より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

教育勅語について

 教育勅語は3年前(2017年)、森友学園の幼稚園児たちが暗唱していたことで、再び注目された。このブログでは、教育勅語の内容については触れずに(教育勅語の解説書、いわゆる教育勅語衍義書は300冊以上出版されたという)、教育勅語の本文に使われている漢字の字形・字体について書いてみたい。

 「教育ニ関スル勅語」(以下、教育勅語という)は、1890(明治23)年10月30日に明治天皇の名前(睦仁)で渙発された。教育勅語天皇自身が臣民に呼びかけるかたちで書かれているが、起草したのは元田永孚(もとだながざね)と井上毅(いのうえこわし)で、二人は共に熊本藩士である。

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 教育勅語が出された翌日、1890(明治23)年10月31日の文部省訓令第八号に「訓示」とある文章で、「教育勅語ノ謄本ヲ作リ普ク之ヲ全国ノ学校ニ頒ツ」と述べているように、すべての学校に謄本が渡されました。天皇と皇后の写真である「御真影」は、選ばれた学校から渡されていったことと対照的です。翌年4月8日の小学校設備基準では御真影教育勅語の謄本を置く位置の整備が定められ、これも後には奉安殿などの特別の施設がつくられます。同年6月17日には小学校祝祭日大祭儀式規定が定められて、校長が教育勅語を読み上げて、演説することが定められました。このように、教育勅語の謄本を用いた学校儀式が、早くから実施されていたのです。 (高橋陽一著『くわしすぎる教育勅語』P144)

 教育勅語の謄本を用いた儀式は実施されてはいたが、教育勅語の謄本は普段厳重に保管されていたので、子どもたちはそれを見ることはできなかった。多くの子どもたちが見ていた教育勅語は、「修身」の教科書に掲載されていた教育勅語である。だが教育勅語明治23年渙発されて、すぐに「修身」の教科書に掲載されたわけではなく、掲載が始まったのは、1910(明治43)年度から順次発行された第二期国定教科書の4年生以上の「修身」の教科書である。(明治41年から尋常小学校は、それまでの4年制から6年制になる。)第二期国定教科書の「修身」の教科書は、4年生用は明治44年から大正9年まで使用された。5年生用は明治45年から大正10年、6年生用は明治45年から大正11年まで使用され、それぞれ翌年からは第三期国定教科書が使用される。
 教育勅語は「修身」の教科書の冒頭に全文が掲載され、4年生用にはふりがながついているが、5年生用・6年生用にはついていない。この教科書掲載によって、子どもたちに教育勅語を読ませ、書かせて、暗誦(暗唱)・暗書(暗写)させる指導が盛んになる。しかし当初は、教員自身が暗書できなかったようである。

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 兵庫県教育雑誌『兵庫教育』1911年2月号は興味深い実験結果を紹介しています。県内の御影師範学校で開設している講習科で尋常小学校正教員に暗書させたときの成績結果です。
 「総員37名、内校長1名訓導36名にして、年齢は最長51年2か月、最少22年8か月、平均36年6か月、其の正教員となりてよりの年数最も長きは25年6か月、最も短きは2年6か月なり。しかして全体に就て云へば、先づ可なるもの3名、甚しく不可なる者1名にして、謄本の通り完全なるものは1人もなし」
 そして「教師たちのまちがいについてみると〈我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ〉という重要なところをぬかしてしまった者が5名、〈此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス〉を落とした者4名、〈博愛衆ニ及ホシ〉と〈常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ〉をぬかした者がそれぞれ2名あった。大事なセンテンスをぬかしているのであるから〈国憲〉を〈国権〉、〈遺風〉を〈威風〉、〈一旦〉を〈一段〉と誤ったり、送りカナをまちがったりする類は無数であった。」(『兵庫県教育史』) (岩本努著『13歳からの教育勅語』P36~P37)

 教員も子どもたちを指導していくうちに、暗誦・暗書できるようになったのだと思うが、そこははっきりしない。

 次に示すのが、第二期国定教科書の4年生用の「修身」の教科書に掲載された教育勅語である。

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 次が同じく第二期国定教科書の6年生用の「修身」の教科書に掲載された教育勅語である。  

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  第二期国定教科書の「修身」の教科書は、活版ではなく木版印刷である。そのため漢字の細かな部分が分かりにくい。4年生用と6年生用とを見比べると、「憲」と「勇」の2字の字体が違っている。

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 「憲」は4年生用の教科書の憲も、6年生用の教科書の憲も旧字体(後で説明する)とは異なる字体である。「勇」は6年生用の教科書の勇は旧字体と同じ字体のようであるが、4年生用の教科書の勇は赤丸の部分が「田」になっていて、現在の通用字体と同じである。

 
 4年生用と6年生用の教科書とで違っているのは、「憲」と「勇」の2字だけであるが、その他に「弟」「済」「朕」「服」「朋」「博」「幾」の7字について説明する。次の表をご覧いただきたい。

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 次に『明朝体活字字形一覧』を基に作成した表をご覧いただきたい。この『明朝体活字字形一覧』は、1820年から1946年の間に、それぞれの漢字の明朝体活字がどのような字体に鋳造されていたかを、多くの活字制作会社の「見本帳」から抜き出して、文化庁文化部国語課が1999年に作成したものである。

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  教科書に掲載されている教育勅語の「憲」は、4年生用、6年生用共に旧字体とは異なっていると前述したが、『明朝体活字字形一覧』を見ると、どちらの字体の「憲」も存在する。旧字体とは当用漢字で採用された新しい字体、すなわち新字体に対してそれ以前に慣用されていた字体を指している。大体が康煕字典体と一致するが、当用漢字以前は字体は統一されていなかったので、一字一字の漢字について、旧字体と見なされる字体は必ずしも一定しない。
 「勇」も4年生用、6年生用教科書掲載のどちらの字体の「勇」もある。さらに上の「マ」の部分が「コ」になっているものまである。

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 「弟」は教科書のような、字の上の部分が「ハ」のような形になっている活字は1字もない。『大書源』(二玄社)にもそのように書かれているものは1字も掲載されてないが、『日本名跡大字典』に掲載されている空海が書いたという字にそう書かれているものがあった。第二期国定教科書を使った子どもたちは、「弟」の上の部分を「ハ」のように書くことがあったのだろうかと思っていると、BSプレミアム「英雄たちの選択」の「100年前のパンデミック~”スペイン風邪”の教訓」で紹介された、大正7年当時12歳の少女・井上正子さんの日記に上の部分が「ハ」と書かれている「弟」を見つけた。(大正7年10月30日と11月5日の日記。)「修身」の教科書に掲載された教育勅語の中にしか出てこない、上の部分が「ハ」の「弟」という字が子どもたちに書かれていたのである。ただし、それが一般的な書き方であったかは分からない。
 「済」は現行の小型の漢和辞典では、旧字体として示されているのは「濟」で、教育勅語の字体は掲載されていない。しかし『明朝体活字字形一覧』を見るとどちらの活字も存在している。
 「朕」「服」の月は舟月であるが、肉月のようになっている活字もある。「朋」はここで取り上げている9字の中で、唯一辞典に掲示されている旧字体康煕字典体と同じではない。
 「博」は旁の上の部分は「甫」であるが、4年生用、6年生用の教科書の「博」は、共に真ん中の縦線は下に突き出しているものの、「甫」なのかはっきりしない。
 「幾」は教科書の字のように、左下の部分が突き出している活字もあれば、突き出していない活字もある。

 こう見てくると、漢字の字体は一定しておらず、教育勅語の暗書指導が盛んであったというが、教員がどういう字体で子どもたちに書かせていたのか、疑問が残る。教員も漢字の字体が一定していないので、さぞ指導に困ったことだろう。

 最後に岩本努氏の『13歳からの教育勅語』に載っていた、1994年10月16日「朝日歌壇」に掲載された佐賀県・山領豊さんの歌を紹介する。

 若き日に競い覚えし勅語あり経典のごと遺りて消えず   【遺り(のこり)】