新の指針だという。私は間違いが、いつまでたっても修正されないので、これこそ平成28年2月29日に発表されたままの、修正されていない「常用漢字表の字体・字形に関する指針」で、修正された最新の(正しい)指針だとは思っていなかったのであるが、文化庁文化部国語課は間違いに気づいていなかったのである。
 では私が最新のものと思い込んでしまったものは何かというと、それは平成28年2月29日に報道発表された「常用漢字表の字体・字形に関する指針」であった。それは当日(平成28年2月29日)に開催された第60回国語分科会に資料として提出された案であり、その案がそのまま報道発表された。(第60回国語分科会と報道発表は同じ日であったから修正できるはずがなかった。)その後、書籍として三省堂から出版される4月30日までの2か月の間に、国語分科会で出た意見を踏まえて相当な修正が行われ、その修正の間に正しかったところまで間違って修正(改悪)してしまったのである。だから私は第2章・4・(1)・オで「読」が削除されたと思ったが、その逆で「読」は追加されたのだった。
 私は急いで今月の初めにホームページの間違えてしまった箇所を書き替えた。今は正しくなっている。今回の文化庁文化部国語課への電話では、間違っている個所をいくつか指摘した。今後ネット上でも修正され、書籍でも版が変わる時に修正されるということである。

 それにしても、皆さんもこんな私のような間違いをしないように注意してほしい。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」が発表された平成28年2月29日と同じ日に、第60回国語分科会が開催されたことは前述したが、そこで出された意見を踏まえて、指針には書き替えられてところがある。しかもその書き替えられたところこそ、私が指針の一番のひどい間違いであると思うところである。そのことについては次のブログに書きたい。

教育勅語について

 教育勅語は3年前(2017年)、森友学園の幼稚園児たちが暗唱していたことで、再び注目された。このブログでは、教育勅語の内容については触れずに(教育勅語の解説書、いわゆる教育勅語衍義書は300冊以上出版されたという)、教育勅語の本文に使われている漢字の字形・字体について書いてみたい。

 「教育ニ関スル勅語」(以下、教育勅語という)は、1890(明治23)年10月30日に明治天皇の名前(睦仁)で渙発された。教育勅語天皇自身が臣民に呼びかけるかたちで書かれているが、起草したのは元田永孚(もとだながざね)と井上毅(いのうえこわし)で、二人は共に熊本藩士である。

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 教育勅語が出された翌日、1890(明治23)年10月31日の文部省訓令第八号に「訓示」とある文章で、「教育勅語ノ謄本ヲ作リ普ク之ヲ全国ノ学校ニ頒ツ」と述べているように、すべての学校に謄本が渡されました。天皇と皇后の写真である「御真影」は、選ばれた学校から渡されていったことと対照的です。翌年4月8日の小学校設備基準では御真影教育勅語の謄本を置く位置の整備が定められ、これも後には奉安殿などの特別の施設がつくられます。同年6月17日には小学校祝祭日大祭儀式規定が定められて、校長が教育勅語を読み上げて、演説することが定められました。このように、教育勅語の謄本を用いた学校儀式が、早くから実施されていたのです。 (高橋陽一著『くわしすぎる教育勅語』P144)

 教育勅語の謄本を用いた儀式は実施されてはいたが、教育勅語の謄本は普段厳重に保管されていたので、子どもたちはそれを見ることはできなかった。多くの子どもたちが見ていた教育勅語は、「修身」の教科書に掲載されていた教育勅語である。だが教育勅語明治23年渙発されて、すぐに「修身」の教科書に掲載されたわけではなく、掲載が始まったのは、1910(明治43)年度から順次発行された第二期国定教科書の4年生以上の「修身」の教科書である。(明治41年から尋常小学校は、それまでの4年制から6年制になる。)第二期国定教科書の「修身」の教科書は、4年生用は明治44年から大正9年まで使用された。5年生用は明治45年から大正10年、6年生用は明治45年から大正11年まで使用され、それぞれ翌年からは第三期国定教科書が使用される。
 教育勅語は「修身」の教科書の冒頭に全文が掲載され、4年生用にはふりがながついているが、5年生用・6年生用にはついていない。この教科書掲載によって、子どもたちに教育勅語を読ませ、書かせて、暗誦(暗唱)・暗書(暗写)させる指導が盛んになる。しかし当初は、教員自身が暗書できなかったようである。

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 兵庫県教育雑誌『兵庫教育』1911年2月号は興味深い実験結果を紹介しています。県内の御影師範学校で開設している講習科で尋常小学校正教員に暗書させたときの成績結果です。
 「総員37名、内校長1名訓導36名にして、年齢は最長51年2か月、最少22年8か月、平均36年6か月、其の正教員となりてよりの年数最も長きは25年6か月、最も短きは2年6か月なり。しかして全体に就て云へば、先づ可なるもの3名、甚しく不可なる者1名にして、謄本の通り完全なるものは1人もなし」
 そして「教師たちのまちがいについてみると〈我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ〉という重要なところをぬかしてしまった者が5名、〈此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス〉を落とした者4名、〈博愛衆ニ及ホシ〉と〈常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ〉をぬかした者がそれぞれ2名あった。大事なセンテンスをぬかしているのであるから〈国憲〉を〈国権〉、〈遺風〉を〈威風〉、〈一旦〉を〈一段〉と誤ったり、送りカナをまちがったりする類は無数であった。」(『兵庫県教育史』) (岩本努著『13歳からの教育勅語』P36~P37)

 教員も子どもたちを指導していくうちに、暗誦・暗書できるようになったのだと思うが、そこははっきりしない。

 次に示すのが、第二期国定教科書の4年生用の「修身」の教科書に掲載された教育勅語である。

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 次が同じく第二期国定教科書の6年生用の「修身」の教科書に掲載された教育勅語である。  

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  第二期国定教科書の「修身」の教科書は、活版ではなく木版印刷である。そのため漢字の細かな部分が分かりにくい。4年生用と6年生用とを見比べると、「憲」と「勇」の2字の字体が違っている。

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 「憲」は4年生用の教科書の憲も、6年生用の教科書の憲も旧字体(後で説明する)とは異なる字体である。「勇」は6年生用の教科書の勇は旧字体と同じ字体のようであるが、4年生用の教科書の勇は赤丸の部分が「田」になっていて、現在の通用字体と同じである。

 
 4年生用と6年生用の教科書とで違っているのは、「憲」と「勇」の2字だけであるが、その他に「弟」「済」「朕」「服」「朋」「博」「幾」の7字について説明する。次の表をご覧いただきたい。

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 次に『明朝体活字字形一覧』を基に作成した表をご覧いただきたい。この『明朝体活字字形一覧』は、1820年から1946年の間に、それぞれの漢字の明朝体活字がどのような字体に鋳造されていたかを、多くの活字制作会社の「見本帳」から抜き出して、文化庁文化部国語課が1999年に作成したものである。

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  教科書に掲載されている教育勅語の「憲」は、4年生用、6年生用共に旧字体とは異なっていると前述したが、『明朝体活字字形一覧』を見ると、どちらの字体の「憲」も存在する。旧字体とは当用漢字で採用された新しい字体、すなわち新字体に対してそれ以前に慣用されていた字体を指している。大体が康煕字典体と一致するが、当用漢字以前は字体は統一されていなかったので、一字一字の漢字について、旧字体と見なされる字体は必ずしも一定しない。
 「勇」も4年生用、6年生用教科書掲載のどちらの字体の「勇」もある。さらに上の「マ」の部分が「コ」になっているものまである。

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 「弟」は教科書のような、字の上の部分が「ハ」のような形になっている活字は1字もない。『大書源』(二玄社)にもそのように書かれているものは1字も掲載されてないが、『日本名跡大字典』に掲載されている空海が書いたという字にそう書かれているものがあった。第二期国定教科書を使った子どもたちは、「弟」の上の部分を「ハ」のように書くことがあったのだろうかと思っていると、BSプレミアム「英雄たちの選択」の「100年前のパンデミック~”スペイン風邪”の教訓」で紹介された、大正7年当時12歳の少女・井上正子さんの日記に上の部分が「ハ」と書かれている「弟」を見つけた。(大正7年10月30日と11月5日の日記。)「修身」の教科書に掲載された教育勅語の中にしか出てこない、上の部分が「ハ」の「弟」という字が子どもたちに書かれていたのである。ただし、それが一般的な書き方であったかは分からない。
 「済」は現行の小型の漢和辞典では、旧字体として示されているのは「濟」で、教育勅語の字体は掲載されていない。しかし『明朝体活字字形一覧』を見るとどちらの活字も存在している。
 「朕」「服」の月は舟月であるが、肉月のようになっている活字もある。「朋」はここで取り上げている9字の中で、唯一辞典に掲示されている旧字体康煕字典体と同じではない。
 「博」は旁の上の部分は「甫」であるが、4年生用、6年生用の教科書の「博」は、共に真ん中の縦線は下に突き出しているものの、「甫」なのかはっきりしない。
 「幾」は教科書の字のように、左下の部分が突き出している活字もあれば、突き出していない活字もある。

 こう見てくると、漢字の字体は一定しておらず、教育勅語の暗書指導が盛んであったというが、教員がどういう字体で子どもたちに書かせていたのか、疑問が残る。教員も漢字の字体が一定していないので、さぞ指導に困ったことだろう。

 最後に岩本努氏の『13歳からの教育勅語』に載っていた、1994年10月16日「朝日歌壇」に掲載された佐賀県・山領豊さんの歌を紹介する。

 若き日に競い覚えし勅語あり経典のごと遺りて消えず   【遺り(のこり)】

松尾芭蕉「銀河の序」と大星哲夫

 連日の猛暑には参ってしまいます。

 コロナがなければ、今年は友人と鳴子温泉から山刀伐峠、尾花沢、立石寺を訪ねてみようと思っていましたが、取りやめて9月に弥彦から寺泊、出雲崎という近場を訪ねることにしました。その下調べをしているうちに、「銀河の序」についてブログに書こうと思い立ちました。

 芭蕉は『奥の細道』では、ほとんど越後(新潟県)のことは書いてくれませんでしたが、「荒海や佐渡に横たふ天河」の序文ともいえる「銀河の序」という独立した文章を残してくれました。
 「銀河の序」の句文には多くのバリエーションがありますが、ほぼ二種類に大別できます。一つは「ゑちごの駅出雲崎・・・」という文で、出雲崎芭蕉園には、その芭蕉の真蹟を写した碑が立っています。もう一つは「北陸道に行脚して・・・」という文です。以下に二種類の全文を示します。


 ゑちごの駅出雲崎といふ処より、佐渡がしまは海上十八里とかや。谷嶺のけむそ(嶮岨)くまなく、東西三十余里によこをれふして、また初秋の薄霧立もあへず、波の音さすがにたかからず。ただ手のとどく許になむ見わたさる。げにや此しまはこがねあまたわき出て、世にめでたき島になむ侍るを、むかし今に到りて、大罪朝敵の人々、遠流の境にして、物うきしまの名に立侍れば、いと冷(すさま)じき心地せらるるに、宵の月入かかる比(ころ)、うみのおもてほのくらく、山のかたち雲透にみへて、波の音いとどかなしく聞え侍るに

 荒海や佐渡によこたふ天河

 

 北陸道に行脚して、越後の国出雲崎といふ所に泊る。彼(かの)佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難谷の隈々まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度(めでたき)嶋にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、ただおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほのぐらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆゑとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。

 あら海や佐渡に横たふあまの川


 比較すると、私は文意が明確な後者の方がいいと思います。

 芭蕉が「銀河の序」を書いてから、多くの詩人墨客が出雲崎を訪ねたようです。俳人では東華坊支考、廬元坊里紅(支考の弟子)、摩詰庵雲鈴など、頼三樹三郎頼山陽の第三子)、十返舎一九亀田鵬斎(書家・儒学者)も訪ねています。
 出雲崎といえばまた良寛の出身地でもあります。出雲崎亀田鵬斎良寛と出会い、親交を結ぶことになります。二人は次のような戯句を作っています。

 新(あら)池や蛙とび込む音もなし    (良寛

 古池やその後飛込む蛙なし        (鵬斎)

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 ここまでは、ほぼ昭和53年(1978年)に出版された、大星哲夫氏の『越後路の芭蕉』(冨山房)から引用して書きました。大星氏は新潟県の高校の教員をしていた方で、すでに亡くなっています。大星氏は『越後路の芭蕉』の自序で、『奥の細道』を研究するようになったのは東北大学の飯野哲二教授から奨められたからであると述べた後に「爾来、私は今日まで二十八年間、江戸(東京)を起点に美濃の大垣まで、細道の全域を歩いた。多い所は七八回、少なくも一回は足を運んでいる。地名を挙げても芭蕉自身は都合で行っていない所、例えば、姉歯の松・をえだの橋・金華山佐渡が島など、『細道』の本文に出てくる所はすべて踏査をすませた」と書いています。生前、大星氏は論文を三十篇以上も発表されたようですが、出版された本はこの『越後路の芭蕉』だけのようです。

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 大星哲夫氏の死後、御子息の光史氏が『越後路の芭蕉』の簡易版ともいうべき『越後路の芭蕉ズームイン』(考古堂)を出版しています。光史氏は『越後路の芭蕉ズームイン』のあとがきに次のように書いています。「毎年、夏休みになると、その二十日間ぐらいは、この奥の細道探訪に向けられる。連休やら、わずかな余暇を利用して写真機とリュックサック、時には、自転車を汽車で目的の場所に運んでおいて、各所を巡った。おそらく、同じ土地を平均五、六回は行っている筈である。写真も一万、二万といったケタ外れの枚数になったりした。父のやり方は、実地踏査――実際にその場所に行って、土地をみ、郷土史家と接し、地図と日時のこまやかな点まで照らし合わせ、文章内容で納得、一致を見ない限り引き下がらなかった。退職して、老衰と病に倒れるまでこの踏査はつづいた。母に言わせれば、父の「奥の細道」調査は、家族泣かせであり、金喰い虫以外の何ものでもなかった。芭蕉奥の細道に関係の書は棚をいっぱいに飾り、何台かの新しい写真器具、材料は、次から次へと購入された。毎年、数十日にわたる旅、父のエネルギーと財力――といってもたかが知れているが――すべてここへと向けられた。まさに執念というほかはない。厖大もない費用の割に、そこから得る収入はゼロであった。にもかかわらず、父にとって、これは、人生の何よりの生きがいであり、最高の仕事と自認していた。

 大星哲夫氏は、全生涯を『奥の細道』の研究に捧げた人と言ってもいいようですが、奥さんもよくその大星氏を支えたものです。大星氏の地道な調査は、越後路の芭蕉研究の先駈けとなった優れた研究です。感謝するしかありません。

 それにしても今の高校教師には、こんな研究をする自由(時間)はありません。40日はあった夏休みは、今はせいぜい4週間くらいですし(今年はコロナの影響で2週間くらいしかないようです)、その4週間の中に補習があり部活指導があり、研修もあります。自由に旅行ができるとしたらお盆の期間だけという状況です。普段の休日も、部活指導などで休めない状況にあります。1日の授業時間も増え、過労死ラインを超えて勤務している教師がいっぱいいます。こんな状況ですから、研究どころか授業の準備すら十分にしない教師が多くいます。確実に教師の学力レベルは下がっています。そこを問題にしないのは、全く不思議です。教師には研究もできるような自由(時間)が必要です。もちろん時間があっても大星氏ほどに研究に打ち込む教師は1万人に一人、いや10万人に一人かもしれません。それでも今よりも勉強に時間を割く教師は増えるでしょう。教師が研究できる環境が、教師の為にも、生徒の為にも必要で、教師が最高の仕事と思って研究している姿は、必ず生徒にいい影響を与えると思います。現役の教師の中に、研究することが面白くて、生徒に教えることがまた面白くて、教師という仕事に生きがいを感じている者がどれだけいるでしょうか。日々の仕事に追われて、惰性的に教えている教師が多いように思います。