より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

漢字指導における基本、応用

 漢字の細部にこだわる、誤った漢字指導がなくならない。そのことについて書いてきて、誤った漢字指導を擁護する人が使う言葉(用語など)について気づいたことがあった。そこで前回のブログで漢字の「字体」と「字形」を取り上げた。今回は漢字指導の「基本」と「応用」を考えてみたい。

 漢字指導の「基本」「応用」については、このブログの「漢字を知らない議員同士の国会討論」や「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育(2)」にも書いてきたが、この「基本」「応用」という言葉は、漢字教育では何を意味するのだろう。「基本」あっての「応用」などといわれるが、この言葉を漢字指導に当てはめると、どういうことが「基本」で、どういうことが「応用」になるのだろう。そもそも「基本」あっての「応用」などという考えが、漢字指導に当てはまるのだろうか。
 漢字の細部にこだわる教員にとって漢字指導の「基本」とは、漢字のとめ、はねなどを活字(印刷文字)のとおりに教え込むことが、「基本」ということになるのだろう。では「応用」とはいったい何なのか。これが分からない。例えば(き、きへん)は活字のように縦画をとめて書くのが「基本」で、はねて書くのが「応用」、は上の横画を下の横画より長く書くのが「基本」で、上の横画を短く書くのが「応用」、こんなことが言えるのだろうか。「応用」とは「基本」を活用して、より高度な問題を解くことである。の縦画をはねて書くことや、の上の横画を短く書くことを「応用」とは言えまい。
 では、漢字指導の「基本」とはいったい何なのだろう。私は、漢字指導の「基本」は字体(文字の骨組み)を教え込むこと、と前のブログに書いた。字形ではなく字体である。字体と字形の違いについては前回のブログに書いが、漢字の正誤に関わりない(字体の違いにまで及ばない)字形の細部についてはこだわらずに教えることである。細部については、活字が縦画をとめてあれば(など)、どうしてもとめて書くように教えたいのなら、とめて書くように教えてもいいけれど、はねて書いた字をバツにしてはならない。(テストの後などできちんと説明してフォローする必要がある。)あるいは、最初から活字では縦画をとめているけれども、はねて書いてもいいんだよ、と言って教える。教え方は各自工夫すればいい。もちろん字体の違いとなる漢字の細部については、重要ポイントとして教え込まなければならない。
 しかし、これだけを「基本」とすると、漢字指導においては「応用」といえるものはないと言える。だがどうしても漢字指導に「応用」という考えを持ち込みたいのであれば、漢字指導の「基本」にもう一つ、基本要素を正しく覚えるように教えることを加えるといい。

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 漢字の基本要素というのは、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」で使われている構成要素とほぼ同じ考えといえるが、小駒勝美氏(画期的な辞典『新潮日本語漢字辞典』を企画、執筆、編集した人)が『漢字は日本語である』(新潮新書 2008年)で使っている用語である。

 親鸞の「鸞」という字などは画数が三十画もあり、一見、非常に難しい字に見えるが、分解すれば何のことはない、「糸」「言」「鳥」という小学生でも知っている三種類の字が合体しているだけだ。(P117)

 この「糸」「言」「鳥」が基本要素である。(「糸」はさらに「幺」と「小」の基本要素に分けられると言えるかもしれない。厳密に基本要素を決めることは困難である。)漢字の基本要素の数は約800と言われている。基本要素の形を正確に覚えていれば、漢字はこの基本要素の組み合わせで出来ているし、漢字の約80%が形声文字であると言われているから、漢字を覚えるのに役立つ。そう考えると基本要素を覚えることを「基本」、その基本要素を組み合わせてたくさんの漢字お覚えることを「応用」と言うことができそうである。

 「基本あっての応用」などという言葉が、何気なく漢字指導にも使われるが、ここまで述べてきたように、よく考えてみると漢字指導にピタッと当てはまる言葉ではない。それなのに、漢字の細部をきっちりと覚えることが基本で、それができていないと応用ができない、などと言われるとほとんどの人がその言葉に納得してしまう。
 漢字の細部にこだわる教員は、そう教えることが正しいと信念をもって教えている。「信念は嘘よりも危険な真理の敵である」というニーチェの言葉があるが、彼ら、漢字の細部にこだわる、誤った漢字指導をしている教員は、信念をもって嘘を教えている。惑わされることがないように、じっくりと考えてみることを心がけなければなるまい。