より良き教育を求めて ちからのブログ

30年の高校教師の経験から学校・教師・教育について考える

教員間いじめ ネガティブ・ケイパビリティ

 神戸市立東須磨小学校で起きた、教員間いじめが話題になっている。先輩の4人の教員がいずれも20代の教員4人をいじめ、被害者4人の内1人の教員が精神的に不安定になって、先月から休職しているという事件である。
 どんな被害を受けたかは、テレビなどで詳しく報道されているので簡単に述べる。

神戸市教育委員会が発表した被害(十数件)
 ●羽交い絞めにされ、激辛カレーを無理やり食べさせられたり、体に塗られたりした。(これについては動画が公開されているので、ご覧になった方も多いだろう。目や口に激辛カレーを塗りつけられた姿は実に痛々しい。)
 ●車の上に乗られたり、車内に液体をわざとこぼされたりした。(被害者が買った新車の上に加害者の教員が乗っている写真が公開されている。)
 ●拡大コピー用紙の芯で尻を叩かれる。
 ●背中を肘でぐりぐりと押し付けられたり、足を踏みつけられたりする。
 ●自宅までの送迎を何度も強要される。
被害者が訴えている被害
 ●熱湯の入ったやかんを顔につけられる。
 ●焼き肉のたれやキムチ鍋のもとなどを大量に飲まされる。
 ●ビール瓶を口につっこまれて飲まされ、飲み終えたビール瓶で頭を叩かれる。
 ●鞄に水(氷)を入れられ、鞄や内容物をびしょびしょにされる。

 教員はここに書いた被害を含め50件くらいの被害を訴えているようである。学校の教員間でも陰口・嫌がらせ・パワハラなどはいくらでもある。これは一般の会社と同じであろう。(先日元の同僚と電話で話したら、今年赴任した校長のパワハラが余りにひどいので、組合に入ったと言っていた。私が若かった頃は組合に入るのが当たり前だったが、現在組合に入る教員は半数にも満たない。)しかし、私は30数年教員をやっていたが、これほどひどいいじめは聞いたことがない。

 どうしてこういういじめが起こるのだろう。私は加害教員にネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)が欠如しているからではないかと思う。

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 ネガティブ・ケイパビリティとは詩人キーツが弟たちへの手紙の中でシェイクスピアが有していると述べたもので、「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」である。

 目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ちつかず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。世の中でノウハウもの、ハウッーものが歓迎されるのは、そのためです。 (『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』帚木蓬生 P8~9)

 人の脳には「分かろう」とする方向性が備わっているので、他人や物事を理解しよう、分かろうとする。その際使えるのは、自分の持っている知識と経験しかない。ネガティブ・ケイパビリティが欠如している者は、自分の乏しい知識と経験に当てはめて、即座に他人や物事を理解しようとするので、その乏しい知識と経験を超えた他人や物事をどうしても矮小化し、浅薄に理解したつもりになる。その結果、ネガティブ・ケイパビリティが欠如している者は、劣っているように見える者、自分とは違っている者、仲間ではない者、自分にその価値が理解できないことには不寛容になり、いじめや嫌がらせをすることになるのである。

 現代の教育で重視されているものはポジティブ・ケイパビリティ、すなわち問題を早急に解決する能力である。

 小学校から大学、大学院での試験、そして就職試験に至るまで、試験では問題の解決能力を調べます。そのためには、答えの出ないような問題は、はじめから用意されていません。答えを用意されている問題に、できるだけ敏速に正解を出す能力のみが試されるのです。
 いきおい、学校教育も、問題解決能力の開発に全力が傾けられます。 (P78)

 現代の学校教育ではポジティブ・ケイパビリティを開発することだけに重点が置かれ、ネガティブ・ケイパビリティは全く無視されている。

 キーツがただ一回弟たちへの手紙の中で述べた、ネガティブ・ケイパビリティを再評価し、世に知らしめたのは精神科医ビオンである。

 精神分析の大御所として、多くの若い分析家に接する機会の多かったビオンは、ある種の危惧を抱いていたのだと思います。精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて、目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく、精神分析学の知識で患者を診、理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。
 記憶も理解も欲望もなくと言ったビオンの指摘は、実に大切なところを突いています。なまじっかの知識を持ち、ある定理を頭にしまい込んで、物事を見ても、見えるのはその範囲内のことのみで、それ以外に広がりません。
 患者が発する言葉、ちょっとした振舞いにしても、精神分析学の記憶や理解があると、それは理論的にはこれこれにあてはまると簡単に片づけ、ありきたりの陳腐な解釈になってしまいます。 (P59)

 私はネガティブ・ケイパビリティとは、他人の話を聞く能力であるとも思う。今の世には、他人の話を聞けない人が実に多いと感じる。話が正しく伝わらないので、もうその人には話してもしかたない思うことが度々ある。いくら注意深く言葉を選んで話しても、聞く者が自分の乏しい知識と経験に当てはめ、私が言ってもいないことを付け加えて、誤った受け取り方をするのである。私の話をありのままに受け取ることができないで、悪意すら感じられる受け取り方をするのである。話をする私の方に問題があると考えてもみたが、私が全く言っていないことを私がそう言ったと言い、私が言っていることをねじまげ、自分が理解しやすいように変えて受け取っていることを考えると、相手にネガティブ・ケイパビリティが欠如していると考えざるを得ない。
 話を聞いて、すぐに解決方法を見つけ、行動に移せる人間を作り上げようとする現在の学校教育が、他人の話を聞けない人を作りだしていると思えてならない。この世にはすぐには解決方法の見つからないこと、すぐには理解できないことの方が、すぐに分かることよりよほど多い。すぐに分かろうとせず、分からないままに受け入れて、ずっと心にしまい込んでおくうちに、分かるようになることもあるのである。
 すぐに分かろうとしないで、不思議さ、懐疑の中にいられる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)の重要性を、教育は再認識しなければなるまい。