より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

教職はいつからブラックな労働になったのか(四)  2007.4~2015.3

 ここでは2007年(平成19年)4月~2015年(平成27年)3月の8年間を取り上げる。

 この8年間、私はSI高校に勤務し、2015年3月に定年退職した。SI高校はM市にある1学年5クラス(全校で15クラス)の専門学科の高校で、世間から低学力校と思われているような高校である。私にとっては初めて勤務する専門学科の高校だった。

 2006年には高校の職場環境が完全にブラックになったことは、教職はいつからブラックな労働になったのか(三)に書いたので、ここでは取り立てて述べなければならないような大きな変化はない。強いて挙げるならば2011年(平成23年)からSI高校では夏休みが4,5日短くなったことくらいである。それでもこのSI高校ではまだ1カ月とちょっと(33,34日くらい)の夏休みがある。こんな高校は新潟県の公立高校では、もうほとんどないだろう。まだこれだけ夏休みがあるのは、このSI高校のカリキュラムが29単位+HR1である(新潟県の公立高校でこの単位数でやっているところはほとんどないと思う)ことと、専門学科の高校なので総合的な学習の時間を課題研究等の履修で代替できるからである。2011年から夏休みが短くなったのは、どういう理由だったのかはっきりとは分からないが、このSI高校はJR上越線が降雪で運休になって、一冬に幾日か休校せざるをえなくなる日があり、その分を考慮して(上乗せして)、年間計画を立てるように指導されたからではないかと思う。年間計画を立てる教員は、授業時間を確保(1単位につき必ず35回以上の授業をする)するために非常に苦労していた。前にも書いたが、この1単位につき35回以上の授業をすることを厳守させる命令が、高校という職場のブラック化を決定づけた。

 教頭職の多忙化が決定的になったのはこの時期からである。私はこのブログの教職はいつからブラックな労働になったのかを書き始めるまでは、教頭の多忙化も教員の多忙化も同じ要因で同じ時期から始まったように考えていた。しかし教頭の顔を一人一人思い浮かべながらどのようであったか思い出してみると、そうでないことが分かってきた。もちろん教員を多忙化した要因が、全く教頭の多忙化に影響を与えていないということではない。それもあるが、他にもっと大きな要因があるということである。私はMU高校からSI高校に転勤した。その転勤するときのMU高校の教頭が国語の教員だったので記憶しているのだが、彼は週に3時間の授業を持って教頭をやっていたが、それほど忙しくてしょうがないという様子には見えなかった。それがこのSI高校に転勤すると、教頭は昼飯もろくに食べられないほど忙しそうだった。この教頭の仕事ぶりに原因があるところも多分にありそうだが、次の教頭もその次の教頭も(私がSI高校にいた8年間に教頭は3人代わった)昼飯を食べられないほどではないにしろ忙しそうに見えた。SI高校以外の高校を見ると、この時期以後教頭が2人体制になっていくので、他の高校でも教頭職が多忙になったのは間違いない。ではなにが教頭を多忙にしたかといえば、事務の完全なコンピュータ化ではないかと思う。はっきりした年月は思い出せないのだが、教員一人一人にパソコンが支給され、出張などの申請・報告を全てそのパソコンで行うことになった。(パソコンは支給される以前から、ほぼ全教員が個人個人自費で買って持っていたと思し、今も支給されるものの他にも持っていると思う。)パソコンで申請するように一斉に切り替えられたのであるが、使い方の説明は1時間程度しか行われず、マニュアルもほとんど配られないような状況で、完全に見切り発車であった。このコンピュータ化で情報が全て一旦教頭に集まるようになって、その処理のために教頭職が多忙になったのではないかと思う。(私は教頭にならなかったので、本当のところはよく分からない。)コンピュータ化はもちろん仕事を効率化する面もあるだろうが、1年に1回あるいは数回、数年に1回しかしないような手続きをコンピュータですることは、効率化につながらない。紙ならその用紙をもらって簡単に書けるが、コンピュータではその手続きをするところがコンピュータのどこにあるのか探すことから始まって、どう入力するのか実に分かりにくい。私はこの事務のコンピュータ化は本当に嫌だった。果たしてこの事務のコンピュータ化がどれだけの人員削減につながったのだろう。検証すべきである。

 前述の通り、教職がブラックな労働になった時期・要因について、思いつくことは書いた。これ以上書くことはほぼない。そこで最後にSI高校のような低学力校について思うところを書いて、この教職はいつからブラックな労働になったのかを終わりにしたい。

 高校には学力の高い生徒が集まる高校があり、また学力の低い生徒が集まる高校がある。これは誰もが知っている事実である。その学力差によって学校差別があることも確かである。私はKU高校の生徒が「KU高校」という名に誇りを持つどころか、KU高校という名を嫌い隠そうとしていたと教職はいつからブラックな労働になったのか(一)で書いた。このSI高校の生徒の中にも、「親戚が集まった時、お前はどこの高校に行っているんだと聞かれた。SI高校だと答えると、うちの子はKJ高校だ、と馬鹿にしたように言われたんだぞ。もう頭にきた。」と話してくれた生徒がいた。ほとんどの生徒がこのSI高校に入りたくて入学してくるわけではない。KJ高校やMU高校に合格できそうにないので、しかたなくSI高校に入学した生徒が大部分である。
 生徒の中には、学習意欲に乏しいという以上に、自分を差別してきた勉強、その勉強を強いてきた教員に憎しみを持っていると言っていいような生徒までいる。(断っておくが全ての生徒がそうだと言っているのではない。熱心に勉強するし、実に素直で真面目で人懐っこい生徒もいる。)そういう生徒は、入学当初は捨てられた猫のような目つきで教員をにらんでくる。そんな生徒が3年後には、穏やかな顔つきに変わって卒業していく。その顔つきの変化には、他人に対する信頼と自分に対する自信が現れているようで、彼らにとってSI高校での3年間が無駄でなかったと思うことができた。それが私にはこのSI高校で一番うれしいことであった。

f:id:chikaratookamati:20190528065524j:plain SI高校の生徒は小中学校で努力しなかったから、SI高校に入学するしかなかった、というわけではない。植物の種だって、早く出芽するものもあれば遅いものもあり、出芽しないものまである。人も誰もが努力すれば、100mを10秒で走れるようになる、というものでもない。同じ基準(学力)で計れば、そこには必ず差が出る。それは持って生まれた個性が違うからである。誰もが努力すれば東大  (上の写真は同じ日に種を植えたインゲン)
に入れるというものではないし、努力が足りないから成績が振るわないというものでもない。まずそのことを認めなければならない。持って生まれた個性・能力は皆違うのである。往々にして、学力差を努力の差にして、成績が振るわないのを自業自得のように言う人がいる。それは間違いである。学力差を努力の差に帰してはならない。学力差を努力の差に帰してしまえば、努力しないのが悪いということになって、学力の低い生徒を切り捨てることにつながる。
 私はこの低学力校の生徒たちにどうやって学ぶ意欲を取り戻させるかが、最も大きな国の教育課題であると思っている。マスコミは大学進学実績を競うような進学校だけに目を向け、ほとんど低学力校の実態に目を向けようとしない。国も県も何ら対策をとらず、支援もしない。このままにしておけば、国の根幹を揺るがす事態を招くことになるだろう。この低学力校の生徒たちにこそお金をかけるべきである。
 どの子どもであっても本来学ぶ意欲を持っているし、学ぶこと知ることを楽しいと感じるものだと思う。私はそれが人間の本性だと思っている。その本性が小学校・中学校の間に打ち消されている。小中学校の先生が悪いと言っているのではない。皆が懸命にやっている。やっていても、そこからこぼれ落ちていく子ども、勉強についていけず意欲を失い、楽しさを忘れてしまう子どもは出てくる。そんな子どもたちが低学力校と言われる高校に集まってくる。(繰り返しになるが、低学力校にも勉強を好きで意欲的な生徒はいる。)そういう生徒たちにどうやって学ぶことの楽しさを取り戻させることができるのだろうか。難しい問題である。

 すぐにもできることは(もちろん全てお金のかかることである)、まず1クラス40人を30人に、人数を減らすことである。その上で授業を2人の教員で担当する。30人を15人・15人に分けて教員が一人ずつそれぞれ担当するのではなく、30人のクラスを教員は2人で組んで(2人で教室に行き)授業をするのである。当然どちらか一人の教員が主に話をし、もう一人は補佐という形になる。(15人、15人をそれぞれ一人の教員が担当する方がいいと考える教員もいるだろうが、私はそうは思わない。)これは私の実感であるが、30人のクラスが15人のクラスになっても、教員が一人で担当するなら、結局は教員1人対生徒30人(15人)なのである。教員にかかる重圧はそれほど変わらない。2人で授業に臨めば、かなり心の負担は軽くなる。もちろん丁寧な指導ができるのは言うまでもない。教員の平均的な担当授業時間は週に16時間程度であるが、2人体制で補佐の時間を半分とすれば、20時間くらいまでは可能ではないだろうか。(少しでも教育費の増加を減らすためである。)
 低学力校の生徒を上手に指導する教員がいる。私は苦手だった。いくら身構えていても(身構えていないようなふりはしていたが)、私のような隙だらけの人間に対しては、生徒はその隙を突いてくる。低学力校の教員には、進学校の教員とは比較にならないほどの気苦労があることは確かである。精神的にタフでなければやっていけない。現状では生徒に対してだけでなく、教員に対するサポート・支援だって必要のはずだが全くなされていない。生徒や保護者の前では、自ら進んでこの学校を選んで転勤してきたかのように振る舞って、おくびにも出さないけれど、多くの教員が3・4年で転勤するまでの我慢だ、と思って耐え忍んでいるのが実情である。(きれいごとだけ言って、ごまかしても仕方ないので、本音を書いた。)
 提出物を全部出さないと、どんなにテストでいい点を取っても赤点にするなど、教員は各自勝手な基準を設けて成績をつけていた。中には生徒が授業に出席していても、態度がよくないと欠席にしてしまう教員までいた。(これを知った時には、そんなことをしていたのかと私も驚いた。出席しているのに、欠席にするなど、そんなことまで教員に許されることではない。)テスト直前の授業で試験対策プリントといって、ほとんど本番のテストと同じものをやって、答えを教えてテストをする教員もいる。もう何でもありというような手段で、生徒を脅し、なだめすかして、どうにか授業をしているのが低学力校と言われる高校の実態である。日々悪戦苦闘している教員を支援するためにも、2人で授業をする体制を作るべきである。

 低学力校では学力に問題を抱えているだけでなく、家庭的にも金銭的にも問題を抱えている生徒が、他の高校と比較して多いと思う。片親の家庭全てに問題があるというわけではないけれど、私が担任をしたクラスは、KU高校でもSI高校でも3割以上が母子家庭あるいは父子家庭だったし、経済的に苦しい家庭もあった。月曜日になると疲れた様子で学校に来るので理由を訪ねてみると、土日はアルバイトの掛け持ちで疲れるんだという。私のクラスの生徒ではなかったが、母子家庭で母と姉が毎日喧嘩ばかりしていて、生徒(弟)が間に入って仲裁していたが、ある日疲れていたのか学校で注意されてかっとなってその生徒が教員に殴り掛かったということがあった。事情を聴くと、私は自分だったら我慢できるだろうかと思ったものである。家庭環境や金銭的なことは教員がどうにかできることではないけれども、勉強以前の問題を抱えている生徒が多いのも、低学力校と言われる高校に多いのは確かである。高校の授業料が無償になったのは、こういう高校には大きな恩恵であった。
 授業を教員2人の組でやるようになったからといって、それが直接生徒に学ぶことの楽しさを取り戻させること繋がるわけではないが、少なくとも今より静かで落ち着いた環境で教員は教え、生徒は学べることになる。そうした環境を作ったうえで、生徒が興味を示す授業を作っていくしかない。

 授業の2人体制は高校でできることであるが、小中学校のうちに児童生徒に丁寧な指導をしていくことの方がより重要であり効果的でもあると思う。高校の段階で生徒に学ぶことの楽しさを取り戻させることは容易ではない。もう高校生にもなると学ぶことを受け付けない心性を作り上げ、シャッターを閉じて呼んでも学びの世界に出てこない生徒もいる。私が授業に行くと、ほとんどの生徒の机の上に前の時間に配られた数学のプリントが、全く手も付けられず放置されていたことがあった。数学の教員は、たった一つの簡単なことを覚えればできるのにそれさえやろうとしない、と嘆いていた。今でもその机の上にプリントが放置されている光景を、その時感じた空しい気持ちとともに鮮明に記憶している。学ぶことは楽しいはずなのに、生徒はどこにその気持ちを置き去りにしてきたのだろう、この子らは小中学校時代をどう過ごしてきたのだろう、この子らにとって学校とは教員とはどういう存在なのだろう。次々と疑問が湧いてきた。
 できるだけ早い段階・小学校低学年の時から、勉強に遅れがちな子どもに対するサポートを現状以上に徹底してしなければならない。もちろん現状の教員だけではできるはずもないから、教員の数を増やさなければならない。働き過ぎが問題になっている教員に、今以上の負担を背負わすことはできない。そうやっても勉強の苦手な子どもは、能力が違う以上絶対になくなることはないだろう。しかし勉強とは、学ぶこととは、本来競争することではない。少しでもその子なりに前進できればいいのであり、前に進むことを楽しみ、学ぶことに対して意欲をなくさなければいいのである。教員は他の子どもと比較せずに、その子の進歩をその子自身と共に喜び、励ましながら、ゆっくりと教えていくしかあるまい。

 教育は優劣を競わせるためにあるのではない。教育はその子も持つ能力を少しでも伸ばしていくためにある。教員はそのことを肝に銘ずるべきである。