より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

漢字指導における基本、応用

 漢字の細部にこだわる、誤った漢字指導がなくならない。そのことについて書いてきて、誤った漢字指導を擁護する人が使う言葉(用語など)について気づいたことがあった。そこで前回のブログで漢字の「字体」と「字形」を取り上げた。今回は漢字指導の「基本」と「応用」を考えてみたい。

 漢字指導の「基本」「応用」については、このブログの「漢字を知らない議員同士の国会討論」や「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育(2)」にも書いてきたが、この「基本」「応用」という言葉は、漢字教育では何を意味するのだろう。「基本」あっての「応用」などといわれるが、この言葉を漢字指導に当てはめると、どういうことが「基本」で、どういうことが「応用」になるのだろう。そもそも「基本」あっての「応用」などという考えが、漢字指導に当てはまるのだろうか。
 漢字の細部にこだわる教員にとって漢字指導の「基本」とは、漢字のとめ、はねなどを活字(印刷文字)のとおりに教え込むことが、「基本」ということになるのだろう。では「応用」とはいったい何なのか。これが分からない。例えば(き、きへん)は活字のように縦画をとめて書くのが「基本」で、はねて書くのが「応用」、は上の横画を下の横画より長く書くのが「基本」で、上の横画を短く書くのが「応用」、こんなことが言えるのだろうか。「応用」とは「基本」を活用して、より高度な問題を解くことである。の縦画をはねて書くことや、の上の横画を短く書くことを「応用」とは言えまい。
 では、漢字指導の「基本」とはいったい何なのだろう。私は、漢字指導の「基本」は字体(文字の骨組み)を教え込むこと、と前のブログに書いた。字形ではなく字体である。字体と字形の違いについては前回のブログに書いが、漢字の正誤に関わりない(字体の違いにまで及ばない)字形の細部についてはこだわらずに教えることである。細部については、活字が縦画をとめてあれば(など)、どうしてもとめて書くように教えたいのなら、とめて書くように教えてもいいけれど、はねて書いた字をバツにしてはならない。(テストの後などできちんと説明してフォローする必要がある。)あるいは、最初から活字では縦画をとめているけれども、はねて書いてもいいんだよ、と言って教える。教え方は各自工夫すればいい。もちろん字体の違いとなる漢字の細部については、重要ポイントとして教え込まなければならない。
 しかし、これだけを「基本」とすると、漢字指導においては「応用」といえるものはないと言える。だがどうしても漢字指導に「応用」という考えを持ち込みたいのであれば、漢字指導の「基本」にもう一つ、基本要素を正しく覚えるように教えることを加えるといい。

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 漢字の基本要素というのは、「常用漢字表の字体・字形に関する指針」で使われている構成要素とほぼ同じ考えといえるが、小駒勝美氏(画期的な辞典『新潮日本語漢字辞典』を企画、執筆、編集した人)が『漢字は日本語である』(新潮新書 2008年)で使っている用語である。

 親鸞の「鸞」という字などは画数が三十画もあり、一見、非常に難しい字に見えるが、分解すれば何のことはない、「糸」「言」「鳥」という小学生でも知っている三種類の字が合体しているだけだ。(P117)

 この「糸」「言」「鳥」が基本要素である。(「糸」はさらに「幺」と「小」の基本要素に分けられると言えるかもしれない。厳密に基本要素を決めることは困難である。)漢字の基本要素の数は約800と言われている。基本要素の形を正確に覚えていれば、漢字はこの基本要素の組み合わせで出来ているし、漢字の約80%が形声文字であると言われているから、漢字を覚えるのに役立つ。そう考えると基本要素を覚えることを「基本」、その基本要素を組み合わせてたくさんの漢字お覚えることを「応用」と言うことができそうである。

 「基本あっての応用」などという言葉が、何気なく漢字指導にも使われるが、ここまで述べてきたように、よく考えてみると漢字指導にピタッと当てはまる言葉ではない。それなのに、漢字の細部をきっちりと覚えることが基本で、それができていないと応用ができない、などと言われるとほとんどの人がその言葉に納得してしまう。
 漢字の細部にこだわる教員は、そう教えることが正しいと信念をもって教えている。「信念は嘘よりも危険な真理の敵である」というニーチェの言葉があるが、彼ら、漢字の細部にこだわる、誤った漢字指導をしている教員は、信念をもって嘘を教えている。惑わされることがないように、じっくりと考えてみることを心がけなければなるまい。

漢字の字体と字形

 なぜ漢字の細部にこだわる、誤った漢字指導がなくならないのだろうか。漢字についてのブログを書いてきて、いくつか気づいたことがある。それは言葉(用語など)が正しく理解されていなかったり、誤った思い込みがあったりすることが、原因になっているのではないか、ということである。そこで今回は言葉(用語)の問題として、字体と字形を取り上げてみたい。
 字体字形の違いが正しく理解されていないようである。平成28年(2016年)に文化審議会国語分科会が公表した常用漢字表の字体・字形に関する指針第1章 常用漢字表「(付)字体についての解説」の考え方では、字体と字形について次のように説明している。

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 字形手書き文字、印刷文字を問わず、具体的に出現した個々の文字の形状で、我々が実際に目にするのは字形である。しかし手書きの文字は勿論のこと、印刷の文字でも、同じ漢字ではあっても同じ字形ではない。同じ字形ではないのに、我々はそこに共通する何かを認めて、同じ漢字と認識する。その共通する何かを字体という。だから字体具体的な形状を持たない抽象的な概念なのである。
 この字体(文字の骨組み)という概念は、画期的な考えである。誰が何時この字体(文字の骨組み)ということを考えついたか、私は寡聞にして知らないが、実に画期的で感心させられる考えである。感動さえ覚える。この字体(文字の骨組み)という考え方によって、字形と字体とを区別することができるようになって、漢字の正誤を説明することが格段に容易になり、しかも分かりやすい説明ができるようになった。
 原田種成氏は『漢字小百科辞典』(三省堂、1989年)の「字体」の項に、次のように書いている。
 「字体」「字形」「書体」という語は、その意味や用法の区別が明瞭ではない。漢字はもともと中国から伝来したものであるから、中国の文献を根拠として、その意味や用法を確定すべきものと考える。が、文献を調査し、さらに現中国における用例も調べたが結論に到達することはできない。つまり、明白な区別はないということである。
 この文章の後に、原田氏が調査した中国の文献についての、相当に長い説明の文があるが、結論は上記の通り、中国では字体と字形の明白な区別はないということである。
 字体と字形の区別、字体(文字の骨組み)という考えは、日本でできたようである。私は改定される前の、昭和56年(1981年)に内閣告示された常用漢字表前書き(付)字体についての解説で、初めて字体と字形の区別、字体(文字の骨組み)という考えを知った。
 (付)字体についての解説第1 明朝体活字のデザインについてに、次のように書かれている。
 常用漢字表では、個々の漢字の字体(文字の骨組み)を、明朝体活字のうちの一種を例に用いて示した。現在、一般的に使用されている各種の明朝体活字(写真植字を含む。)には、同じ字でありながら、微細なところで形の相違の見られるものがある。しかし、それらの相違は、いずれも活字設計上の表現の差、すなわち、デザインの違いに属する事柄であって、字体の違いではないと考えられるものである。つまり、それらの相違は、字体の上からは全く問題にする必要がないものである。以下、分類して例を示す。
 また同じく(付)字体についての解説第2 明朝体活字と筆写の楷書との関係についてには、次のように書かれている。
 常用漢字表では、個々の漢字の字体(文字の骨組み)を、明朝体活字のうちの一種を例に用いて示した。このことは、これによって筆写の楷書における書き方の習慣を改めようとするものではない。字体としては同じであっても、明朝体活字(写真植字を含む。)の形と筆写の楷書の形との間には、いろいろな点で違いがある。それらは、印刷上と手書き上のそれぞれの習慣の相違に基づく表現の差と見るべきものである。以下、分類して例を示す。
 常用漢字表は昭和24年(1949年)の当用漢字字体表を改訂したものである。当用漢字字体表まえがきには常用漢字表の(付)字体についての解説につながる〔使用上の注意事項〕があるが、その〔使用上の注意事項〕には、字体と字形の説明は一切なく、字体という言葉だけが使われていて、字形という言葉は全く使用されていない。
 常用漢字表はその後、平成22年(2010年)に改定される。それが現行の改定常用漢字表である。改定常用漢字表の前書きにあたるⅠ基本的な考え方には(付)字体についての解説があり、上記の常用漢字表の説明が、ほぼ同一の文章で受け継がれている。
 そしてその(付)字体についての解説を更に詳しく解説したものが表示した常用漢字表の字体・字形に関する指針第1章 常用漢字表「(付)字体についての解説」の考え方の説明である。
 字体と字形の区別、特に字体(文字の骨組み)という抽象的な概念をしっかりと理解・認識することが、漢字の正誤を正しく判断するとき、漢字を正しく教えるときの鍵となる。字形の違いが字体の違いにまで及ばない限り、漢字の細部にこだわる必要はない。そう断言できるのは、字体と字形の違いを理解していればこそである。だから漢字の細部にこだわる誤った指導を続けているような教員は、字体と字形の区別、字体(文字の骨組み)という抽象的な概念を理解していないと考えられる。
 また、この字体(文字の骨組み)という概念を理解していないと、「許容」という表現を使うことになる。例えば「松」の木偏の縦画をはねて書いたとする。字体(文字の骨組み)という概念を正確に理解していないと、木偏の縦画は本来はとめて書くのが正しいが、はねて書いた字も許容の範囲であるとか、はねて書いた字も許容の形であるとかと言ってしまう。許容の範囲・許容の形というと、本来の正しい形があって、許容の形はそれより価値は下がるが、まあそれも認めようという、本来の正しい形よりも一段価値の低い形というイメージになる。だが字体(文字の骨組み)に違いがなければ、みな同等に正しい形なのである。そこの価値の優劣はない。きれいな字・きたない字、整った字・見にくい字などの上手い下手の評価はできるししてもいい。きれいな字を書くように指導してももちろんいい。だが、きれいな字・きたない字の違いはあっても、字形の違いが字体の違いにまで及ばなければ、全てが同等に正しい字である。しかし、あまりにきたない字、見にくい字で、その漢字であると認識できない場合、つまり字体が読み取れなかったり、字体が違うものに見えたりする場合には誤字となる。
 字体が正しければ、字形が違っていようと、みな正しい、それも同等に正しいという考えはなかなか理解されにくいようである。それは字体(文字の骨組み)という概念が正確に理解されていないからに他ならない。
 教科書を出版している光村図書のホームページには、「許容の形」とは、どのような字形を指すのですか?という文章が載っている。そこには次のように書かれている。
 平成28年文化審議会国語分科会が報告した「常用漢字表の字体・字形に関する指針」には、常用漢字表に示された文字を筆写する際に、字形に違いがあっても同じ字体として認めることのできる例として、以下のようなさまざまな許容の書き方が示されています。
 (1)長短に関する例
 (2)方向に関する例
 (3)つけるか、はなすかに関する例
 (4)はらうか、とめるかに関する例
 (5)はねるか、とめるかに関する例
 (6)その他
 これが現在、許容の形を考えていくときの一つの目安になっています。
 教科書を出版している会社のホームページにまで、誤ったことが書かれている。(1)~(6)の例は、許容の書き方、許容の形を示したものではない。例に挙げられている「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の(1)長短に関する例の初めの部分を次に示す。

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 「漢字の点画の長短にいろいろな書き表し方があるものとして」と書かれていて、許容の書き方などとは書かれていない。光村図書の文には「さまざまな許容の書き方が示されています」と書かれているが、示されている左側の字は標準的な字形であるから、右側の字が光村図書の言う許容の書き方ということになるのだろ。
 最初の例に挙げられている「舞」「無」について説明すると、野﨑邦臣氏が名著『漢字字形の問題点』に、次のように書いている。(文中の「教体」とは教科書体のことである。)

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 「中長の形」とは現行の教科書体の字形で、右側の「無」であり、「下長の形」とは左側の「無」である。名跡はほとんどが「下長の形」である。名跡がほとんど「下長の形」で書かれているのは、つまりその形の方が美しい字形であると考えられてきたことを示してもいる。現行の「中長の形」は美しくないし、伝統的に書き継がれてきた字形でもない。もちろん「中長の形」に書いても誤りではない(学校では「中長の形」に書くように指導されるだろう)が、「中長の形」が本来の正しい形で、「下長の形」が許容の形であるなどということでは決してない。右側の字は「いろいろな書き表し方があるもの」を示したものであって、二つは全く同価値の字形である。

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「中長の形」の「無」と「下長の形」の「無」とでは筆順も違ってくる。実際に書いてみると、「下長の形」の「無」は筆順の上からも非常に書きやすい。現行の「中長の形」は改悪された字の一つである。
 そもそも「常用漢字表の字体・字形に関する指針」では、第3章 字体・字形に関するQ&AQ24で「学校教育において示される「標準」は今後とも尊重されるべきですが、常用漢字表は、手書きの文字について、伝統的な漢字の文化を踏まえ、「標準」と「許容」を決めていません。」と明確に述べている。指針では伝統的な漢字の文化を踏まえと述べているが、字体(文字の骨組み)が同じと読み取れるなら、同じ字であるのだから、そこに優劣の差(本来の正しい形、許容の形)などという価値観が入り込む余地はない。
 また、全ての漢字にはいくつもの正誤の判断に関わる箇所が想定され、どこまでが許容範囲で、どこからが誤りになるなどということを決めるのは絶対に不可能である。このことにつては、私のホームページ「漢字の採点基準」の正しく採点するために2採点する者が必ず持たなければならない共通認識をご覧いただきたい。

漢字を知らない議員同士の国会討論ー参議院文教科学委員会「学校教育における漢字指導の在り方」

 ネットで「漢字の採点」や「漢字の正誤」などと検索すると、平成28年2月29日に出された「常用漢字表の字体・字形に関する指針」について、同年3月10日に参議院赤池誠章議員と馳浩文部科学大臣のあいだでなされた討論を記録した「学校教育における漢字指導の在り方について」という次の文書が表示される。

 

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 赤池誠章議員は自民党参議院議員文教族議員の一人である。「日々勉強、結果に責任」の姿勢で議員活動をしているという。馳浩氏は自民党参議院議員で当時は文部科学大臣。大学卒業後に母校の星稜高校で短期間であるが、国語科の教員をしていたことがあるようだ。

 まず赤池議員の質問について書いてみたい。
 何を言いたいのか分かりにくいのであるが、「木」の縦画をとめてもはねてもどちらでもいいとか、「天」の二本の横画は上下どちらが長くても誤りではないとかでは、教育現場が混乱するし、保護者からも懸念の声が上がっているから、活字(印刷文字)の通りに書くように決めるべきだ、ということのようだ。赤池議員は「日々勉強」をモットーにしていると言っているが、この質問から全く漢字について勉強していないことが読み取れる。書体字典(書道字典)をちょっとでも見れば、こんな馬鹿げたことを言えるはずがない。そんな容易にできることさえしていない。質問するなら、その前にしっかりと勉強しておくべきであろう。漢字の細部にこだわった指導が、学校ではもう100年以上も続いていて、漢字嫌いの子どもを作りだし、教育に多大な弊害をもたらしていることを知らないのだろうか。
 書体字典の決定版『大書源』(二玄社)で、「木」を見てみたい。

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 ご覧の通り、「木」の縦画が多くの字でははねて書かれている。活字では「木」の縦画をとめているが、それは活字のデザインである。「木」の場合には縦画は2画目なので、次の3画目を書くために筆(筆記用具)を横画と縦画の交差するところまで持ち上げなければならない。だから「年」の最終画の縦画のように、縦画の端をぬくようなデザインにすることはできず、とめるかはねるかどちらかの形にするしかない。「木」の縦画はそこで、はねた形ではなく、とめた形にデザインしただけなのである。「木」の縦画をとめて書かなければバツなどしたら、過去に書かれたものはほとんど誤字になってしまう。
 木偏も「木」と同じことである。「木」も木偏も活字で縦画がとめてあるのは、直

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接的には当用漢字字体表(昭和24年)にそう書かれていたからであるが、その当用漢字字体表の元になったのは日本の活字の字体の基準となる康煕字典であり、そこでは「木」と木偏の縦画がとめた形で示されている。しかし、字典の字形が縦画をとめた形であっても、手で書くときにははねて書いてもよい。それは陳邦彦という人が康熙帝が書いた文を勅命を受けて楷書で書いた、康煕字典の序文の字を見ると分かる。康熙帝が木偏の縦画をとめて書かなければならないと考えていたなら、陳邦彦がはねて書けるはずがない。康熙帝も活字と手書きの字が同じ字形ではないと考えていたことは明らかである。(そもそも康熙帝は「木」や木偏の縦画をとめて書くか、はねて書くかなど、考えもしたことがなかっただろう。)
 『大書源』の「相」を見てみよう。

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 やはり木偏の縦画がはねて書かれている字が多い。だが、はね跡といっても縦画から次の画へと筆を運ぶ際に、毛筆の筆先には弾力性があるので跡がついたというだけのことである。現在我々が文字を書く時に使用する鉛筆やボールペンは、筆先に弾力性がないから、意識してはね跡を付けようとしなければ、はね跡がつかないこともある。「木」や木偏の縦画をとめる、はねるなど全く気にする必要がない。

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 『漢字字形の問題点』(天来書院)という素晴らしい本がある。野﨑邦臣氏の労作である。この本と江守賢治氏の『字体辞典』(三省堂)は、私の研究に最も影響を与えてくれた本である。二冊の本は私のバイブルと言っていい。ところがこの『漢字字形の問題点』を読んでいると、野﨑氏は江守氏を認めながらも、江守氏に何か含むところがあるようである。
 『漢字字形の問題点』の140ページに次のような記述がある。

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 これを読むと、木偏、のぎ偏、こめ偏、のごめ偏、らいすき、うし偏は活字では縦画がとめた形になっていて、て偏、けもの偏では縦画がはねた形になっているが、手書きの文字(筆写体)では縦画のとめはねなど全く気にする必要がないことが分かるだろう。(「相」の部首は木偏ではなく、目である。)ここに例示した偏の活字の縦画がとめた形になっていたり、はねた形になっていたりするのは、活字のデザインにすぎない。

 次に「天」である。「天」を『大書源』で見てみよう。

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 ご覧の通り「天」はほとんどの字で上の横画が短く、下の横画が長く書かれてい

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る。現在の日本の活字の「天」は上の横画が下の横画より長い形になっているのは、これも直接的には当用漢字字体表で上の横画の方が長い字形が示されたからである。しかしその元をたどるとやはり康煕字典で、上の横画の方が長い字形が示されていることが影響していると考えられる。この場合も「木」、木偏と同じで、康煕字典では「天」は上の横画の方が長い字形で示されているが、やはり陳邦彦の序分では「天」は上の横画が短く、下の横画が長い字形で書かれている。活字と手書きでは字形が違うのである。

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 「天」は甲骨文では右に示す形である。「人の頭部を大きく強調して示し、うえ・いただき・そらの意味を表」している(『漢語林』)。字源から考えても、上の横画の方を長く必然性はない。
 「天」は当用漢字字体表(昭和24年)で上の横画の方が長い字形が示されたが、教科書では昭和35年までは上の横画の方が短い字形であった。それが昭和36年の教科書体の改定で全社そろって上の横画の方が長い字形に改変された。詳しく知りたい方は『漢字字形の問題点』をお読みいただきたい。
 日本の活字の「天」は上の横画が下の横画より長い形になっていると前述したが、わざわざ「日本の活字」と書いたのは台湾や中国の活字では上の横画の方が短い字形になっているからである。台湾では繁体字、中国では簡体字が使われていて、日本の

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漢字とは異なる字体の漢字が多いが、「天」は同じ字体である。それなのに台湾と中国の活字では「天」は上の横画の方が短く、日本の活字では上の横画の方が長い。このことからも「天」の上の横画を下の横画より長く書かなければ誤りであるなどとすることが、間違いであることが分かる。右に台湾の国民小学、国民中学の教科書で使用される国字標準字体の「天」を示しておく。

 赤池誠章議員は「令」も例に挙げて、説明を求めているが、何を質問しているのか非常に分かりにくい。多分教科書体は手書きに沿った形で字形が示されているのだから、明朝体のような字形で「令」を書くのは誤りである、と言いたいのだろう。確か

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に教科書体と明朝体では「令」の字形がかなり違っていて、教科書体では下部が片仮名の「マ」のような形になっている。手書きの場合は「マ」のように書くのが一般的だが、明朝体のように書いたら誤りというのは、暴論としか言いようがない。小学校の教科書では教科書体が使われているが、中学高校大学、それに一般社会では主に明朝体が使われている。それなのに教科書体のように書かなければ誤りだというのであれば、中学高校大学・一般社会で使われている字は誤字ということになってしまう。我々は毎日毎日、誤字で書かれた新聞雑誌を読んでいることになる。
 「令」と同じような例として、「女」が挙げられる。「女」は現行の教科書体では

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2画目の頭が3画目の横画の上に出ているが、明朝体では出ていない。私は小学校の校長をしていた知り合いから、「2画目の頭が横画の上に出ていない字はバツにしてきた」と聞いたことがある。日ごろ目にしていたはずの、2画目の頭が横画の上に出ていない明朝体の「女」を、誤字と思っていたのだろうかと不思議に思った。赤池議員は明朝体の「令」や「女」を誤字と考えているのだろうか。それならどうして誤字が一般的に使用されているのか、その理由を考えてみなければなるまい。
 教科書体の「女」は現行では2画目の頭が3画目の横画の上に出ている字形になっているが、そうなったのは昭和55年の改訂からである。昭和36年から昭和54年までは2画目の頭が3画目の横画の上に出ていない。だが昭和35年以前は2画目の頭が3画目の横画の上に出ている字形であった。小学校の教科書の「女」の字形はこのように変化している。これについても詳しく知りたい方は『漢字字形の問題点』をお読みいただきたい。
 「令」を『大書源』で見てみよう。

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 「令」の下部を「マ」のように書いている字が多いが、明朝体ように短い縦棒のように書いている字もある。「マ」のように書くのが一般的だとしても、明朝体のように書いてもいいのである。私は以前このブログで新しい元号が発表されたときに、「令」を教科書体のような字形で書いてほしかったと書いたことがある。なぜそう書いたかというと、20代と思われる高校の国語科の女性教員に、「令」の下部をどう書いたらいいのか分からないので教えてほしい、と言われたことがあったからである。小学校で「令」の下部を「マ」のように書くと習っても、以後の中学高校大学の教科書はほとんど明朝体の「令」だろうし、書籍・雑誌・新聞等でも明朝体の「令」ばかり見ているので、小学校で「マ」のように書くと習ったことを忘れたり、覚えていても「マ」と書く理由までは教えてもらっていないので迷ってしまう人が多い。手で書く場合は「マ」の字形に書くのが一般的で、明朝体のような字形は活字の字形といえるけれども、どうしても「マ」と書かなければならないということではない。明朝体のような字形で書かなくてもいいことを、確認してほしかったのである。
 赤池誠章議員はあまりに不勉強である。保護者の懸念の声は、保護者が子どものころに学校で正しいことを教わってこなかった証左であり、教育現場の混乱はまた教員の不勉強の証左でもある。混乱するから、正しくもなく大きな弊害でもあった、漢字の細部にこだわる指導を続けろというのは、ひどい間違いである。教員がしっかり漢字のことを勉強し、教え方をちょっと工夫さえすれば正しい教育ができる。教員に勉強と工夫を促すべきである。

 馳浩文部科学大臣の答弁で問題の箇所は、「文字を一点一画、丁寧に書く指導が行われる場合など指導の場面や状況に応じて、指導した字形に沿った評価が行われる場合もあることは勿論であります」のところである。この言葉については、このブログの「「常用漢字表の字体・字形に関する指針」の修正について」(2020.11.6)で詳しく説明してあるのでご覧いただきたい。「常用漢字表の字体・字形に関する指針」は、指導した字形に沿った評価が行われる(具体的な例に言い換えると、教員が「木」の縦画をとめて書くように指導したなら、子どものはねて書いた字をバツと評価してもよいということ)ことが、漢字教育の大きな弊害となっていたので、その誤りを正すために出したものである。それなのに、この答弁で指針を出した目的が失われてしまった。この答弁が未だに続くでたらめな漢字教育の拠り所になっている。このことについては「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育」(2021.4.11)、「未だに続くめちゃくちゃな漢字教育(2)」(2021.7.5)をお読みいただきたい。
 「木」の縦画をはねて書いても誤りではないことは前述した。「木」の縦画がとめてあるのは活字のデザインにすぎない。「木」の縦画をはねて書いた字をバツにすれば、漢字について間違った認識を子どもたちに植え付けることになる。絶対にあってはならないことである。繰り返して言うが、教員がちょっと教え方を工夫しさえすれば正しい指導ができる。教員に工夫を促すべきなのである。
 馳大臣は「児童生徒が、標準的な字体による漢字習得を通じて、生涯にわたる漢字学習の基礎を培う」と言っている。「木」は縦画がとめてあっても、はねてあっても、字体(文字の骨組み)は同じである。縦画をとめてあるか、はねてあるかは、字形の相違である。馳大臣は字体と字形の違いが分かっているのだろうか。抽象的な概念である字体と、具体的な文字の形状である字形との違いが、多くの教員を始め、一般の方にも理解されていない。字体と字形の違いを理解してもらうことが、正しい漢字教育を広めていく鍵になりそうだ。

 最後に馳文科大臣の答弁を受けての、赤池誠章議員の言葉についてである。「基本があって応用ですから、基本が大事ということで 」と言っているが、漢字の形を覚えるうえで、「応用」とはどういうことなのだろう。前掲の赤池議員の質問から考えると、「木」の縦画をとめて書くのが基本で、はねて書くのが応用、「天」の上の横画を下の横画より長く書くのが基本で、下の横画の方を長く書くのが応用ということになる。算数・数学なら新しい考え方や定理を学んで、それを使ってより高度な難しい問題を解くようなことを応用というのだろうが、「木」の縦画をとめて書くという基本を習って、縦画をはねて書くことが応用になるのだろうか。そんなことを応用というはずがない。赤池議員は自分の言葉が何を意味するのかを全く考えずに話している。自分の言葉の意味することをわからない者が、どうして結果に責任を持てようか。
 前回のブログに書いたが、漢字の基本(漢字の形を覚える基本)は、字体を覚えることにある。字体に影響のない(漢字の正誤に関係しない)漢字の細部にこだわることではない。教員は正しい字体を子どもたちに教えればいいのであって、正誤に影響しない漢字の細部にこだわることは、間違った漢字に対する認識を押し付ける害悪でしかない。

 漢字を知らない議員同士が国会で討論して、大切な大切なことが間違ったかたちで決められていく。あってはならないことである。