より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

「卒業証書」

 現在、10都府県に緊急事態宣言が出され、コロナ禍にある。
 1年ほど前の昨年2月27日には、新型コロナウイルスの感染拡大により、安倍首相が3月2日から春休みまで全国の小中高に一斉臨時休校を要請した。そのために卒業式を最小限の人数に限って開催する学校や卒業式を中止する学校がでた。そんな状況の中で昨年3月に鹿児島中央駅に黒板にチョークで書かれた「卒業証書」が掲示され話題になった。

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 鹿児島中央駅に勤務する若手社員たちが制作したものというが、卒業式など遠い過去になった中高年の社員には思い着かないことである。ほほえましく思い、感心し、ほっこりした人が多くいたようである。

 この「卒業証書」の中の「線」「使」という字は、書き取りテストではバツになりそうだが、ここでは卒業の「業」に注目してほしい。決してこの「卒業証書」にケチをつけようというのではなく、「業」で筆写(手書き)の漢字の正誤について考えてみようと思うのである。誤解しないで頂きたい。

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 ➀、➁は鹿児島中央駅の「卒業証書」の字形であるが、その字形と一般的な字形の「業」の4本の横画の長さにはかなりの違いがある。褚遂良は初唐の三大家の一人で優美端正な楷書で有名である。上に示した褚遂良の「業」は見れば分かるように、4本の横画のうち一番上が一番長い。下の3本の横画は一番上の横画に比べるとかなり短く、その3本の横画は上から下へ順に少しずつ長くなっている。このような字形が美しいようである。この褚遂良の「業」と一般的な明朝体の「業」とはまた横画の長さに違いがある。
 鹿児島中央駅の「卒業証書」の「業」は、4本の横画のうち上から二番目の横画が一番長い。②の字などは「立」に似た字を大きく書いて、その下に小さく「未」を書いたように見える。褚遂良の字と比較すると、まるで別の字のようである。➀は「卒業証書」、②は「ご卒業おめでとう」という文(語句)の中にあるので、誰もが「業」と認識するだろうが、単独なら「業」と読めるだろうか。横画も縦画もその他の画も皆そろっているので、「業」と読めるとは思うものの、相当違和感のある字形である。
 それでは「業」の字の4本の横画の長さに決まりがあるかといえば、そんな話は聞いたことがない。上から何番目の横画を一番長く書いて、次に長いのが何番目の横画で、次が何番目などという決まりはない。褚遂良の字のように書くのが、美しいというだけで、美しい字と正しい字とは全く別問題である。だから➀、②のような字を生徒が書き取りテストで書いたとしたら、マルするか、それともバツにするか、判断に迷うことになる。
 このように筆写された漢字の字形は実にさまざまである。この「業」という字で分かるように、正誤の明確な基準を設けることは不可能なのである。だから、➀、➁のように書いた場合には、採点者によってはマルと判断されることもあるし、あるいはバツにされることもありえる。
 漢字は意思の伝達手段なのであるから、誰が見てもその漢字だと分かるかどうかで判断するしかない。

2021大学入学共通テスト(国語)

 初の大学入学共通テストが16日、17日に実施された。大学入学共通テストは大学入試センター試験の後継として初めて実施されたものであるが、16日に実施された国語は記述式問題の実施が見送られた(2019年12月に萩生田文科大臣が見送りの発表をした)せいもあってか、大学入試センター試験とほぼ同じ形式・内容のものになった。
 記述式問題が見送られなかったら、新型コロナ感染拡大も加わって、採点の混乱は必至だった。関係者は記述式問題を導入しないで良かったと、安堵していることだろう。
 記述式問題がなくなっただけでなく、他の問題もプレテストとはかなり違うものとなって、結局元の大学入試センター試験とほぼ同じものになった。目玉の記述式問題の実施が見送られたのだから、仕方ないといえば仕方ないが、そもそも大学入試センター試験を大学入学共通テストと言い換える必要もなかった。
 大学入学共通テストは「思考力と判断力」を見るテストというが、答えを選ぶだけのテストでそんなことができるのか。思考力と判断力との違いは、判断力には実行(行動)が伴うというところにあるだろう。判断して次の行動に移る、これが判断力である。ペーパーテストで判断力をどうして試すことができるのか。言葉だけ飾ればいいというものではない。

 私は以前から、こんな一斉に実施する大学入学共通テスト(大学入試センター試験)など廃止すればいいと主張している。各大学が個別に、自分の大学に入学してほしいと思う生徒の学力を見るテストを実施すればいいのである。

 大学入学共通テスト・国語を解いてみた。実感したことは、「つまらない!」ということである。これに尽きる。受験生はつまらなかろうが問題を解くしかないけれど、これを言ったらお終いかもしれないが、こんな問題を解いて面白い、ためになると思う人が、受験生を含めているのだろうか。
 第1問は「フィクションとしての妖怪、とりわけ娯楽の対象としての妖怪は、いかなる歴史的背景のもとで生まれてきたのか」について書かれた文章を読んで答えるものだったが、「フィクションとしての妖怪」「娯楽の対象としての妖怪」の「歴史的背景」に興味を持っている者が、53万人の受験生の中にどれだけいるだろう。こんな受験生の興味のないこと、皆が興味を持たなければならないことでもないことについて書かれた文章を出題して、何になるのか。私は水木しげるの漫画は大好きではあっても、妖怪の歴史的背景について書かれた文章など読もうとは思わない。ほとんどの人が私と同じだろう。53万人もの若者がテストとは言え読むものである。若者が読んで面白い、ためになる、こんなことには今まで気づかなかった、もっと読んで研究してみたくなる、そう思えることについて書いた文章を出題してほしい。
 第2問の加能作次郎(私はこの作家を知らなかった)「羽織と時計」の問題文の続きを読んでみたくなったが、設問はどうでもいいことばかりである。
 第3問は『栄花物語』の一節であるが、『栄花物語』の中の末節の末節を出題してどうになる。
 第4問は馬車を操縦する「御術」について書かれた漢文を読んで答えるものだが、馬車を操縦することなどない現代の受験生に、こんな文章を読ませて何になるのか。時代錯誤も甚だしい。もっと受験生に読んでほしい文章を捜してきて出題してほしいものだ。
 大学入学共通テスト(国語)は本当につまらない。受験生を振り分けるためだけのテストである。何とかならないものか。テストなんてそんなものさ、と考えずに根本からテストについて考え直す必要がある。

 教員という仕事についても、この大学入学共通テストのように、教員は思考停止の状態に陥っているのではなかろうか。教員という仕事が、ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)になってはいないか。どうあるべきかについては、これまでのブログに書いてきたので、ここでは詳述しない。付け加えたいことを考えついたら、改めて書いてみたいと思う。

「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について

 平成28年2月29日に、文化審議会国語分科会が「常用漢字表の字体・字形に関する指針」を報道発表したが、これは当日(平成28年2月29日)開催された第60回国語分科会に資料として提出された案と同じものである。国語分科会と報道発表が同日だったので、国語分科会で出された意見を受け入れ、案を修正して報道発表することはできなかった。
 その後「常用漢字表の字体・字形に関する指針」は、4月30日に三省堂から書籍として出版されるが、その2か月の間に報道発表されたものに相当な修正が行われた。その修正の中には修正どころか、ひどい改悪になっている個所がある。ここまでは前回のブログに書いたことである。その箇所を具体的に指摘したい。

 平成28年2月29日に開催されて第60回国語分科会で、押木秀樹氏(上越教育大学教授)から次のような意見が出された。(文化庁のホームページで国語分科会の議事録を読むことができる。)

 質問と意見を兼ねる部分がありますが、12ページです。ここでは漢字指導に関する意見聴取の内容をまとめていただいています。大変よくまとめていただいておりますし、納得できるところですけれども、「なお、学校教育では」という箇所について少し分かりにくい部分がありはしないかと思っております。
 意見としまして、学校教育での漢字指導、あるいは書写指導は多様性を認めて、そして、より良さを目指していくような、そういう在り方が現代の教育の流れではないかと理解しております。その考え方というのは、この指針とよく一致している考え方だと思っているのですが、そのことがこの「なお、学校教育の中では」の箇所で、学校教育に詳しくない方、あるいは一般の先生方に伝わるのかどうか、若干心配な部分がございます。
 こういった箇所について、この後、多少修正が可能なのかどうか。これでもう決定ということなのかをお伺いしたいということと、分かりやすくなるとよいがということを意見として述べさせていただきます。(傍線は筆者。「なお、学校教育の中では」ではなく「なお、学校教育では」が正しい。)

 この押木氏の意見を受けて、12ページの「なお、学校教育では」の箇所が書き替えられた。まず書き替えられる前の、報道発表されたものを示すと、次の通りある。

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 次に書き替えられた(修正された)、現在の12ページの箇所を示す。

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  報道発表の時には「なお、学校教育では、書写の指導と漢字の読み書きの指導が一体となって行われる場合もある。小学校学習指導要領が書写について「点画の長短や方向、接し方や交わり方などに注意して、筆順に従って文字を正しく書くこと」としている点なども考慮しつつ、今後も円滑な漢字指導が行われるよう配慮すべきことにも触れられた。」だったものが、現行の「常用漢字表の字体・字形に関する指針」では「なお、学校教育では、漢字の読み書きの指導と書写の指導とが一体となって行われる場合がある。特に、小学校段階では、日常生活や学習活動に生かすことのできる書写の能力を育成するため、文字を一点一画、丁寧に書く指導なども行われており、指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もあることを十分に踏まえる必要があることにも触れられた。」と書き替えられた。(12ページの一番下の2行も「評価においては、指導の場面や状況を踏まえた柔軟な評価を行うことが期待される。」が「指導の場面や状況によっては、指導した字形に沿った評価が行われる必要もあることを踏まえた上で、柔軟な評価を行うことが期待される。」と書き替えられている。)

 この12ページの書き替えを受けて、同じ書き替えが指針の第3章のQ25でも行われ、Q25にも「学校教育では、漢字の読み書きの指導と書写の指導とが一体となって行われる場合があります。特に、小学校段階では、日常生活や学習活動に生かすことのできる書写の能力を育成するため、文字を一点一画、丁寧に書く指導なども行われており、指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もあることを十分に踏まえる必要があります。」と全く同じ記述がある。(Q26にも同じ記述がある。)

 私はこの「指導した字形に沿った評価が行われる場合もある」という、「指導した字形に沿った評価が行われる」ことを容認するような考えこそ、この指針の最大の誤りであり、改めなければならないと考え、私の作成したホームページ・「漢字の採点基準」で次のように指摘した。共通認識2がそれである。

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  例えば「木」の縦画をとめて書くように教えることは、「木」の縦画をとめて書いても誤字ではないのだから、間違ったことを教えているわけではない。しかし「木」の縦画をはねて書いた字を✖と評価したら、漢字に対して間違った考えを子どもに植え付けてしまい、嘘を教えたことになる。教員が子どもたちに嘘を教えていいはずがない。漢字の細部にこだわった指導(言い換えれば、活字の通りに書く指導)をしてきた教員を、真面目で熱心な指導をする教員であるかのように評価しがちだが、それは誤りである。本当に真面目で熱心な教員なら、漢字について書かれている多くの本を読み、勉強してこんな間違った指導をするはずがない。真面目で熱心に漢字を教えているように見えた教員は、実は漢字のことを勉強していないので、活字の字形に頼るしかなく、思い込みで間違いを子どもたちに押し付けている、ただの不勉強な教員なのである。
 漢字の正誤の評価基準に違いがあるはずはなく、小学校から中学、高校、大学、一般まで全てが同じ基準でなければならない。小学校で「木」の縦画をはねて書いた字を✖にすれば、小学校の基準が「木」の縦画をはねて書いてもとめて書いてもいいという一般の基準より厳しいことになる。大人になるほど厳しい基準になるのが普通なのに、これでは小学校が一番厳しい基準になってしまう。それでは全く逆である。

 「指導した字形に沿った評価が行われる場合もある」という、「指導した字形に沿った評価が行われる」ことを容認するかのような記述は即刻削除し、修正される前の報道発表された時の記述に戻すべきである。この記述が残っている限り、この記述が漢字の細部にこだわった誤った漢字指導をする、不勉強な教員の拠り所になりかねない。
 「文字を一点一画、丁寧に書く指導」はもちろん大切である。そのことと「指導した字形に沿った評価」は全くの別問題である。「指導した字形に沿った評価」をしてはいけないとなると、どう指導したらいいのか分からないというのなら、どう指導したらいいか皆で話し合って考えればいい。指導法はすぐに見つかるはずである。